第2話:魔法の表計算

 

 カラン、と。

 先ほど老魔法使いを見送ったばかりのドアベルが、再び忙しなく鳴り響いた。


「ただいま! もう、この丘の登り坂、なんとかならないの? 毎日毎日、足が棒になっちゃう!」


 勢いよく飛び込んできたのは、現代的な魔法学院の制服を身に纏った人間の少女だった。

 十六歳のベルタは、肩で息をしながら、手にした最新型の『魔導水晶タブレット』をカウンターに放り出す。夕陽に照らされた彼女の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


「おかえりなさい。歩くのは健康にいいわよ。成長期の人間には特にね」


 ファルマは修復用の魔導ペンを置き、顔を上げずに応えた。


「健康以前に時間の無駄よ! 移動魔法のポータルを引く予算もないわけ? 街の図書館なんて、入り口から閲覧室までですらポータルがあるっていうのに。ここはいつ来てもインクと羊皮紙の古臭い匂いばっかり。鼻が曲がりそう」


「叡智の香りと呼びなさい。その『光る板きれ』には、知識の重みというものがないものね」


 二人のやり取りは、この数年繰り返されてきた日常の一部だ。ベルタは不満げに唇を尖らせながらも、自分の定位置であるカウンターの隅へ腰を下ろした。


 ファルマは、ベルタの横顔を盗み見るたびに、十二年前のあの日のことを思い出す。



 当時、店を任されて間もなかったファルマの元へ、師匠オルウェンがふらりと現れた。その背後には、泥だらけの服を着て、感情の抜け落ちたような瞳をした四歳の少女がいた。


『この子は戦災孤児でね。魔法の素質がエルフ並みにある。面白そうだから拾ったのだけど、これから龍の巣へ貴重な魔導書を掘り出しに行くから、連れて行けないんだ。よろしく!』


 オルウェンの言い草は、道端の石を拾ってきたかのような軽さだった。

 当然、ファルマは猛抗議した。自分は魔力が極端に少なく、自分のことだけで精一杯だ。人間の子供を育てるなんて、そんな高度な魔導より難しいこと、できるはずがない。


 だが、オルウェンは『まあ、なんとかなるよ。君ならね』と不敵に笑い、風のように去っていったのだった。

 後に残されたのは、途方に暮れるファルマと、小さな手で彼女の服の裾をぎゅっと掴んだまま離さない、泥だらけのベルタだけだった。



「……ファルマ? ぼーっとして、またオルウェンの悪口でも考えてたでしょ」


 ベルタの声で、意識が現代に引き戻される。

 少女はすでにタブレットを起動し、何やら複雑な画面を指先で操作していた。


「悪口ではなく、正当な評価よ。……ところで、学院の課題は終わったの?」


「あとでやる。あんなのアプリを走らせれば一分よ。それより、今日の店の売上、まとめてあげようか? 帳簿、まだつけてないんでしょ」


 ベルタは楽しげに笑うと、タブレットを宙にかざした。

 彼女が唱えたのは、学院で最新のトレンドとされる実務魔法だった。


「――【エクセール】、展開!」


 水晶から放たれた光が空間を切り裂き、ファルマの目の前に輝くグリッドマス目が出現した。

 ベルタが適当に積み上げられた領収書や買取伝票の上をタブレットでなぞる。すると、文字情報が光の粒となってグリッドに吸い込まれていった。

 数字が意志を持つかのように自動で整列し、複雑な税率計算や在庫の回転率が、瞬く間にグラフとなって浮かび上がる。


「はい、終わり。今月の利益は……まあ、こんな店にしては頑張った方じゃない?」


「相変わらず……情緒のない魔法ね」


 ファルマは表面上、鼻で笑ってみせたのだが。

 心の中では、自分が算盤そろばんを弾き、インクで三日かけて書き上げる計算を数秒で終わらせた事実に、激しい驚愕を覚えていた。

 


(……なんて早いの。それに、私の計算ミスまで修正されてる……)


 ファルマはその計算結果をこっそり自分の羊皮紙の帳簿に書き写すのが最近の習慣だった。『便利すぎるのも考えものね』と、誰に聞かせるわけでもない言い訳を胸の中で呟きながら。


 夜の帳が丘を下り、街の灯りがきらびやかな宝石箱のように輝き始めた頃。

 閉店の準備をしようとファルマが腰を浮かせた瞬間、店の入り口から重厚な気配が漂ってきた。


 先ほどの老魔法使いとは、全く持って格が違う。

 凪いだ海のように深く、底知れない魔力の圧。


 カラン、と鈴が鳴る。

 入り口に立っていたのは、高級な外套を羽織った、背筋の伸びた老人だった。その眼差しには、一国の軍師、いや、賢者かと思わせるほどの威厳がある。


「新しいお客さん? ごめんなさい、もう閉店……えっ、学院長先せ――」


 ベルタが呑気に声をかけようとしたが、ファルマはその言葉を遮るように彼女を背後に下がらせた。

 ファルマの指先が、カウンターの下に隠した魔導書に触れる。


 老人は、店内を見渡すこともせず、ただまっすぐにファルマだけを見つめていた。

 そして、彼は深々と頭を下げた。


「……ファルマ様。ご無沙汰しております。まさか、このような辺境で隠遁されていたとは」


 その震える声には、敬意と、隠しきれない畏怖が混じっていた。


「……おお、君は……」


 ファルマが思い出したように目を見開く。


「……まだ、生きていたのね。ヴィンセント」


「え? 学院長先生……ファルマって学院長先生と知り合いなの?」


 背後でベルタが驚きの声を上げた。



 それは、丘の上の小さな書店に、非日常の再会が踏み込んできた瞬間だった。



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