第11話
闇にぼんやりと青白い顔が浮かび……その顔が誰のものか理解した卯月は眼球が零れ落ちそうなど目を見開く。青白い顔も、月光を反射する緑が混じる銀髪も卯月がよく知る男のものだった。
「へび、にい?」
「ああ……卯月ここにおったんか。大丈夫……じゃあないようじゃなあ」
にっと八重歯を覗かせ暗がりに立つのは紛れもなく、死んだはずの
祭壇から降りた卯月は巳楽に駆け寄るが、足枷のせいでギリギリ手が届かないところまでしか行けない。つんのめる卯月に巳楽は手を伸ばしその体を支える。しなやかな腕に抱き留められて卯月はハッと巳楽を見上げた。
「蛇兄……なんで? 刺されたはずじゃ……」
「説明は後じゃ」
……なんだか、いつもより視線が高い気がする。確かに巳楽は長身だったがこんなに見上げる姿勢になっていただろうか? それに、なんで林の中から出てきてくれないんだろう。
卯月が訝しんでいるのを知ってか知らずか、巳楽は身を屈め足枷の鎖を素手で引きちぎった。まるで飴細工のように簡単に引きちぎられた鎖に卯月はますます不信感を募らせるが、全部見ないふりをする。巳楽の幽霊だろうが、自分が生み出した都合のいい幻覚だろうがなんでもいい。大好きな巳楽とこうしてまた会えるのなら、それでいい。
鎖を引きちぎるために身を屈めている巳楽の首に卯月は腕を回し、抱き着く。巳楽は驚いたように吐息を吐き出したが、長い腕を卯月の腰に回した。
「どうした?」
「蛇兄……
「……あいわかった」
卯月からの懇願に巳楽は聞き返したりせず、同じ色の瞳を見つめる。目の前の少女の中にある覚悟を見た巳楽は言葉少なに頷いた。右側だけ短く切られた髪を撫で、泣いたせいで赤く色づいた眦に巳楽は口付ける。何度も何度も瞼や頬に口付けられた卯月はくすぐったいとばかりに笑い声を漏らした。相変わらず冷たいが、それでも巳楽が生きて動いているということが心から嬉しい。だが、そんな幸せな時間は邪魔者により終わりを告げた。
「貴方……なぜ生きているのですか?」
いつの間にか戻って来ていた隼人が、信じられないものを見る目で巳楽を見つめている。それを見て今日の鷹埜宮は嫌に人間臭い表情をすると卯月は場違いな感想を抱いた。
何故生きているのかという隼人の問いに、巳楽は喉の奥でくつくつと笑う。その笑い方は、巳楽が心から愉快に思っている時にするものだと卯月は知っていた。見上げた巳楽は、にぃっと口角を上げ笑っている。
「はははは!!!! 俺を殺したいのなら
「天羽々斬……蛇殺しの神剣……?」
「化け物め……月姫様、その者から離れてください!」
「どうして? いくら蛇兄が忌み人だからって……」
「貴女様には見えないのですか?その男の下半身が!」
半ば叫ぶように言った隼人は持っていた懐中電灯で闇に隠れていた巳楽の下半身を照らす。
照らし出されたのは二本の足……ではなく、大蛇の胴体だった。どれだけの長さがあるのかわからないが、見えている部分だけでも三メートルはありそうだ。真っ白な鱗にところどころに緑のものが混ざっており、ああ、蛇兄の髪色ってこれと一緒なんだと卯月は気付く。卯月は妙に冷静で動じていない自分にも内心驚いていた。しかし、畏れは無く巳楽の隣から逃げたいとは思わない。むしろ、隼人から身を守るように卯月は巳楽の上着にしがみ付く。
そんな卯月を見た隼人は信じられないと眼鏡の奥の瞳を見開いた。
「な……何故ですか月姫様」
「うちの名前は月姫じゃない。
「その者に何かを吹き込まれたのですか? 教義をお忘れですか?」
「蛇兄を悪く言わないで……少なくとも、教義なんかよりうちの心の支えだったんだから」
きっぱりと言い放った卯月に隼人はがっくりと地面に膝をつく。マリアヴェールが地面に広がり、妙に絵になるのは隼人の見目がいいからだなという的外れな感想が卯月の脳裏に浮かんだ。
ゆらゆらと揺らいでいた隼人の菫色の瞳が巳楽を捉える。愉快そうに隼人を見ていた巳楽は胸に手を当て、紳士的に一礼した。
「貴方は一体……なんなのです?」
「久しいのお……宣教師殿、否……今は求導師サマじゃったかの?」
「宣教師……? 何を言っているのです? 私は……私はイジア教の求導師です。それに、貴方のような化け物など……知らないです……知らないはず……なのに……頭が……」
「ああ……永き生で耄碌してしまったのか……哀れな」
「やめて、ください……貴方がしゃべるたびに頭が割れるように痛む!!! ああ……あぁ……!!!!」
マリアヴェールごと頭を抱え込み、隼人は地面をのたうち回る。苦悶の声を上げ額を地面に打ち付ける隼人に卯月は恐怖心を覚え、巳楽の後ろに隠れた。巳楽も卯月を護るように腕を広げ、隼人を注視する。
やがて隼人の口から洩れる苦悶の声は、引きつったような笑い声に代わっていった。そして、紅潮した頬に手を当てた隼人は恍惚とした表情で月を仰ぐ。表情自体は晴れ晴れとしているのだが、いかんせん……額を打ち付けたせいで血が流れているのと、瞳が虚ろなのも相まって異様としか言いようがない。
「ああ……イジア様、私に魔を退ける力を貸してくださるのですね! 愛すべき信徒を犠牲にするのは心が痛みますが……彼らも神の力となるなら本望でしょう!」
「何を言ってるの……?」
まるで誰かと会話をしているようだった隼人は大きく両手を広げた後、首から下げたロゼリオを握りしめ、卯月のよく知る祈りのポーズを取る。しばらくの間の後、墓地に続く道から一人、また一人と村人が祭壇へとやって来た。その数は両手で数えられるほど……だが、先程隼人を呼びに来た村人や、教会の近くで暮らす者ばかり。そして、彼らは隼人の前に跪いた。
「……まさか! おい、やめんか!!!」
「皆さん、私に力を貸してください」
「はい、求導師様」
その光景を見る巳楽は最初こそ訝しげだったが、はたとなにかに気付いたらしく声を上げた。だが、時すでに遅く隼人はロザリオを右手に持ち、左手を村人たちに翳し、まるで何を掴み引き抜くような動作をする。その途端、村人たちは糸が切れた様に地面に倒れ込んだ。びくともしない村人たちは、まるでマネキンのようで……それはつい先ほど捨てられた紗季と全く同じだと、気付いた卯月はぞっとする。この考えが間違いであって欲しいと願うが、どんどん険しくなる巳楽の表情がそれを否定した。
そして隼人は何かを飲み込むように、左手を口元に宛てた後……ロザリオを躊躇なく左目に突き刺す。ぐちゅりという音の後に、眼窩から血が噴き出し隼人の眼鏡を汚した。
「愛すべき信徒と私の眼球を捧げます! イジア様、お力を!! 魔を退ける力をっ……ごぷっ……」
「卯月っ見るな!」
隼人の言葉に途中からごぼごぼといった水音が混ざり、まるで溺れているかのような音に彼の声はかき消された。巳楽は咄嗟に卯月の目を塞いだが、その直前卯月は見てしまった。隼人の背中から何かが生えてくるのを……。メキメキバキバキと不快な音が響くのに耐えられず卯月は耳を塞いだ。まるでできの悪いB級ホラーでも見せられている気分になる。
耳を塞いでいても頭上で大きな鳥が飛んでいるかのような羽ばたきが聞こえ、目を塞ぐ巳楽の手に力が籠るのを卯月は感じた。このまま何も見ないままでは巳楽の足手纏いにしかならないのは卯月もわかる。巳楽の腕を軽く叩いて大丈夫だからと伝えると、視界を隠す掌が退かされた。
羽ばたきがする方に目を向けると、母が死んだ日に見た異形が自分たちを見下ろしている。猛禽類の胴体に、頭の代わりの大きな眼球……そして、胴体からは隼人の上半身が生えていた。隼人の左目からは相変わらず涙のように血が溢れ続けている。
「な……にあれ……」
「あれがお前さんらの言う『イジア様』じゃよ」
「あんなものが神様なの?」
隼人だったモノは大きな眼球で二人をぎょろりと見つめた。胴体から生える隼人の頭からマリアヴェールがぱさりと落ちる。露になった隼人の白い顔には……この期に及んでもなおも穏やかな表情が浮かんでいて、余計に不気味だ。
「……多分、ここに惹きつけられた村人以外の奴らも……喰われてしもうとるな」
「喰われたって? どういうこと?」
「魂を喰らったんじゃ」
「本当は、こんなことしたくないのですよ……? 月姫様も巻き込んでしまいますから……ですが、なぜか貴女様だけはイジア様とは繋がってはくださらない……」
異形になり果てても、なおも求導師様として振る舞う隼人に卯月は怖気を覚える。彼にとって異形こそが正しい姿なのだと突き付けられた気がした。
異様な見た目に意識が向いていたが、隼人の言葉もなにかと物騒だということに卯月は気付く。彼の言う『繋がる』とは一体なんだ? 村人の様子がおかしいことに関係があるのだろうか?
そもそも、卯月を巻き込むというのもよくわからない。
「そりゃお前さんの言う『繋がる』には、あれが必要なんじゃろ?」
「あれ?」
「この村の特産品の青菜じゃよ」
「あの苦いやつ……だよね?」
「苦い……? あの青菜は甘い……とまではいかずとも、苦みは無いはずですよ」
「まあ……苦かったら村内とはいえ、特産品として親しまれんだろうしな。じゃが、それは普通の状況じゃないんじゃよ」
巳楽は懐から話題に上がっている青菜を取り出した。青々としたそれは、一日一回は目にする慣れしたんだもの。確かに言われてみればあんな苦いものをなんで大人たちは普通に食べいてるんだろうかとは思っていた。フキノトウみたいに子供には良さがわからないものなのか、とも思ったが他の子供たちは幼い時から食べていたと言っていたはず。
ああ、でも……亡き母が作ってくれた料理にはあの青菜は避けられていた。母は知っていたのだろうか、特産品が良くないものだということを。どうやら、自分は母から色んなことから守られていたらしい。ならばこそ……そんな母を『悪影響だから』という、ふざけた理由で殺した隼人が許せない。
腹の底でふつふつと怒りが湧き上がるのを感じた卯月は隼人を睨みつけた。そんな卯月を知ってか知らずか、巳楽は指先で空中にくるりと円を描く。
「まあ、とにかく……あの青菜を摂取し続けると廃人になるんじゃ。そして鷹埜宮の操り人形の出来上がりってわけじゃな」
あんな風にと巳楽は事切れている村人たちを指差した。村人たちは皆一様に幸せそうな表情を浮かべているのを見た卯月は、一歩間違えれば自分もああなっていたのか……と息を飲む。喜んで命を差し出した結果、産み落とされるのはこんな化け物でした、なんて御免こうむりたい。
「操り人形だなんて人聞きの悪い。敬虔なイジア教の信徒になるだけです……ですが、月姫様が繋がらなかったのは……」
「率先して食べとらんからじゃな。食べても、俺の力で浄化しとる」
「……やはり……やはり、蛇は魔の使いですね。よくも、神嫁様を穢しましたね!」
「はっ!! 何を言う、烏兎川の巫女とは元々は俺の眷属じゃぞ」
「貴方のものではない! 神嫁様が魔の眷属ですって?」
「……ここまで言ってもわからんのは流石に哀れじゃぞ……まあよい、改めて名乗らせてもらうから、心して聞くが良い」
呆れたようにため息を吐き出した巳楽だったが、真っ直ぐに隼人を射竦めた。その強く揺らがない瞳に隼人は誰かを思い出しそうになるが、考えを払うように首を振る。
「我は大カガチ……この土地の神よ」
そう巳楽が名乗った瞬間、彼の纏う空気が凛と冷たいものへと変化する。それはまさに神というにふさわしい威厳があった。だが、やはり卯月には恐怖という感情は無い。むしろ、どこか懐かしいとすら感じる。まるで昔に出会ったことがあるような、そんな気がするのだ。
「この土地の神の座を簒奪して五百年余り……もう十分じゃろ。ええ加減、神の座を返してもらおうか」
すっと長い指で隼人を指差した巳楽は冷たい目で相手を射竦める。簒奪者と呼ばれた隼人は愕然とした表情を浮かべ、巳楽を見下ろした。隼人の方が高い位置にいるはずなのに、巳楽の方が優位に立っているように見えるのは何故だろうか。
「私は奪ってなどいない!!!」
頭を掻きむしる隼人に呼応するように、異形が翼を羽ばたかせ羽根を打ち出した。羽根は刃のように木々を切りつけ、辺りを滅茶苦茶にする。当然、巳楽と卯月もそのターゲットになり鋭い羽根が迫ってくる。巳楽は卯月の肩を抱き、もう片手を軽く振った。それだけで、羽根は勢いが殺され地面に落ちる。巳楽に怪我一つ付けられなかったことに隼人は奥歯を砕けそうな位強く噛み締めた。
「足りない……まだ足りない!!!!」
隼人は自分の両腕を見下ろす。そして、何かを探すように辺りを見回した。彼の菫色の瞳は自分が命を奪った村人たちを捉える。ふわりと優しく笑った隼人は村人達の死体の上に降り立ち、覆いかぶさった。一体なにをするつもりだと疑問符を浮かべる卯月の目の前で、隼人は村人の体に歯を突き立てる。肉に食らいつき、血が飛び散るのも構わず引きちぎった。そして、そのままニチャニチャという音を立て咀嚼する。ごくりと嚥下した隼人は、極上のワインを飲んだかのような陶酔した表情を浮かべた。
美しい顔を血で染めながら、隼人は肉を食む。血を啜り、肉を食むごとに異形はどんどん姿を変えていく。
「……鳥葬……ってこういうことだったんだ……」
「一応鳥たちもおこぼれには預かっとったようじゃが……基本的にはアレが喰らっとたのよ」
もう、こんな凄惨な光景にも何も思わなくなってきた卯月は呟いた。もう、すべてが悪い夢のようにしか思えない。……自分たちの信じる神に文字通り身を捧げることが出来て幸せじゃないか、という言葉は流石に飲み込んだ。それを言ってしまうと、後戻りが出来なくなってしまうと理性が告げている。
「は……はははははは!!! 力が漲ってきます!!」
高笑いする隼人と異形の一対の瞳が卯月を捉えた。その瞬間、隼人がにたぁ……と笑う。求導師とも、隼人としてでもない、狂気を孕んだ笑顔を見た卯月は理解してしまった。もう、彼は鷹埜宮隼人ではなくなってしまったのだと。それは、神に成ったのではなく……ただの化け物に成り下がってしまった。超えてはならない一線をたった今超えてしまったのだから。
「ねえ……月姫様……貴方様を食べたら、きっと私は完璧なイジア様に成れるのです」
「成れるわけがない」
「いいえ……いいえ! 成るのですよ……さあ、一つになりましょう?」
甘く蕩けるような笑顔で隼人は囁いた。だが、卯月からしたら悍ましいの一言に尽きる。頑として首を縦に振らない卯月に隼人は溜息を吐いた。そして両手を伸ばし卯月に近づく。だが、その直前巳楽の尾に腹部を殴打され木に打ち付けられた。
「……お前さん……その無駄にデカい図体はハリボテか?」
「何故……何故何故!!!! 私の手は届かないのですか!? 信徒たちの信仰を一身に受けたのに……!」
悔し気に呻いた隼人はまた、宙に浮かぶ。そして、虚ろな瞳で卯月を見つめた。まるで縋るような表情を浮かべる隼人だったが、卯月の心は一ミリも動かない。この人はどこまでも自分のことを利用することしか考えていないのだとわかってしまったから。確かに隼人のことは好きにはなれなかったけれど、生まれてきてから甲斐甲斐しく世話をしてくれたからそれなりの情はありはしたのに。……こんなことになるまでは、神嫁という立場を受け入れるくらいには。
なのに、それを先に裏切ったのは隼人じゃないか。
だが、そんな卯月の気持ちは隼人には届かない。言葉にしたとしても理解はしてくれないだろう。彼は、そういう人だから。
「……仕方ありませんね」
やれやれとばかりにため息を吐き出した隼人は、真っ直ぐに卯月を指差した。その表情はひどく憐れんでいるように見えて、癪に障る。
「手が届かないのなら、先に壊してしまえばいいのです。貴女様には美しいままでいて欲しかったのですが」
そういって隼人はまた翼を羽ばたかせる。また羽根を飛ばすつもりらしい。
「さっき蛇兄に防がれてたのに」
「……いや、力を取り込んだのは本当らしい。様子がさっきと違う」
巳楽は固い声で言った。その言葉に卯月は警戒するように身を固くする。隼人が翼を羽ばたかせる度に、空気がうねり木々が騒めきだした。羽根だけでなく、木の葉や石なども巻き上げた隼人は祈るように手を合わせる。この期に及んでまだ求導師ごっこをするつもりなのかと卯月は呆れた。
「貴方方にはもうイジア様は微笑んでくださらないでしょう。でも大丈夫です、一つになってしまえば問題はありませんから」
「来るぞ」
ばっと隼人が両手を広げるのに合わせ、巻き上げられた羽根や木の葉や石が突風と共に卯月を目掛けて飛んでくる。巳楽は腕を振って払おうとするがいかんせん数が多すぎて、すべては防ぎきれない。捌ききれないと察した巳楽は卯月の体に覆いかぶさり、身を挺して彼女を守った。強く抱きしめられて心臓が跳ねるが、直後に聞こえる固いものがぶつかる音に卯月は顔を青くする。それも、一つや二つじゃなくたくさんのものが巳楽の体を打ち付ける音と、隼人の愉快そうな笑い声が聞こえて来て卯月は身じろぎした。だが、それは長い腕に寄って阻止されてしまう。
「蛇兄……! 離して! このままじゃ……」
「大丈夫じゃ」
大丈夫だと微笑む巳楽に何かがぶつかったらしく、頭からは血が滴っていた。青白い顔を汚す血液に卯月は首を振る。その間にも隼人の攻撃は止まらなく、巳楽の体は傷ついてしまう。
「大丈夫じゃない!」
「なあ、卯月」
「なに……?」
「俺を
「うちは、ずっと蛇兄のこと信じてる」
きっぱりと言い切った卯月に巳楽は心底嬉しそうに笑った。卯月の手を引いた巳楽は彼女を抱き上げる。片腕で卯月を抱いた巳楽は、未だに高笑いをしながら攻撃を続ける隼人を見据えた。
身を寄せ合う二人を見た隼人は忌々しそうに巳楽を睨む。
「その汚れた手を離しなさい!」
隼人の怒号と共に、今度は風が刃となり木々を倒し巳楽の首を狙う。今までで一番殺意が高い攻撃に卯月は身を竦めるが、巳楽は目を逸らさない。
すぅっと息を吸い込んだ巳楽は隼人に片手を翳した。そして、その手をぐっと握りこむ。
その瞬間、隼人の翼の一枚がぐしゃりと折れ、ひしゃげた。
「は……? 私の、翼が……?」
「おお……思ったより、力が強いな」
巳楽は慣らすように数度手を握りこんでは開く。そのたびに、異形の翼が、身体が何かに握りつぶされるようにひしゃげていった。何が起こっているのか理解できていなかった隼人を痛みが襲う。とどめとばかりに巳楽は、ぎょろりと動く眼球を睨みつけ手を握りしめた。
ぱあんと音を立て、眼球がはじけ飛び隼人は聞くに堪えない絶叫を上げ、地面に墜落する。
地面にのたうち回りつつも、何とかふらふらと隼人は宙に浮く。その姿は、もはや憐れに見えてきて卯月は目を逸らした。目を逸らされた隼人はひどく傷ついたような……今にも泣きだしそうに表情を歪める。
「……月姫様……? 私の何が嫌なのです? 私はこんなにも貴女様を愛していますのに……幼い頃から大事に大事にしてきたでしょう?」
「それは……うちが神嫁だからでしょ。神嫁じゃなかったら、あんたはうちなんて眼中になかったんじゃない?」
「そんなこと……ありませんよ」
「ううん……この期に及んで、うちの名前を一度も呼んでくれないのがその証拠。うちは……烏兎川卯月を愛してくれる人と共に生きる」
力強い瞳で隼人を見つめた卯月はきっぱりと言い切った。その言葉を聞いた隼人は両腕をだらんと垂らし、虚空を見つめる。その顔は虚ろで顔の作りは同じなのに、もはや別人のようだった。
そして、彼の体は異形からドロドロと溶けていく。ぼとぼとと音を立て、肉片が、内臓が、羽根が地面に降り注いでいく。本人もそれに気付いて慌てて、地面に降り立ち細い腕で融け落ちた破片を掻き集めた。
「どうして! なんでですか!? イジア様が……私が……溶けていくなんて!」
「もう、潮時なんじゃよ」
いつの間にか、人の姿に戻っていた巳楽は両の足で隼人に歩み寄る。衣服などはボロボロだが、それでも気高い巳楽を隼人は呆然と見上げた。
「なぜ、貴方は……消えないのです? なぜ、私だけ……」
「最期に一つ教えてやろう。自分が何者か曖昧な者に確固たる『自分』がある者が負けるわけないじゃろう。神、ひいては怪異など存在がすべてなのよ」
「何を言っているのですか? 私はちゃんと私です……イジアで……違う、私の名は鷹埜宮隼人……で……あれ……? 私はなんで神に成りたかったんでしょう……? ああ……金の瞳が綺麗なあの子が……神に仕えていたから……」
「……人の身には永すぎる生にしがみ付いた代償じゃな。ただの人が神に成り替わろうなど、烏滸がましい」
もはや隼人は上半身以外、すべてが融けていた。内臓が零れ落ち、地面に広がっているその姿は明らかにもう長くないことは一目でわかる。それでも生にしがみ付こうと足掻く隼人を、巳楽は懐から取り出した煙管を吹かしながら見下ろしていた。卯月はゆっくりと巳楽の隣に歩み寄る。
「蛇兄」
「おお、卯月。どうする、こやつはご母堂の仇じゃろ? 仇を打つなら手を貸すが」
「……つきひめさま……」
地面に這いつくばりながら、隼人は卯月に向かって手を伸ばす。だが、卯月は眉間に皺を寄せ、いやなものを見るような視線を隼人に向けた。その視線には明らかな侮蔑と嫌悪が見えて、隼人の顔は絶望に染まる。
「このまま放っといても……死にそうだけど」
「そうじゃなあ……夜明け前には事切れるとは思うがなあ。なあ、お前さん楽に死ねるといいのう?」
「どういうこと?」
「……ほれ、林を見てみろ」
巳楽が指差す先を見ると、木々の間には爛々とたくさんの瞳が浮かんでいた。そういえば、妙に梟をはじめとする夜行性の鳥たちの声が聞こえる。
「お前さんが何百年も鳥葬なんてするから、ここら一帯の鳥たちは人の味を覚えてしもうてなあ……」
「……やだ……いやだ……私は求導師ですよ……?」
「いや、そんなもん鳥たちはわからんじゃろうて。今は俺の神気に怯えてこれ以上は近づいてこんが……離れたら格好の餌じゃな」
「た、助けてください月姫様」
「……みんなと同じでいいと思う。だって、求導師サマだもんね?」
「そんな……」
「まあ、鳥たちが食わんかったとしても火炙りは免れんな」
そういえば、いやに村の方が明るいと思っていたが……耳を澄ませればゴウゴウと燃える音が聞こえる。たしか村人が畑に火が放たれたとか言っていたか……消火しきれなかったらしい。
「もしかして、蛇兄が畑に火をつけたの?」
「あんな青菜燃やしたほうが世の為人の為じゃろうて」
「碌なもんじゃなさそうだもんね」
視線を隼人に戻した卯月は、考え込むように頬に指を当てるが、すぐにうんと一つ頷いた。
「蛇兄、うち鷹埜宮をどうするか決めた」
「おっどうするんじゃ?」
「確かにお母さんを殺したのは許せないけど……こんな奴のためにうちは手を汚したくないし、一思いに楽になんてしてやらない」
「ほう?」
「だからね、このままにする。鳥葬だろうが火葬だろうが……精一杯苦しんで死ね」
長年手塩にかけて育ててきた少女からの死刑宣告に隼人は絶叫する。だが、そんな声はもう聴こえないとばかりに、卯月は隼人に背中を向けて歩き出した。その背中に助けを求めるように隼人は腕を伸ばし、どうにか這おうとする。しかし、卯月の制服姿は巳楽の黒衣に隠されてしまった。そのことに絶望した隼人は、ぱたりと手を下ろし情けなく泣きじゃくる。
卯月と巳楽が祭壇を去った瞬間、周りで死肉を狙っていた鳥が一斉に群がった。生きたまま肉を啄まれる隼人の断末魔が響き渡るが、直ぐに鳥たちのけたたましい鳴き声にかき消されてしまう。
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