第5章:抱擁の温度

時間が止まったような沈黙。


私の剥き出しの告白と、涙と、そして滑稽なほど無防備な身体。それら全てをぶつけられた奏太は、石像のように硬直していた。


​「……ねーちゃん」


​長い、あまりにも長い沈黙の後、奏太の口から漏れたのは、掠れた私の呼び名だった。その声には、先ほどまでの恐怖や困惑ではなく、深い、底なしの驚きと、そして痛ましいほどの悲しみが混じっていた。


​「……本気、なんだな。練習なんかじゃなくて、俺のこと……」


​私はコクコクと、子供のように頷くことしかできなかった。涙で視界が歪み、彼の表情がよく見えない。


​奏太はゆっくりとベッドから下り、私の前に立った。私が望んでいたのは、このまま彼に押し倒されることか、あるいは烈火のごとく怒鳴りつけられることだった。けれど、彼はそのどちらもしなかった。


​「……ごめん。ねーちゃんに、そんなこと言わせて」


​奏太の声は、驚くほど優しかった。彼は、床に落ちていた私のスエットを拾い上げ、それを優しく私の肩にかけた。生まれたままの私の身体が、彼の体温とスエットの生地に包まれる。


​「俺にとって、琴美ねーちゃんは……内外完璧で、勉強もできて、綺麗で。自慢の、尊敬する姉ちゃんだったんだ。……そんな偉大な姉ちゃんに、こんな……こんな辛い思いをさせてたなんて、俺、全然気づかなくて……」


​奏太の手が、私の肩をしっかりと掴む。そして、彼は私を静かに抱きしめた。


​「っ……!」


​それは、恋人同士の熱い抱擁ではなかった。


傷ついた妹を慰めるような、あるいは壊れ物を保護するような、ひどく理性的で、けれど温かい抱擁。

彼の胸に顔を埋めた瞬間、私は自分がまだ「姉」という檻の中に、彼によって優しく連れ戻されたことを悟った。


​「気持ちは……痛いくらい伝わった。でも、今日はダメだ。俺も、頭が混乱してる。……ねーちゃんも、一度落ち着こう」


​奏太の心臓の音が、私の耳元でトクトクと規則正しく刻まれている。


キスも、その先の破滅も、そこにはなかった。ただ、一人の男としての弟の、精一杯の誠実さと戸惑いだけがあった。


​私は彼の腕の中で、再び涙を流した。それは、拒絶された痛みではなく、彼の優しさが、私の狂気を静かに霧散させていくことへの、敗北の涙だった。



​【幕間:敗北の安堵】

​奏太の部屋から自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。肩にかけられたスエットからは、まだ彼の匂いがする。私はそのスエットをきつく抱きしめ、声を殺して泣いた。


​(……バカね、私は)

​生まれたままの姿でぶつかれば、すべてが壊れて、新しい関係が始まると思っていた。けれど、奏太は壊さなかった。彼は、壊れかけた「姉弟」という関係を、自らの優しさで必死に繋ぎ止めたのだ。


​彼に抱きしめられた瞬間、私は確かに女として見られたかった。けれど、同時に、彼が私を軽蔑せず、「尊敬する姉ちゃん」として扱ってくれたことに、心の底から安堵している自分もいた。


​明日、彼は美咲さんの家に行く。その事実は変わらない。けれど、今夜の彼の抱擁の温度は、間違いなく私だけのものだ。


​「……おやすみ、奏太」


​私は、彼の匂いに包まれながら、微かな希望と、消えない切なさを胸に、静かに目を閉じた。

完璧な姉の仮面は、明日また、貼り付け直せばいい。

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