第2話 妹は僕をママと呼んだ

 妹は、僕を「ママ」と呼んだ。


 最初は冗談だと思った。まだ言葉も覚えきれていない幼い子どもが、ただ音を真似しただけだと。けれど、その呼び方は何度も繰り返され、やがて確信に変わった。


 ——この子は、本気でそう思っている。


 僕の名前はデボン。ルーマニアの片田舎で育った。


 幼い頃から、自由というものを知らなかった。人は誰かに従い、逆らえば罰を受ける。そんな世界で、僕らは当たり前のように生きていた。


 父は、ロシア軍に連れていかれたまま戻らなかった。死んだのかどうかも分からない。ただ、ある日を境に「いなくなった」。


 十六歳の頃、母は再婚した。


 最初、義父は優しかった。家族思いで、ようやく普通の生活が手に入るのだと、僕は信じた。


 ——だが、それは長くは続かなかった。


 ある日を境に、義父は別人のように変わった。


 母に手を上げる。弟のアイゼクにも容赦しない。家の中は、常に緊張と恐怖で満ちていた。


 それでも、僕らは生きるしかなかった。


 僕は軍に入った。十七歳だった。選択肢なんて、最初からなかった。弟は銃の製造工場で働き始めた。朝から晩まで、十五時間。


 弟が銃を作り、僕がそれを使う。


 まるで、どこかで歪んだ輪の中に閉じ込められているようだった。


 そんな生活の中で、母が妊娠した。


 生まれてきたのは、女の子だった。


 アドリアナ。


 血は半分しか繋がっていなくても、僕らにとっては確かな家族だった。初めて、「守りたい」と思えた存在だった。


 けれど、義父はその子を拒んだ。


「女は要らない」


 そう吐き捨て、母に暴力を振るい、僕らが隠していた貯金を見つけては奪い取った。


 やがて義父は家を出ていった。


 残されたのは、僕とアイゼクと母、そして生まれたばかりの妹。


 父親という存在は、もうどこにもいなかった。


 それでも、僕らは妹を育てた。


 弟はわずかな貯金で服を買い、僕は軍の合間に世話をした。


 義父に嫌われたその子は、僕らにとって唯一の光だった。


 しばらくして、母は別の男を連れてきた。


 結婚はしなかったが、その男は優しかった。少なくとも最初は。


 だが、アイゼクはずっと警戒していた。


「どうせ、また同じだ」


 弟の言葉は、当たっていたのかもしれない。


 妹が二歳になった頃、異変に気づいた。


 アドリアナは、母を見ない。


 義父にも近づかない。


 代わりに——僕とアイゼクにしがみついていた。


 そして、ある日。


「ママ」


 そう言って、僕の服を掴んだ。


 言葉を失った。


 隣で、アイゼクが苦く笑った。


 ——誰も、この子を愛していない。


 その現実を、突きつけられた気がした。


 後で知った。


 妹にそう教えたのは、アイゼクだった。


 僕を「ママ」と呼べと。


 自分を「パパ」と呼べと。


 それがどれほど歪んだことか、分かっていたはずなのに。


 それでも僕らは、それを否定できなかった。


 この子を守れるのは、自分たちしかいない。


 そう思ってしまったからだ。


 僕らは決めた。


 ——二人で、この子を育てる。


 だが現実は甘くなかった。


 金は減り続け、生活は限界に近づいていった。


 僕らは都市へ向かった。


 すべてを変えるために。


 そこで、彼女と出会った。


 レメ。


 彼女は、僕の世界を壊した。


 そして——救った。


 友情は、やがて愛に変わった。


 だがその愛は、長くは続かなかった。


 彼女は、深夜の事故で死んだ。


 あまりにも、呆気なく。


 それから間もなく、母も死んだ。


 薬物の過剰摂取だった。


 僕は泣いた。


 人生で、初めて、壊れるほどに泣いた。


 どんな関係でも、親は親だった。


 失って初めて、それを思い知った。


 ——それでも、時間は進む。


 今、僕らは三人で暮らしている。


 アイゼクと、アドリアナと。


 来月、僕はパリに行く。


 モデルとして。


 ようやく手に入れた自由のために。


 だが、ひとつだけ分かっている。


 金では買えないものは、確かに存在する。


 そしてそれは——


 もう二度と、戻ってこない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る