第46話 湿地帯の『カビ王国』と、乾燥の魔王
アイゼンの鋼鉄のような青空を後にし、高速行政執行艦「クリーン・スカイ号」が進路を南に取ると、窓の外は一変して不透明な緑の霧に包まれた。南方の湿地帯、小国「モイス」。ここは年間を通じて湿度が90%を下回ることがなく、あらゆるものが腐敗とカビの浸食に晒される「停滞の地」である。
「……陛下、見てください。窓が結露で何も見えません。おまけに、先ほどから私の日誌が、餅のようにふにゃふにゃになっております」
バルガスが、湿気で波打つ書類を掲げて嘆いた。
「……これだ。俺が一番嫌いな環境だ。……テトラ、船内の除湿魔法を最大出力にしろ。……書類が死ぬのは、事務官にとっての死と同義だぞ」
俺は、アイゼンで贈られた「鋼鉄製ハンコ押し機」が、湿気で錆びないか気が気ではなかった。
1
クリーン・スカイ号がモイスの王都「シメシメ」に着陸すると、出迎えたのは、全身を撥水加工されたボロ布で覆った国王湿布(しっぷ)三世だった。
「……おお、魔王殿。よくぞこの……ゲホッ、湿っぽい国へ……。ご覧の通り、我が国の公文書館はカビに飲まれ、納税記録も、婚姻届も、すべてが緑色の塊と化してしまいました……」
王が指差した先には、かつて王宮だったはずの建物が、巨大なマリモのような苔とカビに覆われて鎮座していた。
「……これはひどい。……くくく、魔王様! これはもはや生物学的なテロですな! 紙を食らうカビの進化……、研究対象としては最高に不快ですぞ!」
エドワードが、防護服を着ながらカビの胞子を採取して笑った。
「……笑い事じゃないわ。……事務が止まれば、国が止まる。……魔王様、この国の『除湿』、予算度外視で執行しましょう。……私の計算式が、湿気で滲むのは耐えられない!」
テトラの目が、怒りで乾燥した光を放った。
2
「……リリナ、アルス、準備はいいか」
「はい、陛下! 特製『重曹入り防カビ燻蒸剤』、100トン用意いたしました。……これを焚けば、どんな頑固な黒カビも、光り輝く白さを取り戻すはずですわ!」
リリナが、聖女の祈り……ではなく、科学的な防毒マスクを装着して宣言した。
「……俺は、あのマリモみてえな苔を、物理的に削ぎ落とすだけだ。……おい、騎士団! 磨き残しがあったら、お前らを泥沼に放り込むぞ!」
アルスが、乾燥した薪を担いで騎士たちを煽る。
3
『あはは! 見て、アストレア! 魔王様が、世界で一番巨大な「ドライヤー」になろうとしてるわ! 湿気た神話なんて、誰も読みたくないものね!』
雲の上で、ノルンが面白そうに霧をかき回している。
彼女たち女神は、この「じめじめした絶望」が、魔王の「カラカラした合理性」によって焼き払われる瞬間を、一級のエンターテインメントとして観測していた。
『ねえ、魔王様。いっそのこと、太陽の加護を10倍にしてあげようか? 街ごと干物になっちゃうかもしれないけど!』
(……だめがみ、極端な真似をするな。……精密な温度管理こそが、文化財(書類)保護の基本だ)
4
「……全砲門、開け! ……ただし、撃つのは火薬じゃない。……魔王領特製『超微細・シリカゲル弾』だ! 都市全体を、一粒の湿気も残さず吸い尽くしてやれ!」
ドォォォォン!!
クリーン・スカイ号から放たれた無数の弾丸が空中で弾け、雪のような乾燥剤が街を覆った。
一瞬にして霧が晴れ、マリモのようだった王宮から水分が奪われ、茶色の枯れ草へと変わっていく。
「……ああ、私の手が……カサカサに! 潤いが奪われる……! だが、書類の文字が見える! 文字が見えるぞ!!」
国王が、カビの落ちた古文書を抱えて涙を流した。
俺は、乾燥して軽くなった「ハンコ押し機」を王宮のバルコニーに設置した。
「……ゲオルグ、国王。……掃除の後は、メンテナンスだ。……二度とカビを寄せ付けない『空調管理法』を、テトラが今から講義する。……耳をかっぽじって聴け」
モイスの国に、数百年ぶりの「乾いた風」が吹き抜けた。
俺の視察旅行は、ついに気候すらも事務的に制御し始め、世界の隅々まで「快適な低湿度」を広げていく。
「……だめがみ。……次は、お前のその『湿っぽい同情心』も、乾燥機にかけてスッキリさせてやろうか?」
俺の皮肉を乗せて、クリーン・スカイ号は、パリパリに乾いたモイスの空を高く舞い上がった。
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