「これは〇〇な話です」と一言で説明できる作品が好きな人には、向かないかもしれない。
逆に読み終えてから何の話だったかを誰かと話したくなる作品が好きなら、たぶん刺さる。
ラブコメではある。
ゴスロリ衣装で語尾にハートを振り撒くメスガキ後輩と、咳払いを口で「こほん」と言う黒髪の優等生。間に挟まる主人公は文芸部部長、アロハシャツに学ラン。配役はかなり強い。ただ、それだけを期待して開くと、たぶん序盤で躓く。
創作論コメディでもある。
長文タイトルの是非、ざまぁと復讐劇の差、未完と完結の美学。Web小説を書く人なら膝を打つ話が次々出てくる。しかし、それを目当てに読むと終盤で別方向の刃が来る。
青春小説ではある。
文芸部の褪せた空気、ママチャリで坂を上る夕方。胸が痛くなる題材は揃っている。とはいえ、主人公の一人称は青春の真っ只中の若者というより、もっと斜に構えており癖の濃い語り口だ。
ひとつだけ確かなのは、会話のラリーが単純に気持ちいいこと。論語、中島敦、カフカを振り回す主人公と、「ハオい」「チル」「エモい」で応戦する後輩。声を出して笑う回が何度かある。
──じゃあ、何の話か。
それは自分の言葉で見つけてほしい類の作品だった。レビューで先に種を明かしてしまうのが惜しい。
あえて言うなら、煽りと教養と中指で世界を殴って回る部長がいる、そういう話です。
千古不易さんの文章は、煽り合いの最中にふと静けさが滲む独特の距離を持っていて、そこに何度も足を止めさせられました。序盤のリズムに乗れたら、たぶん最後まで連れて行かれます。
ちょっと連れて行かれてみてください。
読者であっても、書き手であっても、ぜひ読んでほしい作品です。
高度な文章技法、目まぐるしい青春コメディ、そして夜更けにふと反芻してしまうような細やかな創作論が、この作品には詰まっています。
自分はこの作品が生み出す、文字から広がる想像力と、韻を踏むように残り続ける余韻をとても楽しませていただきました。
作者自身の分身のような存在を通して、「自分とは何か」を追い続ける過程が描かれていく中で、同じく書き手であり読者でもある私は、まるで“不在の第五者”のように、その文脈を辿り、自分自身の立ち位置まで見つめ直していた気がします。
これは、創作論そのものを物語へ叩き込んだ、とても大胆で挑戦的な作品です。
官能と理性を挟み込むような物語であり、創作論を真正面から語りながら、それでもなお、三人の象徴的な女性たちの間で読者を深く迷わせてくる。
おすすめです。
カクヨムに溢れる「PVを稼ぐ方法」や「小説の書き方」。
そんな書けない作家のマウント創作論やノウハウに踊らされるくらいなら今すぐ閉じて、この作品を読んでほしい。
現在公開されている3章までの表題は、「長文タイトルは是か非か」「『ざまぁ』と『復讐劇』の決定的な違い」「三人称の視点ブレは悪か」。
Web界隈に身を置く者なら誰もが直面するジレンマを、本作は古典文学の圧倒的な教養を用いて鮮やかに解体し、一刀両断していく極上の青春会話劇だ。
舞台は、褪せた空気の漂う文芸部。
登場するのは、アロハに学ランという奇抜な出立ちで純文学を愛する主人公(部長)、トレンド至上主義で承認欲求に揺れるゴスロリ後輩作家(メスガキ先生)、そして理詰めで古典回帰な黒髪の優等生作家(高嶺の花子先生)。
一見するとドタバタラブコメディのようだが、会話の端々に散りばめられた知見がとにかく鋭く、面白い。
『ロビンソン・クルーソー』を引いて長文タイトルの系譜を語り、『巌窟王』で復讐の共犯関係を説き、夏目漱石の言葉で「人称の役割」を紐解く展開は、まさに知恵の暴力。目から鱗が落ちるようなカタルシスに満ちている。
だが、実はこの作品から最も学べることは表題の内容ではない。そう――「キャラ」である。
キャラを立てる、という現代ラノベで最も評価され、かつ努力だけでは決して手に入らない技術がこの作品には溢れている。
作者である千古不易さんの真骨頂なのだが、どんな議題、どんな内容だろうが、不思議とスルスル読ませるキャラ魅力を爆発させる。何故かはわからない、でもきっとこの人なら「昨今のインフレと増税」なんて退屈な議題でも楽しませてくれるだろう……。濃いキャラの掛け合いの前では、構造やプロットなんて無力だと膝から崩れ落ちさせられる思いだ。
笑って、学んで、しかも萌えられる。
何かを「書く」すべての人、そして「読む」ことを愛するすべての人に、このエンタメvs文芸の代理戦争を見届けていただきたい。
ここまで読んだあなたにあえて言おう、読まれないのはお前に難がある、と。