第15話:後日譚1:偽物の記号と本物の呼称
「ふう……」
10代特有の、瑞々しくも少しだけ尖った空気を感じていた。
ここは、福岡・天神のど真ん中、予備校の自習室だ。
25歳の俺は、そこに漂う制汗剤のシトラスの香りと、数百本のシャープペンシルがカツカツと自身の意気込みを紙と机に叩きつける様な音の中に、ひとり 異物のように沈んでいた。
「……くそっ」
吐き出した吐息が、自習室のパーテーションに跳ね返る。
机の上に広げたのは、最新の医学部向け模擬試験の結果だ。偏差値、判定、順位。並んだ数字はどれも冷酷で、かつての俺なら「ダメだこりゃ」と切り捨てて、即座に志望校のランクを下げていただろう。
誰かに見られたら「よく志望学部を医学部なんて書けましたね!」なんてイジられること間違いない。
これまでの俺の人生は、常に「及第点」だった。赤点を取らなければOK。
そして、覚え方も一問一答。この問題にはこの答え……って感じだった。その裏の道理や背景を考えたことなどなかったのだ。解答を記号的に覚えていた
Fラン大学を卒業したのも、就職活動から逃げたのも、すべては赤点さえ取らなければいい、波風さえ立たなければいいという、自分勝手な省エネ主義的な考えの賜物ともいえる。
まあ、本当に必要性を感じなかったんだ。
だが、今の俺が求めているのは、そんな生ぬるい合格ラインじゃない。
一点の曇りもない、圧倒的な正解。深堀りして、自信持って正解と思って書いた答えが正解する必要がある。
それが、一人の命を左右する場所へ行くための通行許可証だ。
『脳内を流れる、わずか100分の7ボルトの電圧が……』
参考書の一節を指でなぞる。
人間の思考の正体。喜びも、悲しみも、そして「お姉ちゃん」が失っていった記憶も、すべてはこの微弱な電気信号の積み重ねに過ぎない。
かつて俺は、水はただの水だと思っていた。
けれど今は知っている。水は匂いを吸い込み、温度を伝え、身体を維持しているのも水だ。そして、生きるための情報を運ぶのも水。
俺の脳神経の中で火花を散らす この100分の7ボルトに、どれだけの「体温」を宿せるか。
それが、彼女を救えなかった俺に課された、一生分の宿題だった。
休憩を告げるチャイムが鳴り、周りの受験生たちが連れ立って教室を出ていく。
「今の数学、マジ無理じゃね? 解けた?」
「バリムズかったー! とりま、コンビニ寄って帰ろうぜ」
そんな、かつての俺も口にしていたであろう、無邪気で等身大な「青春」の会話が遠くに聞こえる。どうやら授業を受けていた生徒達がこの自習室横を通ってご帰宅らしい。
25歳の浪人生。学力はFラン大経済学部程度。職歴なし。普通に考えて人生詰んでる。
客観的に見れば、俺は人生のレールを大きく踏み外した、滑稽な「迷子」に過ぎないだろう。いや、行き先なんかないんだから迷子ですらないのだ。
実際、予備校の受付で年齢を書いたとき、職員が見せたあの一瞬の「同情」の混じった視線は、今も胸の奥に棘のように刺さっている。
それでも、俺は椅子から立ち上がらなかった。逃げなかった。
カバンから取り出したのは、一本のペットボトル。
中身は保冷材に包んでおいたのでキンキンに冷えた水だ。どこにでもある水道水。
一口飲むと、冷たさが喉を通り、胃の腑に落ちていくのがわかる。
その感覚一つ一つを、俺は丁寧に確認する。
生きている。
学んでいる。
誰かのために、自分を使い果たそうとしている。
この羞恥や生きにくさは、これまで俺が逃げてきたツケみたいなもんだ。そのツケを返そうと動けるだけ まだ俺は幸せな方だ。
「……待ってろよ、香苗ちゃん」
俺は、まだ真っ白なままのノートを開いた。
次の模擬試験まで、あと2週間。
100分の7ボルトの火花を、炎に変えるための時間は、いくらあっても足りなかった。
✳✳✳
俺の1日は分かりやすい。朝、予備校に行って、夜9時になったら帰る。
家だと何だかんだ言ってサボる自分の性質をよく分かっている。だから、予備校で勉強する。
授業があるときはそれに出て、それ以外は自習室で勉強。
Fラン大卒の実力ではどんなに下の学校でも医学部には受からない。しかも、脳神経外科って、かなり上の方らしい。あ、全ての科は「医学部」を卒業してから分かれるみたいで、まずは医学部に入らないと始まらないんだけど……。
予備校って浪人生が行くイメージだったけど、夕方は現役生もかなり来る。制服を着ているからすぐに分かる。
悲壮感漂う浪人生と爽やかな風をまとう現役生は制服を着ていなくても今の俺なら見分けられるだろう。
「お疲れ様です。先輩」
「お疲れ様」
俺が唯一オアシスと感じる時間……。それは香苗ちゃんが予備校に来るときだ。彼女も狙っている学校があるらしく、ほぼ毎日学校が終わったら予備校に来る。
そこで一緒に勉強するのだ。
お陰で浪人生からは話しかけられないのに、現役生とは割と話す変な感じになっている。
「香苗ちゃん、また先輩さんと勉強?」
話しかけてきたのは香苗ちゃんの学校のクラスメイト。香苗ちゃんのクラスメイト達もよく来るんだ。男子二人に女子二人でつるんでいるらしい。軽く嫉妬しているのは香苗ちゃんに悟られないようにしてる。
「ま、ね」
顔を赤くして目をそらす香苗ちゃん。控えめに見ても相当かわいいぞ。
「学校終わって予備校に毎日来る人はさすがに少ないのに、よく続くなぁって思ってたら、そうかそうか……」
勝手に納得した香苗ちゃんのお友達さん。瑞穂さんとおっしゃる。彼女達とは軽く挨拶程度は俺も話す。めちゃくちゃ仲が良い訳じゃないけど、香苗ちゃんが「瑞穂」って呼ぶから、俺も釣られてそう呼んじゃってる……。
「先輩さん、愛されてますね」
香苗ちゃんの陰から顔だけ出すみたいにして瑞穂ちゃんに言われた。
やべえ、年下の瑞穂ちゃんにイジられて、俺顔真っ赤だと思う。見なくても分かる。
「もー、やめてよー」
香苗ちゃんもまんざらじゃないみたい。やべぇ、遅れてきた受験勉強だけじゃなくて、青春も遅れてやってきたみたいだ。
しかも、俺は現役生達から親しみを込めて「先輩」って呼ばれてる。ここでもまた「先輩」だよ。
「お姉ちゃん」のときは本当は俺の呼び名じゃなかった「先輩」は、今度は間違いなく俺の呼び名になってる。
現役時代からずっと友達がいなかった俺が、大学を卒業してから高校生の友達ができるとか、何という皮肉か。
「毎日香苗ちゃんがお弁当作ってるって本当ですか?」
「(げほっげほっ)」
何も飲んでないのに喉に何か引っかかった。俺はもう歳なのか!?
「もう! 瑞穂!」
完全にイジられキャラの俺。めっちゃむせたし。
「あ、先輩。これ解けます?」
「あ、今日もいた。先輩、この問題分かります?」
瑞穂ちゃんの彼氏、山田くんと、その友達の菅原くんと、とにかく人に囲まれる俺だった。
この彼氏くんと、その友達が俺に難しい問題を仕掛けてくるのだけど、解けなくて悔しいのでめちゃくちゃ勉強した。
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