第10話 もどかしい思い

「よかったら、君の名前を教えてもらえないだろうか?」


彼の言葉に、声を出そうとしたけれど全く声が出せない。

いや、正確に言えば、自分では声を出しているつもりだけれど、声として出ていない。


何度も「と」「き」と言おうとするが、その声が彼に伝わることはなかった。


「もしかして、言葉が通じていないのだろうか?」


僕が答えないからだろう。彼はその質問を投げかけてきた。

でも言葉は理解できている。ただ声が出せないだけだ。


というか、僕にそんな質問を投げかけるということは、この人は僕がこことは違うどこか別の世界から来たとわかっている?


それも尋ねたいけれど、話ができないのだからどうすることもできない。


とりあえず首を横に振ってみた。

まだ身体中が痛くて動きも小さいけれど、彼に伝わるだろうか?


彼はじっと僕をみる。顎に手を当てて何か考えているようだ。


「首を振るのも辛そうだ。無理はしなくていい。とにかく言葉は通じているようだな」


今度は小さく首を縦に動かした。

彼は僕のその仕草を見て、ふっと笑みを浮かべた。


「言葉が通じているのならとりあえず今はそれでいい。薬を飲んでもうしばらく眠ったら、今よりは少し身体が楽になるはずだ」


彼は立ち上がり、ベッド脇の店に置かれていたものを手に取った。


座っていた彼が立ち上がるだけで、身体がびくついてしまう。

怖い人じゃないとわかっているのにm身体がいうことを聞かない。

それが申し訳なく思ってしまう。


彼は小さなカップに入れた液体の薬を持ち、僕に近づこうとしてその足を止めた。


「私が近づくのはまだ怖いだろう。だが、君が一人で薬を飲むのはまだ難しいな……どうしようか」


無理矢理に近づいて薬を飲ませることはしないみたいだ。

その優しさにホッとする。

だけど、彼のいう通りこの身体じゃあの薬を一人で飲めそうにない。


「少しだけ待っていてくれ」


彼は薬を棚の上に置き、部屋を出ていった。

首だけ動かして辺りを見回してみる。

このベッドもそうだけど、置かれているものも、部屋の様子も全てが豪華だ。


ここは彼の家、ではなく屋敷だと言っていた。


あの服装を見てもわかるようにかなり身分が高そうだ。

その彼が僕をあの地下室から救い出してくれたってことなんだろう。

でもどうやってあそこに僕がいるってわかったんだろう?


もっといろいろ聞きたいことも話したいこともあるのに、話せないのがもどかしい。

それに彼に恐怖を感じてしまうこともただただ申し訳ない。

こんなにも心と身体がついていかないなんて……


あまりにも辛すぎて、気づけば僕は布団の中で泣いてしまっていた。


<sideエリアス>


点滴が終わり、ようやく意識を取り戻すかと目を開けてくれるのを心待ちにしていた。だが意識を取り戻し、ほんのわずかに目を開けただけで、彼は私の腕の中でひきつけを起こしすぐに意識を失った。ガクガクと手足が震えたまま止まる気配がない。


「クラウス、これはどういうことだ?」


「診察をなさったお医者様が仰っておられました。意識を取り戻してもすぐに恐怖に襲われるだろう、と。旦那様、すぐにこちらの精神安定剤をお飲ませください」


恐怖か……

無理もないな。

大人でも恐怖を感じるあの地下室で、しかもあの狭く小さな檻の中で死と隣り合わせにいたのだ。やはりこの子の気持ちが落ち着くまでは、陛下には何も報告しないほうがいいだろう。


私は薬を口に含み、彼の唇に優しく当てた。

そして、咽せないようにゆっくりと薬を注いでいく。

彼の喉がコクっと動くのを見て、ホッと息をついた。


「すぐに屋敷に戻ろう」


「それでは馬車にベッドの準備を……」


長旅を少しでも楽に過ごすために座席に横たわれるようにしているがあくまでに簡易的なベッド。馬車の振動が直接身体に負担をかける。

健康ならば気にならないだろうが、彼はフィリグラン。

本当に脆く繊細な存在なのだ。だからこそこの子は私が守る。


「いや、私が屋敷まで抱いて帰るから必要ない。すぐに出発だ」


クラウスとヨハンは一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに出発の準備に取り掛かった。

そうしてこの朽ち果てた屋敷を出た。この屋敷の後始末はいつでもできる。

今はこの小さなこの子を心休める場所に連れて行ってあげなければな。

小さな身体に振動を与えないように馬車に乗り込み、家路を急ぐ。


ヨハンには急がなくていいから振動を与えないようにと指示を出し、馬車はゆっくりと走り出した。それから十数時間、彼を腕の中に抱いたままだったが、彼は一度も目を覚ますことなく、馬車は屋敷に到着した。


すぐに私の部屋の隣にある特別室に彼を連れて行った。

大きなベッドの中央に彼を寝かせて、私は彼が目を覚ました時にすぐにわかるようにベッド脇の椅子に腰掛けた。


それからどれくらい時間が経っただろう。


彼が目を覚ました気配がして、声をかけた。


「うぅ……っ」


苦しげな声をあげる彼に駆け寄り彼の目を見た。


髪色と同じ漆黒の瞳。

やはり彼はフィリグランに間違いなかった。


「無理しないでいい」


彼を怖がらせないように優しく声をかけたつもりだったが、彼は恐ろしいものでもみるように身体を震わせ私を見た。

愛しいと思える存在にそのような視線を向けられて辛い。

だが、ひきつけを起こすほど恐怖を味わったのだ。無理もない。


これ以上彼を怖がらせたくない。

身体を支えようと思って伸ばした手をとめ、私は彼から距離をとって椅子に座り直した。


ここがどこなのか、私が誰なのか彼に説明し、ここで安心してゆっくりと過ごしてほしいと告げたが、彼からは何も返事がなかった。


まだ私のことも信じることができないのだろう。

少しでも距離を縮めたくて名前を尋ねたが、その返事もない。

ただ何かを訴えるように小さな口を動かしている。


フィリグランはどこからか、神によって連れてこられるとされている。

もしかしたら私の言葉が理解できないのではないか。


その可能性も拭えず尋ねると、彼は熟考して首を小さく横に振った。

痛そうな表情をしながらも私に伝えようとしてくれたのだ。


それだけでも一歩前進だろう。


彼の反応を察するに、言葉は通じているようだ。

だとしたら、声が出ないのかもしれない。


あそこで助けを求めようと叫んだのか、それとも……


そう考えた時、一つの可能性が浮かんだ。


それが正しいとしたら、まずは身体を休ませたほうがいいだろう。

私はあの医師から処方された薬を彼に飲ませることにしたが、今の身体で彼が一人で薬を飲むことはできない。

と言って、私に怯えているのだから私が抱き起こして飲ませることもできない。


私は彼に少し待つように伝え、吸飲みをとりに行った。

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