第57話「ツルの左手」

 洗濯物を干す時に、体が傾く。


 気づいたのは最近ではない。あの日——広場で左翼の風切羽を全て散らした日から、ツルの左半身のバランスは変わっていた。右翼は健在で、服の下に畳まれた膨らみがある。


 左翼は付け根の骨格だけが残っていて、羽根がない分だけ右より軽い。右と左の重さが違う。歩く分には問題ない。料理もできる。浄化の風も起こせる。だが両手を使う作業——洗濯物を竿に掛ける、高い棚に器を戻す、庭を走る——の時に、左半身がほんの僅かだけふらつく。


 ツルはそれを誰にも言わなかった。


 俺は気づいていた。朝、洗濯物を干すツルの背中を窓から見る。右手で布を持ち上げ、左手で竿に掛ける。その左手が伸びきった瞬間、体が左に傾ぐ。半歩踏み出して戻す。毎朝、同じ動作。同じ傾き。同じ半歩。


 指摘しなかった。ツルが自分で解決したがる性格を知っている。手を出せば「ありがとうございます」と微笑んで受け入れるだろう。だがそれはツルの望む形ではない。自分の力で立ち直ることが、ツルにとっての「わたくしはわたくし」だ。


 だから黙って見ていた。毎朝。



   *



 その日の午後、拠点の門が叩かれた。


 申請者だった。リノが受付で対応し、居間に通す。俺は奥の書庫でゼノと打ち合わせ中だったので、ツルが面談を担当した。恩義契約ギルドが軌道に乗り始めて、俺以外のメンバーが面談を受け持つ場面が増えている。ツルは穏やかな応対で申請者を安心させるのが得意だ。


 面談が終わった後、リノが書庫に報告に来た。


「申請者はダグさん。四十代の元冒険者。Bランクの前衛でしたが、三年前に瘴獣との戦闘で左腕を失い引退。現在はエルデの南で農業を営んでいます」


「恩義契約の対象は」


「畑に棲みついた鳥型の魔獣です。鴉に似た中型の個体で、害虫を食べてくれるそうです。ダグさんが片腕で種を撒くのを毎日見ていて、収穫期には実を突いて落とす手伝いをするようになった。二年かけて、そうなったと」


「テイム紋は」


「ありません。野生の個体です。ダグさんは『こいつがいるから畑が回る』と」


 契約は成立した。ツルが面談し、俺が不在の場合の代行手順に従って仮承認を出し、俺が後から正式サインを入れた。


 だが俺が気になったのは契約の内容ではなかった。


 リノが付け加えた一言だった。


「ダグさんが書類にサインする時、ツルさんの手が止まっていました。数秒間」


「止まっていた」


「はい。ダグさんは左腕がないので、右手だけでペンを持ってサインなさいました。その右手が、とても安定していて。迷いがなかった。ツルさんはそれを見て——何か考え込んでいらっしゃいました」



   *



 夕方。


 庭にツルがいた。


 一人だった。ギンはヒノと厩舎跡にいる。クロはソファで丸くなっている。アカは自室。キサは帳簿。全員が拠点にいるが、庭にはツルだけだった。


 右翼を広げていた。


 白い羽根が夕日を受けて橙色に光っている。片翼だけ。左側には翼の付け根の骨格が服の襟元から僅かに覗いている。羽根を失った骨の輪郭。右が大きく開いて、左は骨だけ。非対称の背中。


 風が吹いた。


 ツルが起こした風ではない。自然の風だ。西から吹いてきた秋の風が、開いた右翼を押した。体が左に傾いた。洗濯物を干す時と同じ傾き。


 ツルが左足を踏み出して戻した。いつもの半歩。


 それから、右翼を一度だけ強く振った。


 風が起きた。片翼の風。左右対称ではない。右から生まれた気流が左に流れ、庭の芝を波打たせる。洗濯物が揺れた。竿に掛かったシーツが大きく膨らんで、風を孕んで、白い帆のようになった。


 均等な風ではなかった。右が強く、左が弱い。だが風は吹いている。庭全体に届いている。片翼でも、風は起こせる。


 ツルが翼を畳んだ。


 左手を見ていた。


 羽根のない翼の側の手。白い指。朝は竈の火加減をこの手で調節した。昼はギンの破れた袖をこの手で繕った。夕方前にヒノの器をこの手で厩舎跡に置いた。


 五本の指を開いて、閉じて、また開いた。確かめるように。


 俺は縁側に座っていた。ツルがこちらに気づいた。


「……ハルさま。いつからいらっしゃいましたの」


「風が起きたあたりから」


「見ていらしたのですね」


「ああ」


 ツルが歩いてきた。左半身が僅かに傾ぐ。半歩踏み出して戻す。縁側の俺の隣に座った。右翼の膨らみが服の下で微かに動いた。左の付け根の骨格が、襟の内側で硬い輪郭を作っている。


「ハルさま。わたくし、今日気づいたことがあります」


「聞く」


「羽根を散らした日から、ずっと考えていました。何を失ったのか。空を飛ぶ力。大規模浄化の力。左右の均衡。鶴としての完全さ。数えれば数えるほど、失ったものが増えていくのです」


 ツルの声は穏やかだった。いつもの丁寧語。だがその奥に、長い時間をかけて辿り着いた確信があった。


「今日、ダグさまがいらっしゃいました。左腕を失った方です」


「リノから聞いた」


「あの方が書類にサインなさる時、右手だけでペンを持って、迷わずに名前を書かれました。三年間、片腕で畑を耕して、片腕で種を撒いて、片腕で鳥と暮らしてこられた方の手でした」


 ツルが自分の左手を見た。


「わたくしは聞きました。『不便ではありませんか』と。失礼な問いかけでした。でもダグさまは笑って答えてくださいました」


「何て」


「『腕があった頃は両手で剣を振っていた。今は片手で鍬を振っている。振るものが変わっただけだ』と」


 ツルの左手が膝の上で開いた。五本の指。羽根を失った翼の側の手。


「振るものが変わっただけ。その言葉が、ずっと頭に残っています。わたくしは左翼の羽根を失いました。でもこの手は残っています。この手で竈の火を調節しています。この手でギンさんの服を繕っています。この手でヒノさんの器を置いています。この手でシロさまの部屋に花を届けています」


 指を閉じた。握った。開いた。


「失ったものを数えるより、残ったもので何ができるかを数える方が、ずっと楽しいのだと。今日、やっと分かりました」


 ツルが俺を見た。青い瞳。あの日——広場で羽根を散らした直後の泣き顔ではなかった。台所に三日目で立った朝の決意の顔でもなかった。


 もっと静かな顔だった。答えを見つけた人の顔。


「飛べなくても、この手で粥は炊けます。風は起こせます。皆さまの服は繕えます。そして——」


 ツルが左手を伸ばした。


 俺の右手に触れた。


「大切な方の手を握れます」


 白い指が俺の手を包んだ。


 震えていなかった。


 あの日からずっと微かに震えていた左手が、今日は震えていなかった。温かくて、柔らかくて、五本の指がしっかりと俺の手を握っている。羽根の代わりに何千回も使ってきた手の、確かな力。


「……ツル」


「はい」


「明日の粥も頼む」


「もちろんです」


 ツルが笑った。不格好な方の笑み。完璧ではない。唇が少し歪んで、目尻に皺が寄る。だが一番いい顔だった。


「ハルさま。一つお願いがあります」


「何だ」


「手を、もう少しだけ」


 握っている手を離さなかった。夕日が庭を赤く染めている。洗濯物がさっきの風の名残で揺れている。シーツの白と、夕焼けの赤と、ツルの髪の白が混じり合っている。


 離さなかった。ツルが離すまで、離す理由がなかった。



   *



 夜。


 食器棚の中で、皿が鳴った。


 かちゃん、と。小さな音。地震ではない。もっと微かな振動。だが止まらなかった。かちゃ、かちゃ、と断続的に、等間隔で鳴り続けている。


 ギンが飛び起きた。銀の耳がぴんと立つ。


「ぬしさま、地面が——」


 俺も気づいていた。床に手をつけると、微かな振動が掌に伝わってくる。規則的な間隔。脈動のような揺れ。自然の地震ではない。


 窓を開けた。南東の空。


 紫の光が、地平線に帯のように横たわっていた。先週、ゼノと見た薄い紫よりも明らかに太い。濃い。星の光を遮るほどに。


 庭で、低い唸り声が聞こえた。


 ヒノだ。厩舎跡から出てきて、庭の端に立っている。南東を向いて、喉の奥から絞り出すような声を上げていた。警戒の唸りではなかった。もっと深い場所から出る音。恐怖に近い。


 ギンが庭に走り出て、ヒノの横に膝をついた。


「ヒノ、大丈夫。ギンがいるから」


 ヒノの唸りが少しだけ弱まった。だが止まらなかった。南東を見つめ続けている。赤い目に紫の光が映り込んでいた。


 二階の窓が開いた。クロが顔を出した。


「南東。何かが——」


 アカが階段を駆け下りてきた。


「妾の角が疼くのじゃ。前にもこの感じがあった。あの洞窟の時と同じ——」


 キサが帳簿を閉じて立ち上がった。一尾が微かに震えている。


 書庫の窓が開いた。


 ゼノだった。乱れた髪と厚い眼鏡。だが目は鋭かった。地図を手にしていた。赤い点だらけの地図。


 ゼノが南東の空を見た。紫の帯を。脈動する地面を。


「……来る」


 一言だった。


 南東の地平線で、紫の光が一度だけ強く脈動した。地面の振動が大きくなった。食器棚の皿が一枚、棚から滑り落ちた。ツルが手を伸ばして受け止めた。左手で。震えずに。


 恩讐の王が、目を覚まそうとしていた。



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あとがき


 第五十七話をお読みいただきありがとうございます。


 羽根を散らした鶴が、左手を見つけました。失ったものを数えるより、残ったもので何ができるかを数える方が楽しい。ダグという片腕の農夫が教えてくれた言葉を、ツルは自分の言葉にしました。


 そして左手は震えなくなりました。羽根の代わりに何千回も使ってきた手は、もう十分に強い。


 ただし、地面が震え始めました。南東の空が紫に光っています。ゼノの「来る」の一言が、全てを告げています。


 次回、第五十八話「結束の夜」。嵐の前の、最後の食卓です。


 評価、感想、ブックマークをいただけると、書く力になります。

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