第28話 名前のある腐敗
夜が深くなっていた。
引き出しを、もう一度開けた。
ずれた位置のままだった。朝に確認したときと変わらなかった——夕課の後に確認したときとも変わらなかった。誰かが触れた、という事実は、夜が深くなっても変わらなかった。
写しの束を取り出した。机の上に置いた。
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蝋燭を一本追加した。
光量が増えた。文字が鮮明になった。
取り出した写しは五枚あった。文書室の教義審記録を写し取ったものが二枚——修正事案の審問記録の筆写と、担当者名を書き留めた一枚。深夜に職権外で写し取ったものが一枚——「別紙指示に従い整合判定を不整合に変更した」という記録の文言と、その前後の書式番号を写し取ったものだった。それと——被告の名前を書き留めた一枚。修正筆跡の違う事案を調べたとき、意味があるとは思わずに書き留めた名前だった。
それらが机の上にあった。蝋燭の光が揺れた。揺れて——文字が明確になり、また揺れた。
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「受け入れます」と言った。その言葉は取り消せなかった——それは知っていた。取り消せない言葉を、今朝、口から出した。「賢い選択です」という言葉が返ってきた。「すべてですか」と確認された。「はい」と答えた。しかし残した。引き出しの中に残した写しが、今夜、机の上にあった。
残した理由は今もはっきりしなかった——手が動いて、残っていた。「なぜ残したか」の答えは、夜が深くなっても来なかった。来なかった——しかし残した写しを、今夜は照合しようとしていた。
なぜ照合しようとしているかは——引き出しがずれていたから、だった。誰かが触れた。触れた者が何を確認したかを知らなかった。「急がなくていい」という言葉はまだ有効だった——しかし何かが動いていた。
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照合を始めた。
記録の写しを広げた。10年前の事案の審問記録だった。担当者欄に名前が記されていた。ヴォルタ廊官補佐——現在の職名では廊官一等。ヴェルドの直属の下にある職だった。
これは知っていた。
過去の調査のとき、ヴォルタがヴェルドの直属だということは分かっていた。ヴォルタが審問記録の修正を行った——という事実も確認していた。修正の筆跡がヴォルタのものだということも、比較によって確かめていた。
しかしそれだけだった。ヴォルタが修正した。ヴォルタはヴェルドの直属だ。それ以上の連鎖は、当時の調査では追えなかった。「別紙指示に従い」という記録はあった——指示があったことは分かった。しかし指示の発行元を特定する方法は、当時の調査では見つからなかった。
今夜、別の角度から追おうとしていた。
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写しの右端に、参照番号があった。
書き写した当時は——意識して書いた覚えがなかった。書記補佐として三年以上、書類の参照番号を転記する作業を繰り返してきた。書くことが習慣になっていた。写しを取るとき、目は参照番号の列を見て、手は自動的に書いた。書かれたものが今夜、机の上にあった。
五桁の数字列だった。上位指示の受付番号形式に沿っていた——それは、最初に見たときから分かっていた。受付番号は、文書の発行元と受付順序を示す。冒頭二桁が発行元を示す識別番号だった。
五桁の冒頭二桁を——見た。
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見た。
見て——カインは動かなかった。
首席聴審官室の発行番号だった。
書記補佐として三年以上、様々な部署から来る書類を扱ってきた。首席聴審官室から来る書類は、量は多くなかったが、扱うたびに冒頭二桁を見てきた。見てきた結果として——冒頭二桁が何を示すかは、意識せずとも分かっていた。写しにある参照番号の冒頭二桁は——首席聴審官室の発行番号と一致していた。
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「別紙指示に従い」という記録の文言が来た。
筆写を見た。「別紙指示に従い整合判定を不整合に変更した」——審問官が記録に残した言葉だった。「別紙指示」があった。「別紙指示」に従った。従った結果として、整合が不整合になった。不整合になった結果として——処刑が起きた。
「別紙指示」の起点が、今夜、見えていた。
首席聴審官室から出た参照番号が、修正の記録に紐付いていた。首席聴審官室から何らかの指示があり——ヴォルタが従い——整合が不整合になり——被告が処刑された。
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「可能性が高い」という言葉がふと浮かんだ。
これは証明ではなかった——カインは知っていた。参照番号の一致は、「ヴェルドが直接指示を出した」という証明ではなかった。首席聴審官室から出た指示の原本は、文書室に残っていなかった。指示の内容を確かめる方法は、今のカインにはなかった。
可能性が高い——それだけだった。
それだけだった——が、それだけのことが、机の上にあった。
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三年以上、この形式を扱ってきた。参照番号の意味を知っていた。「可能性が高い」という言葉を使っていた——しかし書記補佐として参照番号を見てきた経験から言えば、首席聴審官室の発行番号がそこにある意味は、一つだった。
例外はある——発行番号の使い回し、誤記、別部署からの転用。しかし10年前の審問記録の修正案件の参照欄に、首席聴審官室の発行番号が記されているという事実は——例外として処理するには、理由が足りなかった。
「可能性が高い」は、夜が深まるとともに、「事実として扱うしかない」に近づいていた。
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首席聴審官が誰であるかは、10年前も今も変わっていなかった。
その事実が来た。来て——参照番号の隣に並んだ。
10年前に首席聴審官だった者が、今も首席聴審官だった。10年前の修正案件の参照番号が、首席聴審官室を示していた。
「私もかつて、同じ書類を見ました。そして今ここにいる」——ヴェルドの言葉が浮かぶ。
その言葉の意味が——分かった。
「同じ書類を見た」——ヴェルドはかつて、この参照番号が含まれる書類を見た可能性があった。見て、今ここにいる。「今ここにいる」というのは——連鎖の中に留まることを選んだ、という意味だった。
選んだ者が、「受け入れます」と言うカインに向かって「賢い選択です」と言った。
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「制度を守るため」という言葉があった。
執務室での言葉だ——「制度は不完全だ。不完全なまま機能させる技術が必要になる」。その言葉と参照番号が、今夜、同じ机の上にあった。
「制度を守るため」という論理が、首席聴審官室の発行番号を経由して、被告の名前に繋がっていた。被告の名前の先には処刑があった。
「制度を守るため」に、指示が出た。指示に従い、判定が変わった。判定が変わり、被告は処刑された。
その連鎖の存在を——今夜、カインは知っていた。知った上で「受け入れます」と言っていた。
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「腐敗に目をつぶること」という選択肢もある。
だが——違和感を覚えた。
これまで、ヴェルドの提案を「受け入れること」の意味を、カインは考えていた。「腐敗に目をつぶること」——不完全な制度の中で目を閉じながら機能し続けること。歪みを知りながら、知らないふりをしながら職務をすること。
その歪みを許容することが——「腐敗に目をつぶること」だと思っていた。
しかし——「腐敗に目をつぶること」と「腐敗の一部になること」の間には、距離があった。参照番号を知っていた。首席聴審官室の発行番号が何を意味するかを知っていた。その知識を持ったまま「受け入れます」と言って留まることは——連鎖の中に入ることだった。連鎖の中に入ることは——「目をつぶること」ではなかった。
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「命令に従って清書した。知らなかった」——という言葉が浮かぶ。
過去の発見が、自分の筆跡の記録が頭に残る。三年前に清書した審問記録の被審問者が、処刑されていた。「知らなかった」と思った。「知らなかったことは、免罪符になるのか」という問いが来た。
三年前は——知らなかった。
今夜は——知っていた。
「知らなかった」という言葉は、今夜以降には来なかった——そのことに、カインは気づいた。
気づいて——動かなかった。
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机の上に名前があった。
被告の名前が——写しの一枚に記されていた。以前書き留めた名前だった。意味があるとは思っていなかった。後から参照するかもしれないと思って書いた——後から参照することになった。
名前があった。処刑された者の名前があった。審問記録が書き換えられた者の名前があった。書き換えの連鎖の参照番号が、首席聴審官室を示していた。
「腐敗に目をつぶること」は、数字と論理の話だった。「秩序のコスト」という言葉で語れる話だった。どこかにある数字として処理できる話だった。しかし——「腐敗の一部になること」は、名前のある話だった。
机の上に、名前があった。
被告の名前が、首席聴審官室の参照番号の隣にあった。
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「賢い選択です」という言葉が響く。
響いて——腹の内側から何かが登って来た。昨日の執務室で「賢い選択です」という言葉を聞いたとき来たものと、同じものが来た。
「腐る」という感覚があった。昨日と同じ感覚——今夜は、昨日より重く感じた。昨日は「腐敗に目をつぶること」だと思っていた。今夜は——「腐敗の一部になること」だと知っていた。
知った上で、蝋燭の前に座っていた。
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「受け入れます」という言葉が、取り消せなかった。
これは変わらなかった。
取り消せない——しかし。
「しかし」の先が来た。
初めて来た——「しかし」の先が。
「受け入れます」と言った言葉は取り消せない——しかし、留まることもできない、という事実が。
「腐敗の一部になること」を知った上で留まることは——知らなかった三年前の清書と、同じ話ではなかった。今夜、机の上に名前がある状態で「留まる」ことは——「腐敗の一部になること」を選ぶことだった。選ぶことが、今夜から始まっていた。
二つが同時にあった——「取り消せない」と「留まれない」が、同時に机の上にあった。
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焦りを感じた。
初めて——「何かが起きる前に動かなければ」という感覚が訪れた。
これまでも「動くべきか」という問いはあった。「告発する方法があるか」という問いもあった。しかしそれらはただの問いだった。問いとして来て、答えがなかった。来なかったから、居室に戻って椅子に座っていた。動かないことが、問いを保留し続けることだった。
今夜来たものは問いではなかった。
「何かが起きる前に動かなければ」——問いではなく、感覚として来た。
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引き出しがずれていた。
「すべてではない」ことを知った者がいた。今日は何もなかった——しかし「急がなくていい」という言葉は「いつでも動ける」という意味でもあった。「いつでも動ける」者が、待っていた。
待っている者がいる。「何かが起きる前に」——何かが起きたとき、動く余地が残っていないかもしれなかった。審問の通知が来てから動こうとしても——手段が残っているか。「急がなくていい」という言葉が、今夜は別の意味を持っていた。ヴェルドが急かさないのは——カインが動けない状況になるまで待っているからかもしれなかった。
「急がなくていい」と「いつでも動ける」は、同じ言葉だった。
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夜が深くなっていた。
鐘の音が鳴る——鳴って、消えた。深夜の時刻を示す音だった。
蝋燭が燃えていた。写しが机の上にあった。参照番号が見えていた。被告の名前が見えていた。
翌朝——何かが起きる前に動かなければ、という感覚があった。「動かなければ」という感覚は、今夜初めて来た感覚だった。
「受け入れます」と言った——取り消せない。留まることはできない——「腐敗の一部になること」を知った上では留まれない。しかし「受け入れます」と言ってしまった今、動くことが何を意味するか——動いた後に何が待つか——それはまだ決まっていなかった。
決まっていなかった——しかし「動かなければ」という感覚は、来ていた。
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名前のある腐敗が、机の上にあった。
被告の名前と参照番号が、蝋燭の光の中にあった。
カインは写しを集めた。引き出しの奥に戻した。引き出しを閉めた。閉めた後で——引き出しがまたずれているかどうかを確認した。引き出しは、閉めたままの位置にあった。
蝋燭を吹き消した。暗闇が来た。
写しは引き出しの中にあった。参照番号が暗闇の中にあった。名前が暗闇の中にあった。「動かなければ」という感覚が、暗闇の中にあった。
翌朝が来る——「何かが起きる前に」という言葉と一緒に来る。
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