罪と罰
橘こたつ
序章 雨の入口
午後から降り続いていた雨は、夜の帳が街を包み込む頃になってようやく上がった。
濡れたアスファルトは、通りに灯る看板や信号の色を溶かし込み、赤も青も金色も、まるで夜そのものが息をしているかのように淡く揺らしていた。
金曜日の街は、いつもより少しだけ浮ついて見えた。
仕事を終えた人々が解放感に頬を緩め、恋人たちが肩を寄せ合い、笑い声がネオンの隙間を縫うように流れていく。
その賑わいの中を、遼介は一人で歩いていた。
片手にはスマートフォン。
画面には、婚約者の真由から届いたメッセージが表示されたままだった。
――おつかれさま。明後日の打ち合わせ、式場の担当さんから時間変更できるって。帰ったらまた相談しようね。
短い文面の奥に、彼女の誠実さが透けて見える。
遼介はそれを読んで、しばらく返事を打てずにいた。返す言葉が思いつかなかったわけではない。
「了解」でも、「ありがとう」でも、いくらでも返せる。
だが、そのどれもが、まるで誰か別の男の指で打たれる言葉のように思えた。
遼介は立ち止まり、濡れた歩道に映る自分の姿をぼんやりと見下ろした。
スーツの肩には、雨粒の名残がまだわずかに残っている。
仕事は順調だった。人から見れば、彼の人生はかなり整っている部類に入るのだろう。
職場では信頼を得て、婚約者は穏やかで、将来の見通しも立っている。
何ひとつ、大きく欠けているようには見えない。
それなのに、胸の内側には、長いこと埋まらない空白があった。
不幸ではない。
不満があるわけでもない。
けれど、どこか決定的に、自分の人生の温度だけが低い。
会議室で交わされる数字、期限、成果。
週末に交わされる結婚式の打ち合わせ、招待客の人数、引き出物の相談。
どれも間違ってはいない。
正しいレールの上を、正しい速度で走っている。
だが遼介には、そのレールの上を走る音が、時折自分の心を削る音に聞こえることがあった。
「また、同じ金曜日か……」
ふっと、そんな言葉が唇から漏れた。
誰に聞かせるでもなく夜に溶けたその声は、すぐに街の喧騒に呑み込まれていった。
真由に返信をしないままスマートフォンをポケットへ戻し、遼介は顔を上げた。帰宅してもよかった。
いや、本来ならそうするべきなのだろう。
だが、今夜もまた、真っ直ぐ家へ帰る気にはなれなかった。
帰れば、整った部屋の明かりが彼を迎え、冷蔵庫の中には真由が前に持たせてくれた惣菜が入っている。
温めれば食べられる食事、約束された週末、予定された未来。
そのどれもが、優しすぎる檻のように思えた。
遼介は無意識に、見慣れた通りへ足を向けていた。
ビルの谷間に潜むようにある、小さなバー。
金曜の夜だけは、そこへ立ち寄るのが半ば習慣になっていた。
琥珀色の酒を喉へ落とし、他人の話し声を遠くに聞きながら、自分の輪郭が薄れていくのを感じる。
その時間だけが、どうにか心を無音にしてくれる気がしていた。
けれど、本当は分かっている。
無音になるのは、心が静まるからではない。
ただ、自分の本音を聞かないようにしているだけなのだと。
***
同じ頃、数駅離れた場所からタクシーを降りた沙耶もまた、帰るべき場所を目前にしながら、別の方向へ足を向けていた。
友人との食事は、穏やかで楽しかったはずだった。
新しくできた店の話、会社の愚痴、昔の恋愛話。
笑うべきところではちゃんと笑ったし、相槌も打った。
何も不自然なことはなかった。
けれど、店を出て友人と別れたあと、沙耶の胸には説明のつかない疲労だけが残った。
「またね」と手を振った自分の声が、妙に軽く響いた気がした。
帰れば夫がいる。
整ったリビング、綺麗に片づいたダイニング、きちんと畳まれたタオル、乱れのない暮らし。
夫は優秀で、社会的にも信用があり、感情を荒げることも滅多にない。
生活に不自由はないし、人から見れば理想的な結婚生活に見えるかもしれなかった。
だが、その家に帰ると、沙耶は時々、自分が透明になってしまったような気持ちになる。
「今日はどうだった」
夫はそう訊く。
沙耶も「普通よ」と答える。
それで会話は成立する。
けれど、成立した会話の中に、彼女の心が入り込む余地はどこにもない。
本当は、普通じゃない日もある。
理由もなく泣きたくなる夜もある。
笑っているのに、どこかでずっと沈んでいるような日もある。
けれど、そんなものを差し出したところで、きっと困らせるだけだと分かっていた。
夫は悪い人ではない。
ただ、彼は整った答えを返すことはできても、答えのない心の揺れを受け止めることには慣れていない。
いつからだっただろう。
沙耶が自分の本音を説明することをやめたのは。
多分、一度や二度ではなかったはずだ。
小さな諦めを、何度も重ねた果てに、いつの間にか心の深い場所へ蓋をすることだけが上手くなってしまった。
雨上がりの風が、頬を掠めていく。
その冷たさが、心地よかった。
まっすぐ帰るには、まだ少し早い。
そんなふうに自分へ言い訳をしながら、沙耶は賑やかな通りへと足を向けた。
ネオンの色が濡れた路面に映り込み、街はどこか現実離れした光を帯びている。
人の波に紛れながら歩いていると、自分が誰なのかさえ曖昧になっていくようで、それが今夜は少しだけ救いだった。
通りのショーウィンドウに映る自分の姿が目に入る。
艶やかな黒髪。
シンプルな赤いワンピース。
派手すぎるつもりはなかった。
けれど、その赤はどこか今の自分に似つかわしくないようにも見えた。
まるで、自分の中にまだ消えずにいる熱の痕跡だけが、布地になって残っているようだった。
沙耶は、小さく息を吐いた。
胸の奥に、言葉にならない何かが沈んでいる。
寂しさとも違う。悲しみとも少し違う。
ただ、自分自身の輪郭が少しずつ曖昧になっていくことへの恐れだけが、静かに、しかし確かに存在していた。
ふいに、信号待ちの人並みの中で、肩が誰かと軽く触れた。
「すみません」と謝り合うような、ほんの些細な接触だったのに、沙耶はひどく驚いてしまった。
自分が思っている以上に、心が張りつめているのかもしれない。
このまま帰るべきだ。
理性はそう囁く。
だが、足は止まらなかった。
もう少しだけ、別の空気を吸っていたい。
ほんの少しだけ、自分を知らない街の中にいたい。
そうして辿り着いた先に、見覚えのないバーの看板があった。
地下へと続く階段の上で、柔らかな灯りが夜の中へ細く伸びている。
沙耶はその看板を見上げ、立ち止まった。
階段を下りれば、また別の時間が流れているのかもしれない。
誰にも知られず、誰にも説明せず、ただ数時間だけ、この息苦しさを預けていける場所があるのかもしれない。
そんな期待にも似た衝動が、彼女の足先をわずかに前へ押した。
***
同じ時刻、通りの反対側では、遼介もまた、その店の前に立っていた。
見慣れたはずの看板が、今夜はどこか違って見える。
いつもなら何も考えずに扉を開けるだけなのに、遼介は数秒、そこに立ち尽くした。
胸の奥で、ひどく小さな違和感が鳴っている。
まだ何も起きていない。
何かが変わったわけでもない。
なのに、この扉の向こうへ入れば、何かが始まってしまうような、奇妙な予感だけがあった。
通りの向こう側に、人影が見えた。
赤い色が、夜の中でひときわ鮮やかに浮かんでいる。
見知らぬ女が、同じように足を止め、こちらを見上げるでもなく、ただ静かに立っていた。
まだ、距離はある。
まだ、名前も知らない。
まだ、互いの人生は交わっていない。
それでも、その夜の空気の中で、二人はすでに同じ孤独の匂いを吸い込んでいた。
遼介はそっと息をつき、バーの扉に手をかけた。
その瞬間、沙耶もまた、静かに顔を上げた。
雨上がりの夜は、何も知らないまま、二人をその入口へ導いていった。
【序章 雨の入口 終】
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