嬰児たる我が無謀

@guaro

第1話

当時の私には、穴というものが認識できなかった。

その当時というのは、私が嬰児のころである。


私の母は母乳を飲ませた。

当時の私は、乳首というものなど認識できず、ただ口に押し付けられた乳房の中にある点を認め、それを求めた。


また、その点を吸い込み、母乳を、食事を行った。

食事の最中、母は優しく微笑んだ。

その日から私は、私という嬰児は点を吸うものと理解した。


それから、あらゆる点を吸った。

テレビのリモコンにある電源ボタン。

エアコンのリモコンにある電源ボタン。

木製の机にできた斑点さえも、私は吸った。


ある日のことだった。

母は寝ころんで睡眠を取っていた。

父は当然仕事に出かけ、私はこの小さな部屋の支配者となった。

湧き出る好奇心を抑えられず、衝動に飲まれ、私は危険の二文字を排してその歩みを進めた。

前足で第一歩、後ろ足で第二歩。

畳の細かい網目が、この柔らかく脆い我が身体を刺激し、その度に、普段認識することのない痛覚を認めた。


だがしかし、私はこの部屋の主である。

歩みを止めるわけにはいかない。

私はどうにも、この世界が無音のように思えた。

黒色のテレビは、まだ知りえない音を絶えず放ち続け、静寂の来訪を許すことはない。

ガラス越しに広がる外では、自分より位が上の人間が衝撃の音と共に声をあげ、セッションのように、小鳥達が鳴いて答える。

時折通る車がエンジンを奏で、アクセントを付けていた。


世界は音で満ちている。

にも関わらず、この目が捉える全ては、世界が無音であると証明していた。


四本の柱で支えられた不動の鉄の足は、見上げても顔は伺えず。

私の行手を阻み、迂回を強いられる。

母が何やら父とはまた違った仕事をするために使用する場所も、ぽたぽたと静謐な響きを教えてはくれるが、依然として正体を表すことはなく、私が知ることもない。


遍くが未知である。

恐らくはこの未知こそが私の世界を無音にする魔術の正体であり、私の衝動の源である。


この小さな箱の支配者と成った。

私はそう勘違いしていたが、しかしてこの矮小な嬰児たる自分は、どれほどの者でもなかったのだ。


そうとなれば、私は横たわる母の元へと帰り、その覚醒を待つのみである。


帰還すると、目の前に奇妙なものがあった。

今までに見た事のない点である。

黒い点、普段見る母の両の乳房、つまりは私の食事の源泉である乳首とは、また異なるもの、と推察した。


改めて、私にとって点とは、どのようなものであれ吸い付くものである。


私は迷いなく吸い付いた。

結論から言うと、私の認めた点はアナルであった。

なぜ母が尻を丸出しにしているのかは、この世界の確かささえわからぬ私には当然未知なることである。

だが事実として母はアナルを曝け出していたのだ。

嘘偽りはない。


人間には悪い癖というものがある。

靴下を脱ぎっぱなしにしたり、トイレのドアを開けっぱなしにしたり、物をしまう時に少し雑にしてしまったり、ごみを投げ捨てたり。


大小あれど、誰にでも悪い癖はあり、母はこの無防備な尻がそうなのだろう。

私も例外ではなかった。


私は点が、私に栄養を与える食事の源泉でなかったとしても、本能からか、衝動からか、吸い続けてしまう癖があった。



今も同様である。

私は何も与えぬ母のアナルを吸い続けていた。

その時である。

普段口にしている母乳とは違う、茶色い固形物が口に、否、顔を覆った。


初めての固形物。

未知を理解していく思考の、電気信号の行き交うのを私は鮮明に実感した。

味覚、触覚、嗅覚、また聴覚。

あらゆる五感を、その固形物が支配した。

母乳のような無味ではなく、大きな苦味に付随する酸っぱさや辛さの織りなす複雑。

これが味というものなのだ。

また、柔らかすぎず硬すぎず、触れれば形を変える可変。

先の世界にはなかった、弾けるようで滑らかな音。

加えて、痛みとも取れる匂いは、私の腹を異常にさせ、授かった命が口から飛び出そうとしているのを感じ、それを抑えた。

これが我慢である。

私は覚醒した。


母は違和感を覚えたのか、ようやく目を覚した。

次の瞬間、母は赤子となった。

走り出したかと思えば、紙を手に取り、袋を取り出した。

私を見たかと思えば、また声を荒げ、未知なる仕事場で暴れている。

父と連絡をしているであろう小さな点のないリモコンを持って、また声を上げている。

理由は計り知れぬ。

アナルという名の点から何かを輩出したことか、私がその何かを食したことか、私がアナルに吸い付いていたことか。

なにもかもわからぬ。

本来私の役割、つまりは父の外での仕事と母の仕事とがあり、私には声を上げることがそうであると理解している。

それを奪われたことだけが、唯一の真実であった。

私はもはや無職である。

母は、私を指さして糞と呼んだ。

かくして私は、赤子から無職となり、終いには糞人となったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

嬰児たる我が無謀 @guaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ