薄氷の旅路
ルナ
出会ったときの話
1
氷の神、そう呼ばれる存在がいます。
今から語る世界に陸地はなく、全ては海です。海には氷の神の力によって作られた、溶けない氷の島がいくつも浮かんでいます。
人は氷の島の上に、海氷街と呼ばれる街を作り、島と島を氷の船に乗って行き交い、生活をしています。
人は溶けない氷という素材をごく一般的なものとして活用し、建物、家具、道路からナイフにいたるまで、様々なものを作り、使用しています。
これは、そんな氷と海の世界のお話です。
◇
「あと一ヶ月……だね、残念だけど」
病院のベッドで寝ていたヨウナは、医者からそう宣告されました。一ヶ月とは、余命のことです。ヨウナは一六歳です。あまりにも、短い人生に思えます。
しかし、ヨウナは驚くことはありません。自分の状態は、自分が一番わかっていたのでした。
「一ヶ月もあるのか。もう少し短いかと思ってたが」
「甘く見積もって、だからね。運が悪ければ、来週にだって……」
ベッド横に立ってヨウナを見下ろす医者は、下唇を噛みました。自分の子どもとさほど変わらない年齢のヨウナを救えないことが、悔しかったのです。
「ま、了解したよ。この先のこと考えるから、いったん出てってくれ」
ヨウナは繕った明るい調子で、医者に言います。
「……くれぐれも、安静にするようにね」
医者はヨウナの精神状態を察して、病室を出て行きました。
ヨウナは、少し前までは普通の生活を送っていました。
教会併設の学校に通い、優秀な成績を収め、運動能力も申し分なく、いずれは海氷街を支える人材として期待されていました。……普通というには、少し語弊がありました。非常に優秀でした。生まれの海氷街では、神童と呼ばれていたほどです。
しかし、海氷街の戦争に巻き込まれ、家族を失いました。あげく災禍の後遺症で氷結病という不治の病を患ってしまったのです。
氷結病とは、呼吸や食事、ケガなどによって体の中に細かな溶けない氷が入り込み、内臓を傷つけ、様々な異常を引き起こす病気です。
現在、戦争が起こった海氷街とは別の海氷街に避難し、病院に入院しているのでした。
ヨウナは体を起こして、窓から外を眺めました。病院の壁、それから外の建物全て、陽光を反射し、青白く輝く溶けない氷で作られていて、幻想的です。
円形の海氷街は海に囲まれていて、遠くには羅針氷塔と呼ばれる、氷の塔が立っています。
ヨウナにとっては見慣れた風景ですが、もうじき見られなくなるのでしょう。今はまだ、ある程度は動けますが、もうまもなく寝たきりの生活になるからです。
氷結病に、治療法はありません。決まった死の運命です。
ヨウナは、未来に希望が持てなくなっていました。今さら何をしたところで、全てが中途半端に終わってしまうので。
考えたところでどうしようもありませんので、ヨウナは諦めて、外の風景から目をそらし、横になってまた眠ることにしました。
◇
突然、病室の氷の扉が勢いよく開きました。
いたのは、先ほどの医者――ではなく、疲れた様子の、息を切らした少女でした。だいたい、ヨウナと同年代でしょう。
オーバーサイズのコートで全身を隠し、靴はブーツ、両手には革の手袋をはめ、長い髪を背中側、コートの中にしまっていました。前髪は、走っていたため乱れています。
小さな身長と華奢な体格、整った顔立ちと白い肌に、まるで氷像を見ているかのような美しさです。
「ごめん、ちょっと助けて」
少女は名乗りもせず、ヨウナの寝るベッドに近づき、勝手にベッド下に潜り込みました。
ヨウナは突然のことで理解が追いついていませんでした。理解するより早く、また新たな人間がやってきました。
白く物々しい服装の、教会の神父です。顔つきは硬く、本来の優しい性格はどこに行ったのか、今は一人の少女以外、眼中にありませんでした。
「ご療養中のところ申し訳ありません。怪しげな少女を見ませんでしたか? こちらの方へ逃げたようなのです」
「あ~……」
ヨウナには、心当たりしかありませんでした。教会の人間が追いかけてきたということは、何かしらの犯罪者か、もしくは魔女であるかです。
魔女とは氷の神を信奉しない、異端の者たちの総称です。教会の方針に反する行いを過度に行うと、あるいは存在が氷の神に反すると教会にみなされると、罪人として追われるのです。魔女であれば、即刻死刑が妥当でしょう。
ある人は、魔女は人を惑わす存在だと言い、ある人は氷の神に逆らう存在だといい、またある人はこの世界の法則を乱す存在だと言います。
しかし実際、ヨウナは魔女など見たことがありませんし、魔女の話は尾ひれのついたウワサ、面倒な人間を都合良く排除するために盛られた話がほとんどです。
いずれにしても、危なっかしい人間であることには変わりありません。
となれば、すべきことは明らかです。正義たる神父に、ベッドの下に隠れている少女がいると伝えるのです。
ベッド下の少女は緊張して、息を殺して小さく呼吸をしました。ギリギリ、神父には聞こえていないようですが、バレるかどうかはヨウナの決断次第です。
ヨウナは、口を開きました。
「さっき来たが、出てけっつったら通路の先へ逃げていったぞ」
「そうですか、ご協力どうも」
神父は端的に礼を言うと、軽く祈りの所作をして、通路の先へと向かっていきました。
コツコツと氷の床を叩く足音が鳴り、氷の壁に反響し、だんだん小さくなり、しばらくすると聞こえなくなりました。遠ざかり、いなくなったことを確認し、ヨウナはベッド下に隠れている少女に話しかけました。
「おい、追っかけてきてたやつはどっか行ったぞ」
「……ホント?」
少女は、恐る恐る、ベッド下から顔を出しました。周りの様子を確認し、床を這い、立ち上がり、コートについた床の汚れを払いました。
結局ヨウナはわざと神父に教えず、ごまかしたのでした。
「私が聞くのもアレなんだけど……どうして隠れてるって言わなかったの?」
這い出てきた少女は、ヨウナにそう聞きました。
「本当にアレだな。ならなんで助けろっつったんだよ」
「えっと……どうしようもなくて、つい、とっさに……」
少女は、自分でも、どうして人に助けを求めたのか、わかっていませんでした。ずっと、人に頼ることはできないと考えていたというのに。
「先に、名前聞いてもいいか?」
「私は……ユキ」
悩みがちに、ユキは透き通る声で名前を言いました。
ヨウナは改めて、まじまじとユキの顔を見ました。海氷街一の美少女を名乗れるくらい、整った顔立ちでした。
見とれそうになりましたが、コホンとわざとらしく咳をして取り直し、名乗りつつ、ユキの質問に答えました。
「そうか、オレはヨウナだ。言わなかった理由は二つ。一つは、お前にここで暴れられると療養中のオレが困るから。もう一つは……」
「もう一つは?」
「……気まぐれだ。病人なんでな。気分がコロコロ変わるんだ」
ヨウナは、直感に頼るタイプではありません。理性的、合理的に行動するタイプだと自負しています。しかし、今回はどうしてか、このユキという少女を教会につき出す気になりませんでした。
ユキが罪人であれば、ユキを守ることもまた罪になるにもかかわらず。
自身の体が弱っているせいなのか、はたまた別の要因で、実はヨウナは自分が思っている以上にお人よしなのか、単に気分が良かったからというだけなのか、このときは、原因ははっきりとしていませんでした。
なにはともあれ事実として、ヨウナはユキをかばったのです。
「で、一体何やったんだ、お前」
本題に戻り、ヨウナはユキに尋ねました。何やったとは、なんの罪を犯したのか、という意味です。
「……内緒」
ユキは目をそらして答えます。まるで隠し事をする子どものようでした。
「内緒、ね。これからどうするつもりだ? 教会に追われてるんじゃ、もうここの海氷街には、長いこといられないだろ」
教会は海氷街ごとに建てられています。ここの神父はすでにユキに目をつけているようですので、逃れるためにはユキを知らない海氷街へ逃げるしかありません。そうしなければ、氷の果てまで追いかけてくるのです。
「そうだね。どうすればいいかな?」
ユキは他人事のように首をかしげました。とぼけるつもりはなく、本当にどうすればいいか、分からないからです。
「生まれはここなのか?」
「違うよ。別の海氷街から来たの」
「なぜ? 目的は?」
「目的……わかんない。ずっと、私は一人で、逃げてきたから……」
ユキは目的を聞かれて、再び悩みました。
どうやら、相当な訳ありのようです。
ヨウナはユキと違って、ちょっとした目的がありましたので、試す意味合いも含めて、ユキにこう言いました。
「なら、ちょっとした取り引きをしよう。オレは氷結病でな、あまり自由に動き回れない。医者に外出禁止令を出されてるんだ。だが、本格的に動けなくなる前に、羅針氷塔を見に行きたいんだ。子どもの頃からの、思い出があるんでな。だから、海氷街の端っこ、羅針氷塔が一番見える沿岸部まで、連れて行ってくれ。代わりに、お前がここの海氷街から逃げられるよう、手引きしてやる」
羅針氷塔とは、この世界の中心で、天に向かってそびえ立つ氷の塔です。かつて氷の神が作ったものとされ、教会的には神の象徴、現実的には方位を示す役割で知られています。
ヨウナは、ユキの出方をうかがうつもりでした。真っ当ならば、次にユキは病人であるヨウナが一体どうやって逃がすというのか、その方法を聞いてくるはずです。しかし、教えてしまえば自身を連れて行く意味がなくなってしまうため、氷貨を支払うことやこの海氷街の道に詳しいことをアピールし、交渉を進めていくつもりでした。
もし、ユキが悪人であれば、ヨウナが逃げる手段を知っているとなれば強硬な姿勢を取るかもしれませんし、また、ヨウナを神父への脅しの道具に使うかもしれません。
ヨウナはユキの答えによっては、自身の行動を間違いとし、ユキを教会に引き渡すつもりでした。
「いいよ。連れてくだけでいいの?」
「……」
即答するユキに、話を持ちかけたはずヨウナが、首をひねってしまいました。
ヨウナは、逆に懸念を抱きました。取り引きとして持ちかけたのは、もちろん本心ではあるのですが、まさか即答で首を縦に振るとは思っていなかったからです。
「疑わないな、お前。オレがお前をだまして、教会に連れていくつもりだったらどうするんだ?」
「え? そういうつもりだったの?」
「いや、そういうわけじゃないが」
「じゃあ……大丈夫じゃない?」
今度はユキが、ヨウナの意図をはかりかねて首をかしげました。
そこでヨウナは、少し質問をしてみることにしました。
「もし、例えばの話なんだが、道に重い荷物を持ったおばあさんがいたらどうする?」
「持ってあげるよ」
「迷子の子どもがいたら?」
「教会まで連れて行ってあげる」
「お前、教会に追われてるんだよな」
「あ、そうだったね、じゃあ……お母さんお父さんを探してあげないと」
ユキは普通に考えて、普通に答えました。冗談のつもりなど、全くありません。
ヨウナは額に手を当て、やれやれと首を振りました。ユキという少女は、心配になるほど純粋なのでした。きっと、ヨウナが手助けをしなければ、どこかで捕まってしまうに違いありません。
ヨウナは変な事件に首を突っ込んだものだとため息を吐きました。
「……話を戻そう。取り引きは成立ってことでいいんだな?」
「うん、連れてってあげるよ」
ユキが同意したので、ヨウナはベッドの横から床に足を出して座り、ユキに手を差し出しました。
「じゃ、合意の印に握手を」
「握手……」
ユキは、じっと自分の手のひらを見ました。革の手袋をはめているので、厳密には見たのは手のひらではなく手袋です。
「やったことないかも」
「珍しい街の出身なんだな。ま、手を握るだけだ。ほら、早く。追っ手が来るかもしれないぞ」
ヨウナは急かし、さらに手を前に突き出しました。
ユキは恐る恐るヨウナの手に手袋をはめたままの手を近づけ、爆発物でも触るかのように手を触れました。
見かねたヨウナが手を伸ばし、ぎゅっと手を握ると、ユキはびっくりして、肩がはねました。
人の病室に突っ込んできたくせに、ずいぶん人見知りなのだなと、ヨウナは思いました。
「これで、取り引き成立ってことで。握手のついでに、立たせてくれ。長いこと寝てたせいで、立つ気が起きん」
「いいよ」
ユキは短く答え、ヨウナを片手で軽々と持ち上げて立たせました。
「力、強いんだな」
「うん。生まれつき」
「そうか、うらやましいな。そしたら一階へ向かってくれ。追ってきたあいつは今頃屋上をめざしてるだろうからな。あと、今のオレは走れない。病院服を着てるついでに、急患を運ぶフリをして、おんぶしていってくれ」
「……うん。でも、私の肌に、あんまり触れないように気をつけてね?」
「……? まあ、了解した」
ヨウナはベッドサイドのテーブルに置いてあった私服を腕で抱えました。
ユキは指示通りにヨウナをおんぶし、扉を開け、逃げてきた通路を戻って階段を下りて降りてまた降りて、地上階まで来ると、まるで緊急の患者を手術室に運び込むような感じで待合室を突っ切って、外へと出て行きました。
誰も、二人を怪しい目で見ることはありませんでした。ここは大病院でしたから、来院者も医療従事者も、特に異変だと思わなかったようです。冷静に考えれば、外へ向かって急いで患者を運ぶことなどありはしないのですが、みんな忙しいのです。
無事、二人は外に出られました。
「こんな簡単に逃げられるんだ。私一人なら、途中で捕まってる自信しかないや。頭がいいんだね、ヨウナは」
「こんなんで褒めるな、皮肉に聞こえる。そもそも、何がきっかけで教会に見つかったんだ?」
「道ばたに倒れてる人がいたから、病院まで連れて行ってあげたら、身分証を確認したいって言われて……持ってないって言ったら、教会の人を呼ばれちゃった」
「バカだろ、お前、いろいろと」
三つくらいツッコミどころがあります。ヨウナはきりがないとして諦めました。
「そんじゃ、ちょっと着替えるか。病院服で外をうろつく訳にはいかないからな。そこら辺の建物の陰でいい」
ヨウナはユキの背中から降りて、サクッと服を脱いで着替え始めました。
ユキは配慮して目をそらしました。ちらっと視界に映った姿が、気になりました。
「オレって言ってたから、男の子なのかと思ってた」
ヨウナは髪も短いですし、一人称はオレ、しゃべり方はがさつで、服はズボンとシャツ、男物です。一見すれば、男の子にしか見えないでしょう。
「戦場のまっただ中から逃げるとき、親に男っぽく振る舞った方がいいって言われてな。クセが残ってるんだ」
「それは……大変だったね」
ユキは気まずく感じて、言葉を選びました。
「ま、気にしてもしょうがない」
ヨウナはあっさりと着替え終え、周囲を確認しました。追っ手の様子はないようです。
「後は歩いて羅針氷塔のほうへ行こう。さっきも言ったが、オレは走れないからな。教会に見つかったときは、オレをおんぶするか、置いていけ。オレを人質に利用しても構わない」
「歩いてたら、教会の人に追いつかれちゃわないかな?」
「逆だ。ここの海氷街は発展してて人口が多いから、当然日中は人通りが多い。下手に走るより、人の波に乗って歩いてる方が百倍見つけにくい」
「おお……」
ユキは、ヨウナの思考に感嘆していました。ヨウナからすれば、たいしたことはなく、当たり前のことを言っているつもりです。
簡単なことで褒められて、ヨウナはそれがむずがゆく、尊敬のまなざしで見るユキから目をそらしました。
「さっさと行くぞ。日が暮れる前には着きたい」
ヨウナは、先に歩き始めました。ユキは、ヨウナの後をついていきました。
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