化学調味料不使用

ゆうりさん

第1章 善意の発火点

会議室のブラインドは半分だけ降ろされていて、一月の午前の光が長いテーブルの片側だけを白く照らしていた。セントラルゲートタワー六階、マンガ編集局の第二会議室。壁には『コミックブレイズ』の歴代表紙ポスターが並び、ホワイトボードには先週の企画会議のメモが消されずに残っている。


 土屋玲奈つちやれいなはノートPCの画面を一度確認してから、テーブルの上に印刷した資料を配り始めた。A4で三枚。一枚目の右上には「マンガ編集局定例会議 議題(3)」と印字されている。資料を受け取った編集者たちが紙をめくる音が、暖房の低い駆動音に混じった。


 「議題の三番目に入ります」


 土屋は銀縁の丸眼鏡の位置を人差し指で直し、手元の資料に目を落とした。


 「水瀬カヤさんから、担当の村瀬を通じて正式な通告がありました。AI不使用を明示しない媒体では、今後仕事を受けないと」


 会議室の空気が変わった。隣に座っていた副局長の一人がペンを止め、向かいの若手編集者が顔を上げた。土屋はその反応を視界の端に捉えながら、資料の二枚目を指で示した。


 「経緯を説明します。昨年末からXやピクシブで、水瀬さんの画風を模倣したAI生成画像が大量に出回っています。Midjourney v7やReve Imageで水瀬さんの画風を再現したLoRAモデルが非公式に配布され、『水瀬カヤ風』を名乗るイラストが数百点規模で投稿されました」


 土屋は資料に添付されたスクリーンショットのプリントを手に取った。ピクシブの検索結果画面。「水瀬カヤ風」で検索すると、本人の作品ではないイラストが並ぶ。色使い、線の質感、キャラクターの目の描き方——素人目には判別がつかないほど似ている。


 「水瀬さんはXで長文の抗議を投稿されました。『私の絵は私の人生の時間でできている。それを数秒で複製する技術の存在を、私は認めない』と。このポストの表示回数が二千万を超え、ハッシュタグの『AI不使用クリエイターを守ろう』がトレンド入りしています」


 デスクの上でノートPCの文賢Proが、議事録ドラフトの校正結果を画面の右側に表示していた。「冗長表現の可能性があります」という指摘が黄色いハイライトで三箇所ほど点灯している。土屋はちらりとそちらに目をやり、後で直そうと思いながら、会議室の面々に視線を戻した。


 「水瀬さんは、CGHが発行する媒体に『AI不使用』の表示を入れることを求めています。表示がなければ、今後の表紙イラストの依頼は受けられないと」


 沈黙が三秒ほど続いた。


 「それは、うちだけの話ですか。他社にも同じ通告を」


 副局長の問いに、土屋は首を振った。


 「水瀬さんと取引のある出版社には同様の趣旨を伝えているそうです。ただ、CGHはメインのクライアントですから、最初に正式な通告が来たのはうちです」


 会議の残り時間で、土屋はマンガ誌への「AI不使用」ロゴマーク掲載案の骨子を説明した。対象は『コミックブレイズ』と『月刊スパイラル』の奥付ページ。文言は「本作品の制作において、ストーリー・作画・仕上げの各工程で生成AIの出力を最終成果物として使用していません」。土屋がこの案を読み上げたとき、会議室の七人のうち反対の声を上げた者はいなかった。質問はいくつか出た。「最終成果物として」の範囲はどこまでか。下描きの参考に画像生成AIを使った場合はどうなるか。それらの質問に対して、土屋は「詳細は今後詰めます」と答えた。ノートPCの文賢Proの画面は、会議の間ずっと開いたままだった。


 会議が終わり、編集者たちが席を立つ。土屋はPCを閉じ、資料を揃えてクリアファイルに挟んだ。窓の外には芝浦の運河が見え、一月の曇り空の下で水面が鈍く光っている。


 自席に戻る途中、四階の文芸編集局のフロアを通りかかった。廊下側のガラス越しに、菅原正道すがわらまさみち局長の姿が見えた。菅原は若手編集者二人を前にして、身振りを交えながら何かを語っている。土屋はガラス越しに足を止めた。


 「——小説は人間の営みの結晶なんだ。言葉の一つひとつに書いた人間の血が通っている。それを忘れた編集者は、ただの取次だよ」


 菅原の声はガラスを通しても明瞭だった。若手編集者の一人が頷きながらメモを取っている。もう一人は——土屋はその視線を追った。もう一人の若手は、菅原の背後にあるモニターに一瞬だけ目を向けた。モニターには文賢Proのインターフェースが映っている。校正候補の一覧が、白い画面に青い文字で並んでいる。若手編集者はすぐに菅原のほうに視線を戻し、何も言わなかった。


 土屋もまた、その画面に特段の意味を見出さなかった。足早にエレベーターホールへ向かう。六階のマンガ編集局に戻り、自分のデスクに腰を下ろすと、ノートPCを開いて文賢Proの校正結果を処理し始めた。「冗長表現」のハイライトを一つずつ確認し、直すものは直し、そのままにするものはスキップする。指が慣れた動作で画面をスクロールしていく。デスクの周囲には担当作家たちから贈られたイラスト色紙が立てかけられ、付箋だらけのゲラが三冊ほど積まれていた。


 土屋のスマートフォンが振動した。社内チャットツールの通知だ。画面には夏目CEOの名前と、短いメッセージが表示されていた。


 「AI活用の件、各部門の状況をヒアリングします。ケースバイケースで判断していきましょう」


 土屋はそのメッセージを読み、「各部門の状況を把握しようとしてくれている」と受け止めた。返信はせず、チャットを閉じて文賢Proの画面に戻った。


 同日の午後二時。セントラルゲートタワー十六階、経営企画本部のフロア。


 矢島俊介やじましゅんすけのデスクの上には、ディスプレイとキーボードとコーヒーカップしかない。私物は一つもなかった。壁にもポスターはなく、棚にもフィギュアはない。ホワイトボードにはKPIの進捗グラフが四つ並び、数字と矢印だけが無機質に光っている。


 矢島はディスプレイに表示されたスプレッドシートを見つめていた。AI導入プロジェクトの中間報告書。翻訳支援AI「マントラ」の導入効果として、マンガの海外展開にかかるリードタイムが従来比で四十二パーセント短縮された。海外売上は前年同期比で三十パーセント増。スタジオ・セントラルモーションで試験運用中の背景美術AI支援ツール「BG-Assist」は、背景の下塗り工程の所要時間を六十パーセント削減し、アニメーターの残業時間の軽減に寄与している。


 数字は順調だった。矢島はコーヒーカップを右手で半回転させ、画面から目を離した。


 問題は数字の外にある。


 今朝、社内チャットツールのタイムラインに夏目CEOの「ケースバイケースで判断していきましょう」というメッセージが流れてきた。矢島はそれを読んだ瞬間、「ケースバイケース」という言葉が意味するものを計算した。各部門にヒアリングするということは、部門ごとの温度差が可視化されるということだ。マンガ編集局がAI不使用を推進する動きを見せていることは、すでに廊下の立ち話で耳にしている。


 矢島はメールの受信箱を開いた。マンガ編集局から経営企画本部宛に、「AI不使用」ロゴマーク導入の検討依頼が届いている。添付ファイルを開き、企画書のドラフトを読んだ。「本作品の制作において、ストーリー・作画・仕上げの各工程で生成AIの出力を最終成果物として使用していません」。矢島はこの一文を読み、画面上で指をスクロールする手を止めた。


 「最終成果物として使用していません」


 この文言は、CGHの社内で全部門に導入されている文章校正ツール「文賢Pro」を除外するのだろうか。文賢ProはAI搭載の校正・推敲支援ツールであり、マンガのネーム段階でのセリフのチェックにも使われている。アニメ制作パイプラインにはBG-Assistが組み込まれ、翻訳にはマントラが使われている。マンガだけAI不使用を謳うことの整合性を、矢島は即座に計算した。


 コーヒーカップをもう半回転させた。中身はもう冷めている。矢島は立ち上がり、フロアの端にあるコーヒーマシンに向かった。豆を挽く音が静かなフロアに響く。デジタル戦略部のスタッフは六人で、全員がディスプレイに向かっている。雑談はほとんどない。矢島はマグカップに新しいコーヒーを注ぎながら、スマートフォンでXを開いた。「#AI不使用クリエイターを守ろう」のハッシュタグが目に入る。タップして、投稿の一覧をスクロールした。感情的な言葉が並んでいる。「機械に魂はない」「クリエイターの血と汗を馬鹿にするな」「AI使うやつは泥棒」。矢島はXを閉じ、コーヒーを持ってデスクに戻った。


 スプレッドシートの数字は変わっていない。マントラの導入効果、BG-Assistの工数削減、Claude Opus 4.6やGPT-5.4を使った企画書のブレインストーミング。これらの数字を積み上げてきた。その上に「AI不使用」の看板を立てる。矢島には、それが何を意味するのかが見えていた。しかし、今日の段階では見えていることを口にする場面ではない。矢島はメールの返信欄に「拝受しました。内容を確認のうえ、改めてご連絡します」と打ち、送信した。


 同日の夜。埼玉県川口市、JR川口駅から徒歩十五分の木造アパートの二階。


 三上蓮みかみれんは、MacBookの画面に向かっていた。机の上にはMacBookのほかに、音声入力用のコンデンサーマイクがアームスタンドで固定されている。マイクの隣にはペットボトルのお茶と、コンビニのおにぎりの包み紙が一つ。左手首にはリストレストが当てられており、左手は軽くキーボードの端に添えられているが、動きは少ない。


 画面の左半分にはテキストエディタが開き、ノベリスタに連載中のファンタジー小説『境界線上のグリフ』の最新話の原稿が表示されていた。右半分にはClaude Opus 4.6の会話ウィンドウ。三上は会話ウィンドウに向かって、マイクのスイッチを入れた。


 「第三十二話の後半、主人公がエルダに真実を告げるシーン。ここの段落なんだけど、論理的に飛躍してる部分がないか見てほしい」


 音声入力が文字に変換され、送信される。数秒の後、Claudeの返答が画面に表示された。


 三上はClaudeの指摘を読んだ。「告白に至る心理的な準備が読者に見えにくい」という分析と、「前の段落で主人公の内面を一段階挟むと自然になるのでは」という提案。三上は画面を見つめたまま、右手の人差し指で唇を軽くたたいた。数秒の沈黙の後、左半分のテキストエディタに切り替え、右手だけでキーボードを打ち始めた。


 打鍵の速度は遅い。一文を打つのに、両手で打つ人の倍以上の時間がかかる。左手の指が動こうとして、わずかに遅れる。三上はその遅れに特別な感情を向けることなく、右手で文字を打ち、ときどき音声入力に切り替えて長い文章を入力した。


 「主人公は剣を鞘に戻した。戻してから、自分がなぜ剣を抜いていたのかわからなくなった。エルダの目が自分を見ている。その視線の意味を、主人公はまだ名前をつけられずにいた」


 三上は入力した文章を読み返した。Claudeのウィンドウに切り替え、マイクに向かって話した。


 「今のところ、こう直してみた。エルダの反応の前に主人公の戸惑いを一段落入れた。これで流れは自然になったと思う?」


 Claudeの応答を読み、三上は小さく頷いた。それから、もう一度テキストエディタに戻り、文末の句読点の位置を一箇所だけ直した。この最後の微調整は、Claudeに相談せず、自分の感覚で決めた。


 原稿の推敲を終え、三上はノベリスタの投稿画面を開いた。最新話をアップロードし、公開ボタンを押す。それから、前話のコメント欄を確認した。


 「続きが楽しみです!」「主人公の葛藤がリアルで引き込まれます」「エルダとの関係がどう動くのかドキドキしてます」


 三上は画面をスクロールしながら、口元がわずかに緩むのを自覚した。コメントの数は十二件。連載開始から八ヶ月、読者は少しずつ増えている。月間ランキングには遠いが、毎話コメントをくれる読者が五、六人いる。その一人ひとりのアイコンを、三上は覚えていた。


 MacBookを閉じ、部屋の電気を消す。六畳一間の窓からは、隣のアパートの外廊下の蛍光灯が見える。三上は布団に入り、天井を見つめた。右手だけの打鍵で一話分の原稿を仕上げると、前腕がじんわりと痛む。その痛みは毎晩のことで、もう気にならなくなっていた。


 翌日の午後。セントラルゲートタワー十三階、プラットフォーム事業部のフロア。


 桐野翔平きりのしょうへいは、パーカーのフードの紐を左手でいじりながら、ディスプレイのダッシュボードを眺めていた。ジーンズにグレーのジップアップパーカー。出版社の管理職としては異質な格好だが、プラットフォーム事業部ではこれが標準だった。デスクの端にはガンダムのプラモデルが三体並び、その隣にデータ分析用のサブディスプレイが置かれている。


 ノベリスタの月次レポートを作成する時間だった。月間アクティブユーザー数、投稿作品数、閲覧数、書籍化打診数。桐野はスプレッドシートのタブを切り替えながら、各指標を確認していく。


 利用者属性の分析タブを開いた。ノベリスタでは、投稿者の任意のプロフィール情報として、使用デバイス、執筆環境、利用ツールなどを収集している。昨年末に追加されたアンケート項目に「執筆支援ツールの利用状況」があり、その回答データが画面に表示された。


 AI支援ツール利用者のうち、「身体的な理由で執筆支援ツールを利用している」と回答したユーザーが一定数いた。数字としては全体の数パーセントにすぎないが、個々の自由記述欄には具体的な記載があった。「視覚障害のため音声入力とAI校正を併用」「上肢の障害で長時間のタイピングが困難」「発達障害の特性により文章の構成にAIの壁打ちを活用」。桐野はスクロールしながらそれらの記述を読み、フードの紐をいじる手を止めた。


 数秒間、画面を見つめた。それから、ダッシュボードの別のタブに切り替え、月次レポートの作成を再開した。この日、桐野はこのデータについて誰にも話さなかった。


 同日の夕方。大阪府堺市の一軒家の二階。


 水瀬カヤみなせかやは、作業机に向かっていた。二十七インチのモニターにはPhotoshop CC 2026のインターフェースが表示され、新作のイラストの仕上げ作業が進行中だった。ペンタブレットの上を右手が動く。長い黒髪を一つに束ね、赤いスウェットを着た水瀬の横顔は、画面の光で青白く照らされていた。


 作業の途中で、水瀬はPhotoshopのメニューバーから「フィルター」を開き、「ニューラルフィルター」を選択した。肌の質感を滑らかにする補正をかけるためだ。スライダーを左右に動かし、効果の強さを調整する。仕上がりを確認し、「OK」をクリック。続けて、選択範囲の作成にAdobe Senseiベースの自動選択ツールを使った。髪の毛の複雑な境界線を、ツールが数秒で検出する。水瀬は結果を確認し、一部を手動で修正してから次の工程に進んだ。


 これらの作業は、水瀬にとって「Photoshopの機能を使っている」以上の意味を持たなかった。三年前からずっと同じ手順で仕上げている。


 作業を一段落させ、水瀬はXのアプリを開いた。先日投稿した長文の抗議ポストのインプレッション数を確認する。二千三百万表示、リポスト八万四千、いいね十二万。リプライ欄を下にスクロールする。「支持します」「クリエイターの権利を守れ」「水瀬先生の絵は唯一無二」。その中に、「AIを使ってる絵師が水瀬さんの名前を語ってるの許せない」「画風泥棒は犯罪にすべき」という投稿も混じっている。


 水瀬はリプライを読むのをやめ、新しいポストの作成画面を開いた。指がスマートフォンの画面の上で止まった。しばらく考えてから、短い文章を打った。


 「私の絵は私の人生の時間でできている。何千時間も練習して、失敗して、また描いて。それを数秒で複製するものを、私は道具とは呼ばない」


 投稿ボタンを押した。スマートフォンを机に置き、Photoshopの画面に向き直った。新しいレイヤーを作成し、ペンタブレットを手に取る。線を引く。一本一本の線に、十年以上の訓練が蓄積されている。水瀬はそのことを言葉にはしなかったが、ペンを握るたびに感じていた。


 その夜。東京都港区芝浦、土屋玲奈の自宅マンション。


 土屋は台所に立ち、夕食の準備をしていた。鍋に水を入れ、コンロの火をつける。冷蔵庫を開けた。二段目の棚に、だしパックの袋が立てかけてある。パッケージには「化学調味料不使用」と印刷されていた。土屋はだしパックを一袋取り出し、封を切って鍋に入れた。冷蔵庫から野菜を出し、まな板の上で切り始める。包丁がまな板に当たる音が、静かなキッチンに規則的に響いた。

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