赤眉の母

豊田旅雉

赤眉の母

       一


「磨けば熱くなる。手に熱を感じたらゆっくり、じっくり冷ますんだよ」

 十二月の凍てつく寒さの中、麹(こうじ)を水で洗う。手はあかぎれ、凍傷のようになる。凍った麹が溶ければ仕込みに入る。体よりも大きな桶(おけ)に麹と水、洗った酒米を加えて発酵を促していく。麹のカスを手で取り除きながら、それを三日ごとに何度も何度も繰り返す。

呂母(りょぼ)がつくる酒は、麹だけでなく酒米も手で丁寧に磨くからとろけるような甘さで、酒屋のある琅邪(ろうや)郡海曲(かいきょく)県(現在の山東省南部)で評判だった。

夫はすでになく、いつか店を継ぐ一人息子の呂育(りょいく)のため、懸命に店を繁盛させた。だが、母の思いは息子には届かなかった。裕福な家に生まれた呂育は、母親が忙しいのをいいことに勉学を怠(なま)け、家のことも何ひとつ手伝わなかった。年ごろになれば卸(おろし)先の居酒屋で酒を呑(の)んだり村の女を追いかけ回したりと、放蕩三昧(ほうとうざんまい)だった。

 それでも呂母にとって、一粒種の息子はかわいかった。

 そんなときに政変が起きた。

 後九年、中国・漢王朝は外戚の王莽(おうもう)に政権を奪われ、国号が新に変わった。

 国が変われば制度が変わる。

 税を納めるにしても年号や官公庁の名前が変わっているから、商売人たちは帳簿を直さなければならなくなった。国内はあちこちで混乱を極め、呂母の店も例外なく対応に追われた。

「女将、若旦那にも手伝ってもらわないと、人手が足りません」

 帳簿の手直しだけで手一杯になっていた番頭の仁(じん)は、毎日のように呂母に泣きついた。

 呂母は一計を案じた。

「じゃあ、育を県府に入れてみるか」

 身内が役所で働いていれば、煩雑な手続きにもかなりの融通が利く。年ごろなのにいつまでも遊び回っている呂育にとっても、県府で社会の仕組みを学べるから、いずれ店を継ぐときにも役に立つ。

「それは名案です……」

 仁は一瞬だけ顔を輝かせたが、すぐに現実的な問題が思い浮かび、

「……ですが、県府にお納めするおカネは?」

 と聞いた。

「一万銭もありゃあ入れてくれるだろ」

 呂母は愛息に銭を惜しまなかった。


「仁や。県令さまに報告する帳簿は見てくれたかい」

 呂母は重い酒の甕(かめ)を運びながら仁に聞いた。呂育を県府に入れたが、忙しさは相変わらずだった。

「見ましたが女将、ここ間違ってますよ。『琅邪』じゃなくて『填夷(てんい)』です。それに、今の決まりだと『もともとは琅邪だった填夷』って書かないと駄目です。そもそも『県令』ではなく、今は『県宰(けんさい)』です」

 仁は帳簿に向かいながら言った。

「ああそうか。ここの地名、琅邪じゃなくて填夷に変わってたんだったか。でも確か、お隣の『城陽(じょうよう)』は変わってないんだろ?」

「あそこは変わってないはずですが、お上が変わってから何でもかんでも変わりましたから、これから変わるのかもしれません。また『城陽』で帳簿をつくってから名前が変わってたなんてことになったら面倒ですから、もう一回確認した方がいいですね」

 政権を簒奪した王莽は漢の官制を大胆に改革しただけでなく、官名や地名、土地制度などさまざまな改革を積極的に推し進めた。始建国(しけんこく)、天鳳(てんぽう)、地皇(ちこう)と、暦までコロコロ変えた。天鳳元(後一四)年の今は都の名も、漢の人民が慣れ親しんだ『長安(ちょうあん)』から『常安(じょうあん)』に変わってしまっていた。

「地名なんかより、お納めするおカネは大丈夫なのかい? 偽物が混じってたら、県令に突き返されるだろ」

「ですから県宰です。おカネは今から全部確認しますけど、最悪、前の五銖銭(ごしゅせん)で納めてしまいましょう」

 王莽の改革は、特に呂母のような商人には甚大な混乱を与えた。漢の武帝時代に導入されその後廃止された塩・鉄・酒を国が専売して利益を得る制度と、均輸・平準法をさらに進め、塩・鉄・酒だけでなく、水陸の産物や貨幣と採銅、物価統制を国家が独占する六莞(りくかん)、漢でいう長安に加え洛陽・臨淄(りんし)・邯鄲(かんたん)・宛(えん)・成都の六大都市に五均官(ごきんかん)を設置して市場価格を統制する五均の制度が実施されていた。

 つまり、酒は再び国家の専売となったから、呂母の家はいわば国家が酒を販売する代理店のような扱いとなり、世が豊作だろうと不作だろうと酒の値段すら勝手に変えることができなくなった。

 その上、貨幣は後七年に新貨幣が鋳造されたかと思えば、わずか二年後の今年、王莽が皇帝となって慣れ親しんだ漢の五銖銭を廃止し、再び新たな貨幣が発行された。

 高額取引用につくった貨幣はとにかく均衡が取れていなかった。重さ十二銖の大銭(たいせん)の価値は、一枚の重さ五銖の五銖銭五十枚と同じ。十二銖と二百五十銖が同価値なのだから、盗鋳者が相次ぐのは当然で、偽貨幣が横行した。信用できない貨幣など流通するはずがなく、民間では密かに廃止されたはずの五銖銭を使い続けていた。この一年後にも、王莽は金や銀、貝などを使った二十八種類もの貨幣をつくり、さらに四年後には、わずか五年前につくった貨幣を廃止し、また新たな貨幣を登場させた。この間、何度新しい貨幣が登場しても、低額貨幣と高額貨幣の重さの均衡は狂ったままだった。

「町売りはそれでもいいけど、お上に五銖銭はまずくないかい?」

「大丈夫でしょう。県宰も県の取り分は扱いやすい五銖銭の方がありがたいはずですし、ちょ……、いや、常安に上げる分ぐらい、県に両替させればいいんです。そのために若旦那がいるんじゃないですか」

 仁は莫大な量の偽貨幣の確認が嫌で嫌で仕方ない様子で言った。確認すれば必ず、偽貨幣が次々と見つかる。そうなればまた、お上に上げる報告書をいちから直さなければならなくなる。

「そうね。育にやらせればいいね。それにしても、国が変わってから何もかも変わりすぎなんだよ。うちはまだ育がいるからいいけど、ほかの店は大変だろ?」

「そうだと思いますよ。どこの店もみんな、口をそろえて『ああ、漢の時代は良かった』って言ってますから」

「新しい陛下は外戚だろ? やっぱり外戚ってのはダメだね」

 呂母はそう言うと、店の奥に祀(まつ)っていた城陽景王(じょうようけいおう)の位牌を見た。

 城陽景王は、高祖劉邦の長男肥(ひ)の子劉章(りゅうしょう)のことで、劉邦の妻で外戚の呂后の政権簒奪を阻んだ気骨の士として知られ、当時の領国であるこの地方で広く信仰されていた。

 そもそもこの地は、周の太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が封じられた、かつての斉。太公望は商業を奨励し、女性にも機織りや裁縫などの職を持たせ、女性の地位を向上させた。秦が作った長安などよりも「呂氏斉国」を誇る気風は人民に根強く生き続け、女性も男性並みに力を持って生き生きと働いていた。

「そんなことを言ったら、また法を変えられて罰せられますよ」

 仁が心配そうに言うと、普段から呂母の店を担当している酒士(しゅし)が、息を切らせて店の中に雪崩(なだ)れ込んできた。酒士は、酒の専売制を監督する県の小役人である。

「女将、大変です! 息子さんが県宰に捕らえられました!」

 大あわてで酒屋を駆け出した呂母が真っ先に県府に向かおうとすると、後を追っていた酒士が、

「女将! 県府じゃありません! 市場です、市場!」

 と、大声で呼び止めた。

「市場?」

 市場はこの時代、刑場になる。呂母はあわてて足を止め、振り返って聞き返した。

「はあっ、はあっ……。ええ、市場です……。市場で杖(じょう)打ち六十……」

 酒士は完全に息が切れていた。

「杖打ち六十なんて死んじまうだろうが」

 日々酒甕を運んで鍛えられていた呂母は、息も切らせずに酒士を問い詰めた。

「はあっ、はあっ……。ええ、け、県府への遅参が一日で一杖……、それが六十日で……」

「そんな馬鹿なことがあるかい! 遅参ぐらいであたしの息子を殺すと言うのかい、県令は!」

「……け、県宰です」

「名前なんてどうでもいい!」

「ひ、ひぃ……、す、すいません。それで、今やっているみたいで……。新しい陛下が恩赦を出すって噂もありましたので……」

 新政権を樹立して間もない王莽は、人民の人気取りに恩赦を乱発していた。酒士は、県宰がすぐに出るであろうその恩赦を待たずに刑を執行したということに何か裏があると言いたかったのだが、呂母にとってはそれどころではない。

「今やってるだって? お前先刻、捕えられたって言ってたじゃないか!」

「そ、それを説明する前に、女将が駆け出したんじゃないですか。で、ですが、杖刑は法に照らして遅参の分だけです」

「もういい!」

 呂母は酒士をその場に置き去りに、市場へ一目散に走った。

 市場は騒然としていた。

 刑場となる広場を大勢の群集が取り囲み、受刑者の職務の怠慢を指弾する怒号と女の悲鳴が飛び交っていた。

「五十七!」という執行官の声が聞こえた。

 杖刑はすでに終わりかけている。

 呂母はなりふり構わず人波をかき分け、広場の中央に向かった。

「通してください! 道を開けてください!」

 いくら叫んでも道は開かなかった。新王朝に苦しめられ続けていた人民の中には、役人が刑を受けていることが痛快らしく、呂母を迷惑そうに手で払いのけながら、喜悦の表情を浮かべている者すらいた。

「五十八!」の声を聞いた呂母は、そんな人たちを強引に手で押しのけ、

「あの子の母です! 通してください!」

 と叫んだ。

「こいつがあの馬鹿役人の母親か!」

 群集の中から心ない罵声(ばせい)を浴びせられた。

 それを無視して懸命に前に進むと、「五十九!」の声とともに、杖で人体を叩(たた)く鈍い音を聞いた。

 やっとのことで人の群れをはい出して刑場の前に出た呂母は、すぐさま、

「待ってください! 刑をお止めください!」

 と必死で叫んだ。

 うつ伏せの呂育の背中の官服はずたぼろだった。大量の血が吹き出していた。呂育は悲鳴すらあげず、ぴくりとも動いていない。

 背中に悪寒が走った。嫌な予感がした。

 手を止めた執行官が、背後の県宰を見た。

「呂育の母でございます! お願いでございます! どうか息子をお許しください!」

 そう叫んだ呂母の両脇を、警備の小役人が二人がかりで抱えて取り押さえた。

 県宰が右手を挙げた。振り下ろされれば、刑が執行される。

「お願いです! このままでは息子は死んでしまいます。もういいでしょう。息子は人を殺したわけではありません!」

 呂母は小役人に引きずられながら必死で叫んだ。

 県宰が、容赦(ようしゃ)なく右手を振り下ろした。

「六十!」

 執行官がためらうことなく杖を振り下ろした。ドスッという鈍い音とともに、呂育の背中の肉が引き裂かれた。もう出切ったのか、わずかな血しぶきが飛んた。

「育、育!」

 呂母は力の限り叫んだ。

 何の反応も返ってこなかった。呂育は絶命していた。

 それを一瞬で感じ取った呂母は、両脇の小役人を振り払うとひざから崩れ落ちた。

 たった一人のわが子を失った。自分の命を奪われた方が、どれほど良かったか。

「ああ、育……。どうして……。たかが遅参で、どうしてこんな……」

 あまりにも信じがたい現実。あまりにも理不尽な仕打ち。目からこぼれる涙は止まることがなかった。

 刑が終わり、市場から群衆が帰り始めると、別の若い小役人たちが呂育の遺体を片付けようとした。

 呂母はその小役人にすがりつき、

「息子を、育を、返してください……」

 と懇願した。

 若い小役人の一人の顔に見覚えがあった。一度呂育が家に連れて来たことのある王(おう)という同僚だった。

 王は呂母の肩を抱くと、耳元で、

「お母さま。ご遺体は私の方で、後で必ず、家まで運ばせます」

 とささやいた。

 仰向けにされた呂育の顔を見た。口元から血こそはいていたが、顔はきれいなままだった。

「どうして、どうしてこんなことに……」

「われわれ役人は、新法に従うしかないのです。では……」

 王たちがそそくさと呂育の遺体を県府の方へと運んでいった。

 −−−−どうして、どうして……。たかが遅参で育は……。何が新法か……。人を殺す法などあっていいのか……。

 呂母は、板に乗せられて運ばれていく呂育を、泣きながら、ただぼう然と立ち尽くして見送った。


       二


 呂育が死んだ。親より先に−−−−。

 失意の奈落。埋めきれぬ空虚の穴。止まらない涙は、愛息子を失った哀(かな)しみゆえか、あまりにも理不尽な仕打ちをした県宰への悔しさゆえか。

 遺体が返され小さな葬儀をしたが、普段からつき合いのある村人たちは誰も顔を出さなかった。罪人の死を悼(いた)む人間は、この村にはいなかった。

 遺体を洗い、死装束を着せ、遺体の口に酒と干し肉を含ませる間も、呂母は泣き続けた。哭礼(こくれい)の域を超越した、心の底から湧(わ)き上がる、枯(か)れることのない涙だった。

 仁とたった二人で柩車(きゅうしゃ)を引いた。挽歌は歌えなかった。墓穴に到着すると、仁と二人で埋葬した。

 酒屋に戻ると、呂母は緊張の糸が切れたかのように、そこから七日間寝込んだ。店など開く気も起きなかった。

「女将、恩赦が出ました。店を開けなきゃなりませんが……」

 寝所で憔悴(しょうすい)しきった呂母に、仁が言った。

 人民の人気取りのために乱発する王莽の恩赦は、呂母から心を安らげて服喪する期間をも奪った。

 呂育の死などまるでなかったかのように、また日常が始まる。

 酒屋など開いても、もう何の意味もない。跡継ぎの呂育が死んだ。どうせ店は呂母の代で終わる。だが、国の専売を請け負っている以上、店は開けなければならない。

「店は……、お前にやる……」

「そういうわけにはいきません。この店は女将の店でしょう。それに恩赦を聞いて、葬儀の間に酒が買えなかったお客さんがもう何人か来てますし」

 仁が困惑しながら言ったので、呂母は仕方なく半身を起こし、

「……わかった。でも、あしたからだ……」

 とだけ言い、再び寝台に倒れ込んだ。


 呂母は仕方なく店に立った。いや、立つことなどできず、いすに座ったまま客を応対した。甕を持って酒を買いに来る村人たちに自分で酒を入れさせ、黙ってカネだけを受け取った。中には置いていくカネよりも多い酒を持っていく客もいたが、そんな不正など気にもならなかった。

 呂育はもう二度と帰って来ない。人生の背骨、梁(はり)を失った。来る日も来る日も、呂母はただふさぎ込んだまま、適当に客を応対し続けた。

 そんな呂母の想いをよそに、店は日に日に繁盛した。

 客たちは、呂母が不正を黙認することを噂(うわさ)にした。噂は噂を呼び、海曲県中から客が集まり、中には同業者も混じって、わずかなカネに見合わぬ大量の酒を持っていった。

 その状態にも、すぐに変化が出た。

 貧農の二男や三男といった農村社会のあぶれ者、不良少年たちが店先で酒盛りをはじめ、ほかの客が寄り付かなくなった。するとある日、体の大きな一人の少年が現れた。「無頼であっても弱い者を助けるのが俠気(おとこぎ)だ」。大きな少年は侠(きょう)を語った。正業すら持たない不良少年たちはあっという間に感化され、その日からきちんとカネを払うようになった。

 呂母のことを「おっ母さん、おっ母さん」と慕う少年たちの中には、呂育と同じぐらいの年齢の若者もいた。

 悲しみが消えることはなかったが、息子のような年齢の若者たちに囲まれ、気は紛(まぎ)れた。

「おっ母さん、きょう、これしかねえんだが……」

 俠を語っても所詮は村のあぶれ者。わずかな小銭しかない少年たちが多かった。

「そんなもん、ツケとくからいいよ」

 呂母は毎回、その小銭を突き返した。

 今度はツケの少年が増えていった。それを許し続けた。

 五度目のツケだという少年がある日、

「おっ母さん。おれ、おっ母さんのためなら何でもすっからな。何かあったら何でも言ってくれよ」

 と、酔眼で笑った。

 いつしか、そんな不良少年たちがかわいく思えるようになった。

 毎日タダで酒を呑ませ、服がボロボロの少年には新しい服を与えた。刀が欠けたと言えば、すぐに新品を買ってやった。

「女将、ちゃんと商売しないと、県府に叱(しか)られますよ」

 仁の苦言も耳に入らなかった。

 酒屋の営業がまったく成り立たなくなると、仁は店を去った。分不相応な金額の餞別(せんべつ)を持たせた。将来のない店に仁を引き留める理由もなかった。

 一人残された呂母は、少年たちに手伝わせて何となく酒を作りはじめた。店を畳(たた)むと決めてはいたが、何の罪もなくただ次男、三男に生まれただけで農村社会を弾き出されたこの少年たちに呑ませるだけ呑ませ、酒づくりの面白さぐらいは教えてやろう。そう考えていた。

 呂母の家に集まる不良少年の数は、十数人になっていた。

 中でも豪快に酒を呑む徐次子(じょじし)という若者が目立った。いつも俠を語る体の大きな少年だった。言葉遣いは乱暴だが義理堅い性格で、誰よりも積極的に酒づくりを手伝った。

 徐次子のまわりには自然と少年たちが集まり、張癸(ちょうき)と張乙(ちょういつ)という兄弟がいつも従っていた。

 しばらくすると、徐次子が、

「おっ母さん。この酒、おれたちが呑むばかりでどこにも卸してねえようだが、これじゃあおっ母さんの商売にならんだろう」

 と、呂母の店を心配した。

「商売は辞めたんだ。跡継ぎが死んじまったからね。あたしの代で店は畳むんだよ。だから、あんたらは酒がなくなるまで呑んでくれていい」

 呂母が投げやりに言った。

「跡継ぎって、息子さんか? どうして死んだんだい」

「県の役人だったんだが、県令に殺されたんだよ」

「県令に殺された? どうして」

「どうしてだかなんて、あたしにはわからないんだよ。出仕に遅れただけで死刑にされたんだ」

「遅参で死刑だって? そんなこと、あるはずがねえじゃねえか」

「あるはずがねえったって、実際にあったんだよ」

「そんなこと……」

 徐次子は少し考え込んだ。

「それならおっ母さん。おれが、どうして息子さんが殺されなきゃならなかったのか調べてやるよ。遅参で死刑なんてあり得ねえ。何か理由があるはずだろ」

「そりゃあそうだが……」

「おっ母さん、おれに任せてくれ。こんなに良くしてもらってんだ。それぐらいやらなきゃ、バチが当たるってもんだ」

 徐次子はそう言って酒蔵を出ると、外にいた張兄弟を集めてひそひそと話し合いをはじめた。

 なぜ呂育が殺されなければならなかったのか。この半年間、それを考えなかった日はなかった。新法の取り決めだから仕方がない。それで納得できるはずがない。

 呂母は一度店の奥に行くとすぐに戻ってきて、

「あの子は游徼(ゆうきょう)だったんだ。王って同僚がいる」

 と、持ってきた銭袋を徐次子に渡した。游徼は見回りをする木っ端役人である。

 徐次子は銭袋を突き返しながら、

「わかった。必ずおれが突き止める」

 と言い、呂母の手を握った。

 徐次子が去ると、入れ替わるように張兄弟が近寄ってきて、

「裏稼業のことは、あっしらに任せてくんなせえ」

 と声をそろえたかと思えば、呂母から銭袋をひったくって、急いで徐次子について行った。

「まあ、あんな呑んだくれの悪たれどもに何もできやしないか」


 徐次子たちが去って三日が経つと、今まで一度も顔を出さなかった県の酒士が酒屋を訪れた。

 −−−−まさか、徐次子が捕まった……?

 呂母が恐るおそる応対すると、酒士は、

「このたびはご愁傷(しゅうしょう)さまでした」

 と、丁寧にあいさつをした。徐次子が捕まったわけではなかった。

「そりゃどうも。で、きょうはどうしたい?」

 呂母は、いつものようにぶっきらぼうに聞いた。酒士はいつも気弱で、机の上でそろばんを弾いているだけの男だ。

「ええ。私もあの事件から顔を出しづらかったのですが、もう恩赦も出てますし、そろそろ酒づくりを再開されたのではないかと」

 酒士はそう言いながら、まわりを見回した。

「酒はもう売ってないよ」

「売っていない? だっていつも、この辺で酒呑んでる人がいるじゃないですか」

 酒士は、葬儀のあとの店の状況を知っていた。

「呑んでるってあれ、呑ませてやってるんだ」

「呑ませてやってる?」

「あたしはもう、店は辞めたんだ。跡継ぎが殺されちまったからな。あんたんとこの県令に」

「そんな……。辞めるなんて、それは困りますよ。わが県にとっても、女将の店は大店(おおだな)ですし、そ、それに『県宰』です」

 酒士の声が明らかに先細った。

「息子を殺した上、まだあたしから税金を取ろうってのかい、おたくの県令は」

 呂母は語気を強め、ぎろりと酒士をにらみつけた。

「い、いえ、それは……」

「残った酒はみんな、タダで呑ませてやってるだけだ。全部なくなったら店を畳むんだよ。あたしは一銭ももらっちゃいねえんだから、税金もへったくれもないだろう」

「で、ですが、それですとわが県の税収が……」

「とにかく、あたしはもう商売はしてないんだ。酒が欲しかったら、いくらでもくれてやる。カネが欲しいんだったらほかを当たってくんな」

 呂母が腕まくりをしながら歩み寄ると、酒士は「ひ、ひぃぃ!」と叫び逃げていった。

 呂母は、息子を殺された母親の気持ちすら慮(おもんぱか)らない、県宰の冷酷なやり方に憤慨した。どこの世界に、息子を殺した人間に税金を払う母親がいるというのか。

 −−−−県宰の守銭奴が。殺してやりたい。

 県宰への怒りが再燃した。来る日も来る日も、頭の中でなぜ呂育が殺されなければならなかったのかと考えた。考えれば考えるほど、日々油が注がれるように、怒りの炎は激しくなった。いわれのない理由で殺された身内の仇を討つ。それは、残された人間ができる最期の『孝』。

 −−−−カネで刺客を雇うか。いや、そんな凄腕の刺客など知らない。なら、兵を借りればあるいは……。

 軍を雇うなど、刺客を雇う以上に無理な話。一介の酒屋の女将にできることなど、何ひとつなかった。

 半月ほどすると、徐次子たちが神妙な顔で酒屋に帰ってきた。

「おっ母さん、わかったぜ……」

 徐次子の口は重そうに見えた。

「少なくとも、息子さんが出仕に遅れたってのは間違いがねえ。息子さんは夕刻からの番だったんだが、まともに来たのは初日だけで、二日目からは一度も定刻通りに見回りをしなかったんだ」

「初日だけ? そんなことない。刑は六十杖だったんだ。遅参は六十回のはずだろう」

「遅参はもっとしてたから、六十回も温情らしいんだ」

「六十回が温情?」

「まあ、温情というのは名ばかりで、上限みたいなもんだ。六十回も打てば、どんな人間だって死んじまうからな」

「あの子も馬鹿なことを……」

 呂母は、誰に向かって腹を立てていいかわからずうなだれたが、再び顔を上げ、

「それでも、たかが遅参じゃないか。杖刑六十回が上限なんだろ? だったらつまり、死刑と同じじゃないか。遅参で死刑なんておかしいだろう」

 と聞き返した。

 すると徐次子は、今まで以上に話しづらいといった様子で、

「それで息子さん、見回り自体も適当で、街で女子(おなご)を見つけちゃあ声掛けたり追っかけ回したりで、游徼たちの間でもかなり評判が悪かったんだ。それで……」

 と、口ごもった。

「……そ、それで?」

 呂母は聞き返したが、徐次子は、

「……いや、これ以上はやっぱ、おっ母さんには申し訳ねえ、おれからは言えねえよ」

 と、口をつぐんでしまった。

 徐次子が帰ってしまったので、呂母は張兄弟を呼び止め、酒席をつくって二人をねぎらった。

 酒を呑ませて謝礼の銭袋を渡すと、張兄弟は徐次子が言わなかったその先をあっさりと明かした。

 それは、呂母がこれまで、考えたことすらなかった事実だった。

「見回り中に息子さん、県宰を補佐してた県宰の弟の女に手を出したんだよ」

 張癸が言うと、弟の張乙は、

「あれじゃあ仕方ねえ」

 と、鼻で軽く笑った。

 張兄弟は男の立場から「手を出した」と言ったが、そんなはずはない。県宰の弟の妻ならば、それなりの年齢のはずだ。女の立場から見れば、その妻が若い呂育を誘惑したに違いない。

 その辺を問いただすと、張兄弟は、

「そういう話もありやした」

 と、否定しなかった。

 遅参は表向きの理由で、真実は単なる痴情のもつれ−−−−。

 すべてが明らかになっても、それはやはり死刑に当たる理由にはならなかった。

 −−−−育は高官の妻の火遊びの被害者だったんじゃないか。

 法と遅参にかこつけて邪魔者だった呂育を排除した県宰の小狡(ずる)さを知り、呂母の腑(はらわた)は煮えくり返った。怒りで目は真っ赤に充血し、手はわなわなと震(ふる)え、目の前に座っている張兄弟の姿も目に入らなくなった。

 今まで顔を真っ赤にして酒を呑んでいた張兄弟は、怒りでどこを見つめているのかすらわからない呂母の視線に気づいた途端、カネを持って逃げるように立ち去っていった。

 呂母は静かに復讐の炎を燃やした。どうやって復讐できるかはわからないが、その日から少しずつ武器を集め始めた。


       三


〈人を殺した者は死刑〉

 前漢を建てた劉邦の『法三章』の一節は、二百年を経た今も生き続けている。

〈父の讎(あだ)は、與共(とも)に天を戴(いただ)かず〉

 儒教の経典『礼記(らいき)』は、親の仇(かたき)を討たない子は不孝だと説く。

 法三章と不倶戴天(ふぐたいてん)の仇ぐらいは、いくら学のない人間でも知っている。

 子にとって親を殺された仇が、同じ天の下で生きていてはならない存在なのであれば、それは子を殺された親にとっても同じだ。

 法に照らせば、呂育を不当に殺した県宰は死刑に相当する。それを県府に訴えたとて、県宰が自分で自分に死刑を命じることなどあり得ない。

 どうすれば呂育の仇を討てるのかがわからなかった。

「おっ母さん、最近また元気がねえけど、どうしたんだい?」

「何か困ったことがあるなら、言ってくんなよ」

 連日、頭を悩ませる呂母に声をかけたのは、定職にも就かず、ただ呑んだくれているばかりの少年たちだった。

 だが、呂母にとっては、かわいい子どもたちのようではあっても、単なる役立たずのチンピラである。

「あんたらに言っても、しようがないよ」

 呂母は適当に少年たちをあしらった。

 すると、ここ二週間ほど顔を見せなかった徐次子と張兄弟が、分不相応な大剣を背に帯びて現れた。

「あんたら、そんな大きな剣、どうしたんだい」

 呂母が聞くと、張癸が、

「この前、おっ母さんにもらったカネで買ったんだ」

 と言って、得意げに大剣を構えた。

 少年たちがそれを見て、「おおっ」と感嘆の声をあげた。

「三人とも、そんな派手な剣買って、どうするつもりだい」

 すると徐次子が呂母に近寄ってきて、

「おっ母さん。おれはおっ母さんのためなら、何でもするつもりだ」

 と耳打ちした。

 呂母は、徐次子のただならぬ目に驚き、徐次子だけを酒屋の店の中へと引っ張り込んだ。

「あんた、何するつもりだい」

「何って、おっ母さんの仇討ちだよ」

「仇討ちだって?」

「ああ。息子さんを殺された仇をおれが討つ。この剣で、県宰の野郎を叩(たた)っ斬ってやる」

「県宰を叩っ斬るだって? そりゃあありがたいが、あんたみたいな役立たずの穀潰(ごくつぶ)しが、そんなことできるはずがないじゃないか」

「できるできないじゃねえんだ。やるんだ。仇を討たなきゃ、おっ母さんが不孝者呼ばわりされちまう」

「そりゃそうだが、そんなことしたら、お前が死刑になっちまうじゃないか」

「おれは死刑になる気なんかねえ。県府に乗り込んで県宰を殺したら、おれもその場で殺されるだろう。それも男子の本懐だ」

「男子の本懐だって? 馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。そんなもの、ありがた迷惑だよ!」

 徐次子の気概はありがたかったが、呂母は、かわいいわが子のような徐次子の身の方を案じた。

「おっ母さんが望まなくたって、おれはやる……」

 言いかけた徐次子を、呂母は思わず抱きしめた。

「県府に乗り込むなんてやめとくれ……」

 呂母は、涙を流して徐次子を押し留めた。

「おっ母さん……」

「あたしはあんたに、死んでなんかもらいたくない」

「でも……」

「もう、息子が殺されるのは御免なんだよ……」

「む、息子……」

 呂母の心に触れ、今度は徐次子が涙をこぼした。早くに母を亡くした徐次子にとっても、初めて触れた母の情だった。

「馬鹿なまねはやめるんだ」

 呂母が体を離して言った。

「わかったよ。でも、息子さんの仇は討たなきゃならねえ。それを見過ごしちゃあ、おれが俠じゃなくなっちまう」

 徐次子が、真っ直ぐに呂母の目を見つめた。

「俠だって?」

「ああ。だからおっ母さん、おれは一人でやるのはやめる。俠の力を集めるんだ。この店に呑みに来てる俠はみんな、仇は討つべきだと思ってる。黄(こう)ってのがいるんだが、そいつぁこの前、親を殺された知り合いの仇討ちに行ってきたって言ってたからな。みんな、おっ母さんの味方になるはずだ。だから、おれがもっともっと俠を集める。大軍で県府を攻めりゃあ、息子さんの仇も簡単に討てるだろ」

「俠の大軍だって……?」

 役立たずだと思っていた少年たちは、呂母が考えていた以上に呂母のことを想っていた。

 徐次子は、百人も集まれば決行できると説明し、それまでに少しずつ武器と鎧(よろい)を買い集めるべきだと主張した。

「たった百人で漢に背くのかい?」

 呂母は突拍子もない提案に混乱した。だが、徐次子ごときに百人も集められないだろう。

「今の世は漢じゃねえ、新だ。新に愛着なんかねえだろう」

 徐次子が立ち上がって大剣を構えた。

 −−−−ただの役立たずだと思っていたら、この子たち……。

 呂母も涙をふいて立ち上がった。その涙は、もう枯れたと思っていた悲しみの涙とは明らかに違っていた。


 徐次子の力によって、店に集まる武器と不良少年たちの数が、少しずつ増えていった。

 少年たちは呂母を将軍、虎のように体が大きく力が強い徐次子を猛虎と呼んで慕った。

 それぞれに特技を持つ少年も現れた。料理が好きだという楊敞(ようしょう)は台所を仕切った。大半は徐次子を中心に中庭で武芸を競っていたが、武芸を好まない者もいて、自らを韓子と呼ぶ韓具(かんぐ)は、店にあった書物を読みあさった。盗蓋(とうがい)は盗みが得意で、春秋時代の大盗賊、盗跖(とうせき)の末裔(まつえい)だと自称した。

 二年が経つと、少年たちの数が百人に迫り、それに伴い資産が底をつくこともわかった。

 県宰への怒りの炎は消えてはいなかったが、呂母は、わが子のような少年たちと接するうちに、少年たちを殺したくないという思いにも駆られていた。県府に攻め込めば、第二、第三の呂育を生む。

 −−−−もう、終わりにしよう。

 呂母はある日、少年たちを中庭に集めた。

「この店のカネが尽きる。もう、あんたらの世話はできない。だからあんたらはもう、さっさとこの家を出て、どこへでも好きなとこに行ってくんな」

 呂母が言うと、ざわついた少年たちの間から、徐次子が進み出た。

「おっ母さん、カネがねえって……」

 徐次子は、信じられないという表情だった。それほどこれまで、自由に呂母の家のカネを使ってきたということだろう。

「ああ、もうないんだ」

「それならおれたち、今までのカネを払うよ。なあ、みんな」

 徐次子が言うと、少年たちは服のあちこちから集めたカネを持ち寄ってきて、呂母の前に小さな山をつくった。今後の店の経営の役にも立たない小銭の山だった。

「これじゃ足りねえのはわかってる。だからおれが、ここにいねえ人間、おっ母さんの店でツケで買ったヤツらんとこに行って、借金を取り立てるよ。それからでも遅くねえだろう」

「虎よ……。ツケなんていらないよ。そもそもあたしは今まで、帳簿にツケてなんざ、一度もしてなかったんだ」

「おっ母さん……」

 徐次子が言うと、少年たちの間から声があがった。

「将軍! あっしは将軍のためなら、何でもやります! 何でもやりますから、何でも言ってください!」

 盗人の盗蓋だった。

「あっしも!」

「おれも!」

 少年たちが続いた。

 少年たちの心が届いた気がした。呂母の目から涙が勝手にこぼれ落ちた。

 −−−−この子たちはもう、あたしの子だ。あたしだって、あんたらとは離れたくないけど、もうどうしようもないんだよ……。

 呂母はその場が落ち着くのを待つと、

「あたしがあんたらに良くしてきたのは、別に、利を得ようとしてたんじゃない。県宰は非情にも、無実のわが息子を殺した。あたしはその恨みを晴らしたいと思って生きている。だが、そんなことができるとは思えない。だからあんたらは、こんなあたしを憐(あわ)れんでくれればいい」

 と、ポツリと言った。

 すると少年たちが次々と、「壮なり!」と声をあげた。

「義を見て為さざるは勇なきなり!」

 本の虫の韓具までもが、拳を上げて孔子の教えを叫んだ。この時代、仇討ちは孔子が教え示した通り、義の行為そのものと受け止められていた。目の前にわかりやすい義があれば、俠を語る不良少年たちがそれに飛びつくのは当然だった。

「あんたらまさか、あたしの仇を討ってくれるっていうのかい? 死ぬかもしれないんだよ」

 呂母が聞くと、徐次子が張兄弟に命じて酒蔵からひと振りの刀を持ってこさせた。

 徐次子はそれを呂母に渡すと、自分の大剣を掲げ、

「武器はある! 今こそ県宰を討つべし!」

 と叫んだ。

「応!」

 百人の報怨の気勢が、瑯琊の地を震(ふる)わせた。

「あんたたち……」

 わが身を顧みず、弱い者を助ける。少年たちの猛き俠の心が、荒波となって呂母を呑み込もうとした。

 息もできないほどの渦の中、呂母の目が涙であふれた。

 −−−−もうやるしかない。もう失うものは何もない。この子たちと一緒に死ぬ。

 呂母は百人の気炎の波に負けないよう刀を強く握りしめると、それを勢いよく掲げ、

「みなの俠の心に感謝する!」

 と叫んだ。

「応!」

 全員の気迫が、呂母の涙をぴたりと止めた。

 仇は討たなければならないもの。県宰と同じ天は戴かない。

「人を殺した者は死刑! この掟(おきて)は絶対不変だ!」

 女将軍となった呂母が、天に刀を掲げて叫んだ。


       四


 百人の武装集団は目立ちすぎる。

 呂母は何代も守り続けてきた酒屋を売り払い、三百人は乗れる楼船(ろうせん)を購入して海に出た。県宰から身を隠して復讐の機をうかがう拠点。酒屋の女将ならではの発想だった。

 甲板に立った呂母は、心地よい潮風を大きく吸い込んだ。まわりでは徐次子の指示で、少年たちが忙しく働いていた。沿岸部の瑯琊出身者が多いだけあって、操船自体は問題なさそうだった。

「将軍、このまま東方の三神山にでも向かいますか」

 徐次子が針路を聞いた。軍を率いて自覚でも芽生えたのか、乱暴だった言葉遣いは軍隊のそれらしくなっていた。

 東方の三神山は、秦の始皇帝のために不老不死の薬を求めて船出した徐福(じょふく)が目指した神仙が住む島とされる。そのうちのひとつ、蓬莱(ほうらい)は後に、日本の呼称ともなった。徐福は、始皇帝から莫大な財宝を引き出してそのまま姿を消した稀代(きたい)の詐欺師として知られる。その上、徐福は瑯琊出身だから、一行の中に徐福伝説を知らない人間はいない。

「三神山まで行っちまったら、息子の仇は討てないだろ。あそこにしよう」

 呂母が、船首の右に見える沿岸の小島を指差した。小島から微(かす)かに炊煙のようなものが立ち上っていた。

「人がいるんですかね」

「国を捨てた亡命者だろう。新になってから海に逃げた人間がかなりいるって聞いたことがある」

「国を恨んでるなら、そういう人間を集めるのも面白いかもしれません」

 小島に行ってみると、海岸で出迎えたのは、酒屋が悪童のたまり場となってしまったので店を出た大番頭の仁だった。

「仁! あんた、どうしてこんなところに」

 呂母が駆け寄って両手を握った。

「女将、女将こそどうして……」

 仁は、何が起きているのかわからないとばかりに口をあんぐりと開けて驚いた。

「あたしは決めたんだ。育の仇を討つと」

「そうですか。それで一旦、陸より安全な海に」

「それよりもあんただよ。どうしてここに?」

「はい。私ももう、あんな国のために働くのが嫌になりましてね。帳簿なんか書き直しても書き直してもお上が名前を変えるんですから、やってられませんよ。それならもう国を出て、帳簿のない世界でのんびり暮らそうと」

「そうかい。でも、あんたと会えてよかった」

 呂母が仁の肩を抱きしめると、一緒に来ていた徐次子が、

「将軍の知り合いなら話は早い。仁さん、おれたちの仲間になってくれるかい」

 と聞いた。仁が出て行ったのは、徐次子が店に来だしてからでほぼ入れ違いだった。

「将軍? 女将、将軍って呼ばれてるんですか」

 仁が目を丸くした。

「ああ。軍隊としての規律を持たんと、県令には勝てんだろ」

 呂母笑うと、仁も、

「女将、ですから県宰です」

 と言って笑った。

 仁によると、南に行ったところに「銭包(せんぽう)島」という大きな島があり、そこなら楼船を隠せるらしい。そこを拠点に付近の小島を探し、亡命者をさらに集めることを決めた呂母は、針路を南に向けた。


 夕刻に到着した銭包島は、大きな島と小さな島の二つが合わさったような形だった。呂母は、これからの生活に欠かせない水や緑の木々よりも、夕日に照らされた岩肌に目を奪われた。

「赤い……、赤い島か……」

 隣にいた仁も、

「私も初めて見ましたが、こりゃあ……」

 と、感嘆の声をあげた。

 島には緑の木々が生い茂った山があり、一番高いところでも二百尺ぐらいに見えた。その下の夕日で真っ赤に照らされた岩肌はまるで燃えているようで、その炎はあっという間に山頂にまで届くのではと思わせるほどだった。

「人はいるのかい」

「陸から七里は離れてますので、この船ぐらい大きくないと、誰もここまで来られません」

「そりゃ、国から逃げてるあたしらには都合がいいね」

「はい。この島は人が住むような島ではなく、大きな船が航海で目印にするような島です。ですから漢……、いや、新の交易船も近くを通るはずです。向こうから来てくれるんですから、それを襲って物資を奪えば、この軍も十分に保てます」

 翌朝、満潮を待って呂母たちは島に上陸した。

 楊敞ら十人ほどが船に残って料理をつくり、ほかの少年たちは全員で周辺の木々を伐採し、手際よく島に砦(とりで)をつくりはじめた。

 この島にいる全員に役割があった。少年たちは誰もが生き生きと良い表情をして働いた。百人がかりで見事な砦をつくり上げると、釣りが得意だという少年たちは自ら小舟をつくり、みんなのために魚を釣ってくるようになった。鳥を捕まえてくる者、自生している果物を穫ってくる者、海水で塩をつくる少年まで現れた。

 一週間が経ったころ、小舟で釣りに出ていた少年が叫んだ。

「将軍、船です! 黄色い旗です!」

「黄色、新か? 猛虎! 今すぐ全員を船に集めとくれ!」

 畑仕事をしていた呂母は、近くの徐次子に叫んだ。

 全員を武装させ船に乗り込んだ。

「猛虎たち! 出航だ! いよいよ国と戦うよ!」

 呂母が高らかに刀を掲げると、真っ黒に日焼けしてたくましさを増した少年たちが、勇ましく「応!」と答えた。

 相手の船はこちらと同じぐらいの大きさで、新王朝の黄色い旗がはためいていた。

「あたしたちは今まで、あの新という国に苦しめられ続けた。あたしは息子まで殺された。その恨み、今こそ晴らす時が来た。猛虎たち、絶対に死ぬんじゃないよ!」

「応!」

 呂母の鼓舞に、少年たちが気勢をあげた。

「いいかい、徐次子。船をぶつけたら、すぐに船同士を固定するんだ。そこからは白兵戦だよ」

 海戦の知識も経験もない呂母には、そう指示するしかなかった。徐次子が顔を引き締めた。

 少年たち全員が身構えた。相手の船から矢は飛んでこなかった。相手の甲板に何人かの兵が見えた。

 ドウッ。

 相手の横腹に船をぶつけた。激しい揺れとともに、少年たちが船同士を固定すると、猛虎・徐次子が真っ先に斬り込んだ。

「われこそは呂将軍の右腕、瑯琊の猛虎、徐次子なり!」

 徐次子に続き、少年たちが次々と相手の船に乗り込んだ。

 兵はどうやら十人ほどしかいないらしい。

「新の兵よ! われらが呂将軍に降れ!」

 徐次子が刀を向けると、兵長らしき男があっさりと刀を捨てた。それを合図にしたように、あちこちで刀を向けられた新の兵は、次々とあっけなく降伏した。

「仁、これはどういうことだ?」

 悠々と新の船に移動した呂母は、参謀の仁に聞いた。

「新のために命は捨てたくない。そこまで今の新は腐ってるってことです」

 呂母は納得した。国は人がつくる。人には心がある。法や規則でがんじがらめにして、人の心を踏みにじる政権に未来はない。

 勝敗は決した。新兵を全員斬り殺して、物資を船ごと奪う。それが筋だ。だが、県宰に恨みはあっても、この場にいる新兵に恨みはない。

 呂母は少年たちを抑え、相手の兵長の男に問答を仕掛けた。

「あたしが呂将軍だ。あんたら、なぜ戦わずに降伏する?」

 兵長の男は、海賊の主が女だとわかり驚いた表情を見せたが、

「この船は、あと二日で会稽に行かなきゃなりません。海賊に襲われたらもう無理です。その上、兵はたったの十人。もともと無理な命令だったんです。このまま帰っても法で罰せられますし」

 と、あきらめたように言った。

「法に殺されるか……」

 呂母はそう言うと、

「ならばあんたら、あたしたちの仲間になるかい」

 と聞いた。

 捕虜ではなく仲間。新兵たちが首をかしげた。

「あたしは新に、息子を殺された。別に人を殺したわけじゃない。県の役人だった息子は、ただ出仕に遅れただけで死刑にされたんだ。その恨みを晴らすために今、こうしている。どうだい、あたしに力を貸してくれないかい」

 この女海賊は、私利私欲のためではなく義のために動いている。

「義を見て為さざるは勇なきなりと言いますな。わかりました。われらが兵と船、義のため存分にお使いください」

 兵長が言うと、殺されるとばかり思っていた新兵たちは呂母の心に打たれ、全員が一斉にその場に平伏した。


 新の交易船を奪い、女海賊・呂母の船は二隻に増えた。

 新の旗を掲げた交易船は役に立ちそうだった。食糧や武器が足りなくなれば本土に堂々と物資の調達に行けるだろうし、偽装した海賊船として交易船を奇襲することもできる。

 酒の仕込みをひと樽ずつやる馬鹿はいない。その季節ごとに酒は何樽も効率的につくる。

 呂母は軍を二手に分けた。交易船に仁と三十人ほどの少年たちだけを従え、楼船と新の兵を含んだ残り全員を徐次子に任せた。

 徐次子たちを南に行かせ、呂母は広大な大陸を左手に見て北上した。山東半島をぐるりと回り東莱(とうらい)、渤海(ぼっかい)、遼西(りょうせい)、遼東(りょうとう)とめぐる。湾内は海が穏やかだから、徐次子の船よりも人数が少なく操船に不慣れな少年たちでも何とかなるだろう。

 あちこちの島をめぐっていると、新から亡命した人間がこんなにもいたのかという現実を思い知らされた。初めは新の船を疑われたが、会って偽装船だと説明すると、誰もが新への不満をぶちまけた。新は民心を失っていた。仲間になった中には、田求(でんきゅう)という即墨(そくぼく)県の元役人までいた。

 呂母の船の人数が五十人近くになった。

「これなら、人もすぐに集まりましょう。一年も待たず、わが軍は千人に達するのではないでしょうか」

 部下らしくなった仁が意見を述べた。

「女将は海曲県を攻めるんだろ? あそこを攻めるなら、千人じゃ足りねえ。三千は欲しいところだ」

 新参の田求は、役人として締め付けられた反動なのか、乱暴な言葉遣いだった。

「三千かい。三千ともなると、武器も食糧もこのままじゃまったく足りないね。さて、どうするか」

 呂母が頭を悩ませたそのとき、船尾にいた少年から声があがった。

「将軍! 後ろから船! 二隻です!」

 ドウッ、ドウッ。

 呂母の軍が身構える間もなく、二隻の船は圧倒的な操船技術と速度で呂母の船を挟んで体当たりをしてきた。

「敵だ! 武器を取って戦え!」

 呂母は力の限り叫び、刀を抜いた。

 なぜ、ここまで近づかれて誰も気づかなかったのか。犯人探しをしている暇はない。

 何が起きたのかわからなかった。少年たちが武器を手にする間もなく、敵船から全身を黒に染めた不気味な兵が次々と乗り込んできて、少年たちを瞬く間に縛りつけた。呂母も縛り付けられ、猿ぐつわをされた。船に掲げていた黄色い新の旗が目に入った。

 −−−−これか。海に逃げて官軍を襲おうなんて考えるのは、あたしたちだけじゃなかったんだ。

 官軍ではないと説明すれば助かるかもしれない。そう思った途端、頭から麻袋をかぶせられた。

〈河に入ったらこの船、売っちまいますか〉

 黒い兵たちの声が聞こえた。奪った船ごと三隻編隊で渤海から黄河に入るようだ。

 −−−−海じゃなく川賊(せんぞく)……?

〈易を診てからだ〉

 女の声が聞こえた。

 −−−−女? 頭目は女か?

 自分と同じ女海賊がいたということに驚いた。

 −−−−殺されるのか。あたしは育を殺され、もう死んだ身だからいい。だが、この子たちは……。

 周りの少年たちから、不安そうなうめき声が聞こえた。


 船を降ろされた呂母たち五十人はどこかの洞窟(どうくつ)に連れられ、何人かに分けて牢(ろう)に放り込まれた。

 そこでやっと、麻袋と猿ぐつわを解かれた。少年たちのどの顔も、不安を隠していなかった。

「川賊のアジトでしょうか……」

 小声で聞いたのは仁だった。

「そうだろうね」

 呂母も小声で答えた。見張りはいないようだが、声をあげればすぐに誰かが駆けつけてきそうな雰囲気は感じられた。あらためて牢の人間を見回すと、元役人の田求と料理人・楊敞の顔はなく、別の牢に収監されたようだった。

「これからどうしましょう……」

 仁が不安そうに言った。

「あたしらは新の捕虜だと思われてるんだ。このまま生かしておいて、新の政府と交渉するのかもしれない。新があたしらにカネを出すとは思えないが、それまでは殺されないってことだ」

 呂母は少年たちの不安をかき消そうと、小声で言った。

 その日はそれきり、黒い兵は姿を見せなかった。

 二日目の日の出前、牢の外が騒がくなった。しばらくすると、黒い兵が乾飯を持ってきた。三日目も同じだった。乾飯を食っていると、少年たちの奥から細い男がそっと這(は)い出してきた。盗人の盗蓋だった。

「あんた、ずっとこの牢にいたのかい」

 呂母は驚きながらも小声で言った。

「将軍、あっしならあの穴から外に出ることができそうです」

 盗蓋が部屋の隅を指差した。

 牢の隅には溝があり、囚人はそこで排泄(はいせつ)していた。それが流れる穴は、人の頭ほどの大きさがあった。おそらく隣の牢、最終的には黄河にでも続くのだろう。

「あれに入れるのかい?」

「あっしは盗蓋。大盗賊、盗跖の末裔ですぜ。あっしの体は猫と同じ。頭さえ抜けられれば、どこにでも入れやす。あっしが外へ出て、鍵を探してきやす」

 盗蓋を信じ、呂母たちは未明になって動き出した。少年たちの服を脱がせ、それで溝の上流をせき止め、やせ細った裸の盗蓋を穴の中へと送り込んだ。

 しばらくすると、牢の外に黒い兵が現れた。盗蓋だった。

「将軍、危ないところでした。あっしらは今夜、殺されやす」

 牢の扉が開いた。

「今夜だと?」

「はい。そこで寝ていた衛兵を一人捕まえたんですが、ヤツら今まで、卜占(ぼくせん)の結果を待っていたようです」

「卜占?」

「へえ。あの川賊の頭目、どうやら卜占をやるようでして、衛兵によりますと、あっしらは今夜、殺されるって結果が出たんだそうです。衛兵の口からはっきり、この耳で盗んできやした」

 盗蓋が得意顔を見せた。

「それで、田求たちは?」

「それはわかりやせんでしたが、この先に大広間みたいなところがありやす。ここはかなり広い洞窟のようでして、その先に武器庫がありやす。まずはそこに行って、武器を奪いやしょう」

 呂母たちは静かに牢の外に出て武器庫に急いだ。人数分の武器を手にすると、そのまま武器庫に潜(ひそ)んだ。

 武器庫の外で人が動く気配がした。黒い兵たちが起き出した。

「将軍。今からあっしが外に出て、ヤツらの様子を見てきやす」

 盗蓋が小声で言った。

「見つかったら全員終わりだよ」

「この姿なら、バレやしやせん」

 盗蓋はそう言うと武器庫を出て、黒い兵たちの最後尾について行った。

「堂々としたもんだね……」

 呂母は、盗蓋の大胆さに感心した。

「あの盗跖の末裔ってのも、本当なんでしょうか」

 仁はそう言って武器庫の扉を閉じた。

 黒い兵たちは、全員が洞窟の外に向かっていた。外に出ると、ちょうど朝日が東の空に顔を出そうとしていた。日輪に向かって、真っ黒い不気味な装束を着た女がひざまずくと、黒い兵たちがそれに従った。川岸に見慣れた楼船が目に入った。

 −−−−あれが女頭目か。毎朝、日輪に祈るのが日課みてえだな。

 盗蓋は素早く察すると、見つからないよう退いて洞窟に戻った。

 洞窟内を走り、呂母たちのいる武器庫の扉を開け放った。

「将軍、今です! 今はヤツらの祈りの時間、洞窟には誰もいません。仲間を探すんです!」

 一斉に武器庫を出て、田求たちの牢を探した。呂母は大広間で部下の報告を待った。大広間には祭壇があり、無数のろうそくが不気味に灯っていた。祭壇の下には、卜占に使う双六(すごろく)があった。

 田求たちは大広間を挟んで、呂母たちの反対側に掘った牢にいた。

「将軍、船は川岸にありやす。今のうちに全員で走りゃあ……」

 言いかけた盗蓋を、呂母が手で制した。

「船を襲われたときもそうだったろ? あの人数に囲まれりゃ一発で終わりだよ」

「じゃあ、どうするんです」

「あんたも言ったろ。話し合うんだよ」

「話し合う?」

「あたしらは官軍じゃない。それさえわかりゃあ、逃がしてくれるかもしれない」

「で、ですが、ヤツらはもう、あっしらの船を調べた上で、今夜殺そうって決めたんすよ?」

 盗蓋が、信じられないといった表情をした。

「ヤツらは怪しい卜占を心のよりどころにしてるんだ。そんな輩を信用したら、こっちが痛い目に遭うに決まってる」

 助けられたばかりの田求が口を挟んだ。

「それならなおさらだよ。ヤツらに信じるものがあるんなら、無差別に人を殺したりしないはずだ。ヤツらの教義はおそらく、官軍を討伐することにある。それならあたしらと目的が同じだ。絶対に逃がしてくれるはずだ」

 同じ新を敵とする、同じ女海賊。不可解な信仰はともかく、少なくとも問答無用に殺されることはないような気がした。

 祭壇を背に、洞窟の出口に向かって陣のようなものを敷いた。ここなら、一度に相手にする兵の数は、呂母軍の方が多い。

 祈りを終えた黒い兵たちが戻ってきた。

「貴様ら、どうやって!」

 先頭の黒い兵の一人が叫ぶと、洞窟は一瞬で緊迫した。

 この場だけは呂母軍の優勢だが、人数に勝る黒い兵たち全員を斬り殺して外に出るなど不可能なことは間違いがない。黒い兵たちにしてみれば、呂母の軍に突っ込んだ途端に一人ずつ順番に斬り殺されるのが明らかだった。

 両軍、武器を構えてにらみ合った。

 後方にいた呂母は、祭壇から酒を持ってきて陣を割り、黒い兵の軍団と対峙(たいじ)した。

「あたしは呂ってもんだ。官軍じゃない、ただの瑯琊の酒屋の女将だ。それがわかったらそっちの女頭目、前に出とくれ!」

 すると、真っ黒い装束の女が進み出た。

「酒屋の女将だと? 新軍が虚言を弄(ろう)すか!」

 女頭目が呂母を指弾した。呂母はひるまず、その場にあぐらをかいて酒を差し出した。

「座っとくんな。あたしは嘘は言ってない。まあ、一杯やりながら話そう」

 女頭目が座らなかったので、呂母は腰を上げて近づき、

「あんたの占いじゃ、あたしらは官軍だから今夜殺されるんだろ? 官軍じゃないのは事実だ。殺した後に調べりゃあわかる。占いが外れたとあっちゃあ、あんたの立場も悪くなるんじゃないのかい」

 とささやいた。

 女頭目の顔色が少しだけ変わった。だが、それでも女頭目が座らなかったので、

「あたしの息子は県の役人だった。あんたの占いは、それを当てたってことにしといてやるよ」

 と付け加えると、女頭目を無理やり座らせた。

 お互いの兵たちに聞こえない声で、酒を酌み交わしながら話し合った。

 女頭目は呂母よりもだいぶ若かった。遅昭平(ちしょうへい)という卜占師で、信者が増えすぎたため故郷の平原(へいげん)を追われ、黄河に出た亡命者だった。

「これだけの人数を食わせるってのは大変だ。あたしもそうだから、ようくわかる。それで新の船を襲ってるんだろ? その大義が、あんたの占いってわけだ」

 酒屋の女将として何千もの人を見てきた呂母の見立ては的確だった。若い女頭目はそれを認めないまでも否定もできず、あまり呑み慣れてもいないのだろう、酒で次第に顔を赤く染めはじめた。

「先刻も言ったが、あたしの息子は県の役人だった。だが、何の罪もないのに県令に殺されたんだ。あたしはその仇を討つために海に出た。その義の兵を討ったとあっちゃ、占いを大義とするあんたには何かと都合が悪いんじゃないのかい」

 女頭目は弁で人を集めたわけではなく、人を殺せという占いを出して、それを実行して信仰を集めている人間。人としての格も経験も、呂母の方が一枚も二枚も上だった。

「あんたはここで、あたしらの義の心に打たれて、あたしらを逃がす。そうやって度量を示すんだ。度量のある人間に人はついてくる。そういうもんだ」

 女頭目はずっと黙って聞いていた。呂母はもうひと押しした。

「あたしらの敵は海曲県の県令だ。今後一切、黄河には手を出さない。だがもし、今後食糧が足りなくなったなんてことがあったら、いつでも連絡をくんな。同じ女海賊同士、あたしらもできる限りあんたらを助ける。それでどうだい?」

 同じ女海賊同士という言葉に反応したのか、呂母が用意した落とし所を理解したのか、女頭目の目の色が変わった。

 そもそも呂母たちを殺す理由が卜占以外になかった女頭目が、おもむろに立ち上がった。

 そのまま呂母の軍に向かって歩き出したので、呂母もゆっくり立ち上がり、軍を割って女頭目の行きたいように行かせた。

 女頭目はふらふらと歩きながら祭壇前まで行き、双六の前に座って卜占を始めた。

 しばらくすると、女頭目がおもむろに立ち上がって振り向き叫んだ。

「わが兵たちよ! この方たちはわが卜占により、義の兵と出た。手を出すことはまかりならぬ!」

 遅昭平はこの後、二一年に兵を挙げて新に叛(そむ)いた。だが、その後の記録は一切残されていない。


       五


「将軍、塩がありません」

 黄河口から渤海湾に出た船中で、料理人の楊敞が報告した。

「塩がないだって?」

「はい。塩どころか、食糧がまったくありません」

 楊敞は今にも泣き出しそうだった。

 船は遅昭平から取り戻したのだが、武器や食糧などの積荷がなくなっていた。すると、元役人の田求が、

「あの卜占の頭目、逃してはくれたが、しっかりと欲しいもんは持っていきやがったな!」

 と憤慨した。

「塩も食糧も今の時世、何よりも大事なもんだ。あの女頭目だって、あれだけの軍を養うのに必死なんだよ」

 呂母は同じ女海賊の遅昭平をかばった。

 積荷に酒だけが残されていた。酒は祭祀に使うもので、呑むものではないのだろう。

「酒さえありゃあ何とかなる。近くの市場で売ろう」

 すると田求が、

「それなら、即墨へ行こう」

 と提案した。

「そういやあんた、元は即墨の役人だったね」

「ああ。即墨なら六筦の法の外にいる業者を知ってる。まあ、足元は見られるだろうが、税金がない分、普通に市場で売るよりも高く買ってくれるはずだ。まずはそれで、当座の資金を稼ごう」

 船首を即墨に向けた。

 秦の時代から続く即墨は、さすがこの地方の政治・経済の中心地だけあって広大で、無数の楼閣が地の果てまで埋め尽くしているのではないかと思えるような、まさに千年の都だった。

 船を停泊させると、呂母は仁と田求だけを連れて、違法酒造業者のもとへと向かった。

 そこは、塔がいくつも立つ、都でも有数の大楼閣だった。

「女将、ここの東郭氏(とうかくし)ってのは頭がいいんだ。新のつけた値段より安く酒を売るから、誰も新の酒なんか買わねえ。それで大もうけしてる」

 田求が説明した。

「大もうけって、それがこんなに堂々とできるのかい?」

「できるさ。県宰に賄賂をたっぷり渡してるんだ」

 田求の雑駁(ざっぱく)な解説に、すぐに仁が、

「酒を安く大量に売って、そこで得た利益を賄賂にしてるんでしょう。その賄賂の額がおそらく、県全体で正規の値段で売った額よりも多い。だから県宰も目をつぶってるんでしょう」

 と、付け加えた。

「お、さすが仁さん、わかってらっしゃる」

 田求が感心した。

「それで東郭氏ってのは一体、どういう性格なんだい」

 呂母が話を戻して田求に聞いた。

「利に聡(さと)い。いや、利に細(こま)いと言った方がいいかな。だが、いわゆる商人とは違う。衛兵もいれば食客も従えてる。まあ、俠の親分みたいなもんなんだが、信じるところは俠じゃなく利。そんな感じだ」

「あくまで利か」

 カネも食糧もない今、選択肢はない。三人はお互いの顔を見合わせてうなずき、東郭氏の家の門を叩いた。

 東郭氏は、鶏がらのようにやせ細ったしわくちゃな老人で、ぎょろっとした大きな目が印象的だった。

「田求さん、役所を捨てて亡命なさったと聞いていたが」

 東郭氏は呂母ではなく、田求に向かって言った。

「ええ。役所を捨てて、今はこちらの呂家の世話になってます」

 田求が今までと違う言葉遣いで呂母を紹介した。

「国を捨てて女に従ってる?」

 東郭氏が、ただでさえ大きな目をさらに大きくした。

「私の酒好きはご存知でしょう。瑯琊の酒屋の女将です」

「同業者か」

 東郭氏が身構えを崩し、背もたれに背中を投げた。呂母は一歩前に進み出て、

「瑯琊から船で酒を持ってきました。それをぜひ、即墨の人にも味わってもらいたい」

 と言った。

「瑯琊の酒か。確かにあそこの酒は美味いと聞いたことがある。それを私に献じてくれるとは、それはありがたい」

 東郭氏はいきなり「値段ゼロ」を提示してきた。

「いえいえ、タダではありません。こちらも商売ですので」

 仁が大あわてで口を挟んだ。

「そなたは?」

「仁と申す、女将の店の大番頭です」

「献じにきたのではないとすると、どういうことだ」

「商売ですので当然、買っていただこうと」

「わが家でそなたらの酒を買う? 酒は十分にあるぞ」

 すると仁は小声で呂母に「任せてください」と言うと、呂母の前に進み出た。

「私は大番頭として、かねてより即墨との交易を考えておりました。瑯琊にはうちの酒が口に合わず、『即墨の酒が呑みたい』と言う客がいます。ならばその逆も然(しか)り。そこに利はございませんか」

「利だと? だが、船で運べばカネがかかる。その分を上乗せした高い酒など、誰も呑まんだろう」

 東郭氏は反論しながらも、仁の言葉に少し関心を示したように、呂母には見えた。

「高くて良いのです。値段が高くて貴重な酒だと思わせれば良いのです。ありがたがって呑む酒は、たとえ同じ味でも大衆は美味いと思うものです。いずれ大量に運べることになれば、上乗せ分などすぐに薄まります。薄まったら値段を下げれば良いし、その逆、薄まっても値段を下げなければどうなりましょう」

 仁が口の端だけでにやりと笑った。

 仁は今まで、そんな輸出計画を話したことは一度もなかった。呂母には、これが酒を売るための方便なのか、本当に瑯琊と即墨との交易路を確立させようとしているのか、判断がつかなかった。

「ほう……」

 だが、東郭氏が仁の弁舌に引き込まれたことだけはわかった。仁が続けた。

「実現させるためには、新の正規の値段では駄目です。われわれが持ってきた瑯琊の酒を一石(二十リットル)二百五十銭で買っていただき、それを市場で利を増して売ればよろしい」

 このとき、市場では正規の値段は一石百四十銭。呂母は、買い叩かれても一石七十銭ぐらいには抑えたいと考えていたのだが、仁はその逆をいった。

「二百五十銭だと? あまりにも高いが、して、いかほど持ってきたのだ」

 東郭氏が具体的な数字を求めた。この交渉はもしかしたら、仁が勝つかもしれない。呂母は素直にそう思った。

「十石の大甕で十六。四万銭でいかがでしょう」

 仁は素早く答えた。新の煩雑な制度にもまれた呂家の大番頭の計算力は確かだった。

「四万か……。もう少し安くならんか?」

 交渉に勝った。だが仁は、

「ただの酒ではなく、『瑯琊の酒』として売るのです。商品の価値を高めるためには値段を下げてはなりません」

 と強気に出て、

「まずはお味を確かめてみてはいかがでしょう」

 と加えて、腰にあったひょうたんを東郭氏に差し出した。

 東郭氏は侍従に杯を持って来させると、ひょうたんの酒を注いで美味そうに酒をなめた。

「ほう、これは……」

「呂家の酒は酒米を丁寧に磨くのが特徴です。これによって、ほかでは味わえない甘さと華やかさが出るんです。それが瑯琊の水の美味さとぴったり合うのです」

 仁が自信たっぷりに言った。

 すると東郭氏は、

「瑯琊の酒の見事さはわかった。では、そなたは即墨の酒をどうとらえる?」

 と聞いた。

「瑯琊の酒が女の酒ならば、即墨の酒は男らしい酒です。男女は相睦(むつ)まじく。これは儒の以前、古代から続く伝統、風習、いや、生き物として当たり前のことでございましょう」

 仁の言葉に、東郭氏が満足そうにうなずいた。四万銭もの大金が手に入る。これだけあれば、十分に水や塩、食糧を仕入れて銭包島に帰ることができる。

「うむ、面白い……」

 東郭氏の言葉に、呂母は商談の勝利を確信した。だが、そこに続いた言葉は、呂母の想像の外だった。

「……そなたは面白い。仁と言ったか。そなた、わが家で番頭となり、交易を取り仕切ってくれまいか」


 利を重んじる東郭氏は、交易による長期的な利だけでは飽き足らず、仁という優秀な人材までも手中にした。

 仁が望んだので、呂母は引き留めなかった。

 当座の資金は得た。呂母たちは仁と別れると、即墨の街で水や食糧、塩などを買い集めて次々と船に積み込んだ。

 船にはまだ新の旗がはためいていた。

「女将、あの旗を掲げてりゃあ安全かと思ったが、そうでもねえな」

 仁に代わって新たな参謀役となった田求が言った。

「そうだね。新はあたしたちが考えてる以上に恨まれてるんだ。外海に出た途端にまた襲われでもしたらたまったもんじゃない。下げちまった方がいいね」

「でも女将、酒がなくなっちまったな」

「酒かい?」

「酒はあった方がいいだろ? 今回だってこんなことがあったんだし」

「酒を売ったそのカネで酒を買う馬鹿はいないだろう」

「ははは。そりゃそうだ。だから女将、女将の島で酒、つくれねえか」

「銭包島でかい? まあ、山があって湧き水もあるから、つくれなくはないが、味は落ちるよ」

「そうか。でもやっぱ、酒は必要だろ? 麹と樽も買っていこう」

 田求はそう言うと、積極的に少年たちに指示を出し始めた。仁がいなくなり、新たに船を支える責任感でも芽生えたのだろうか。

 必要な物資を積み込み銭包島にたどり着くと、島の砦には、どういうわけか千人を超える少年たちが集まっていた。猛虎・徐次子の楼船はなく、島を仕切っていたのは張兄弟の兄、張癸だった。

「どうしてこんなに人が増えてるんだい」

 呂母が聞くと、張癸は、

「猛虎が集めたんです」

 と答えた。

「それで、猛虎はいつ帰って来るんだい」

「一度海に出ると一、二週間は。新の交易船を見つけりゃ、さらに延びますし……」

 田求が島を仕切るようになると、島の規律が復活した。

 新しく来た少年たちはもともと、自分たちを役立たずの穀潰し扱いしてきた国家に反発して亡命した。田求から軍の目的を聞くと、役人を敵にまとまった。てきぱきと働いて酒をつくり、武器を使った稽古(けいこ)も熱心にやった。少年たちの根底にあった俠の心が、瑯琊から付き従っている少年たちと共鳴したのかもしれない。

 ひと月ほど経つと、猛虎・徐次子の船が帰ってきた。

「将軍、もうお戻りでしたか」

 真っ黒に日焼けした徐次子は、奪った新の交易船とともに莫大な物資を持って凱旋した。船は四隻にも増えていて、それぞれに亡命者を五百人ほど乗せていた。

「あんた! いつからこんな大船団を率いるようになったんだい」

 呂母は、もろ手をあげて喜び徐次子を出迎えた。

「いやあ、将軍。実は、江平(こうへい)沖(現在の上海沖)であの船を襲ったんですが、それが新の兵船でしてね……」

 話しながら徐次子が、後ろの船を指差した。

「……船をぶつけて乗り込んだら、ほら、ここにいる隆(りゅう)さんたちにぐるっと囲まれちまいまして……」

 徐次子は言いながら、隆青(りゅうせい)という男を紹介した。鎧かぶとに身を包み、いかにも新の武官という感じだ。

「……私ももう、やられたと思いました。ですが、この隆さんが俠で助かったんです」

「俠?」

「ええ。私はもう、駄目だと思ったんで、やけくそで『われら義の軍に従え』って叫んだんです。すると隆さん、『海賊のどこに義があるんだ』って聞いてきまして、それで私は、将軍のことを話しました。すると隆さん、それをちゃんと聞いてくれまして、そこからはもう、船上で大宴会です。それで聞いたんですがあの船、実は江平に出た賊を鎮圧するための援軍だったんですが、賊に津を制圧されて近づけなかったらしいんですよ。そこでもう、攻め込むこともできないし、攻め込まずに帰っても死刑ってことで、じゃあ義のために、私らと一緒に行動してくれとお願いした次第です。そこからはもう、隆さんの兵力で次々と交易船を降伏させまくって、あっという間に大船団です」

 徐次子が笑うと、隣の隆青も苦笑いした。

 呂母は、

「隆さん、あたしの息子たちを殺さずにいてくれてありがとう。張癸、まずは酒で隆さんたちをねぎらうよ!」

 と礼を述べ、張癸に宴席を整えるよう命じた。

 砂浜一帯にかがり火をたき、三千人が一斉に飲み食いする宴会は大いに盛り上がった。

 だが、三千人も集まると、島のカネも食糧もあっという間に底をついた。

 −−−−これ以上持ちそうもない。事を起こすなら今か……。

 呂母は思い悩んだ。

 そんなとき、期せずして田求が意見した。

「女将。そろそろ島の兵も仕上がった。三千あれば、海曲県を攻められるんじゃねえか」

「攻めるにしたって、三千を支える兵糧がない」

「三千あれば、県府なんか一日で落とせる。兵糧は勝って敵から奪うもんだ」

 新の暦では天鳳四(後一七)年。県宰に愛息の呂育を殺されてから、三年が経とうとしていた。

 呂母は決意した。

 田求、徐次子、隆青を砦に集め、軍議を開いた。

「海曲を攻める。みなの意見はどうか」

 呂母が軍議の口火を切ると、徐次子と隆青が「おおっ」と漏らし、目を輝かせて武者震いした。

「わが軍は三千。海曲の兵力はどうか」

 呂母の質問に田求が、

「五百ほどではないかと」

 と答えたが、すぐさま隆青が、

「あの県には今、そんなにはいません。三百もいれば多い方かと」

 と述べた。

「十倍ならば、全軍で県府を取り囲めば簡単に落とせるな」

「そこまでしなくとも。将軍の本軍に両翼から私と猛虎で攻め立てれば、容易に破れましょう」

 名前を呼ばれず腹を立てた田求が、隆青をにらみつけた。呂母は、

「では、田求はあたしの本軍で軍師とする」

 と、田求に肩書きを与え納得させた。すると、今度は徐次子が、

「だが将軍。おれと隆さんで攻めるのはいいが、隆さんたちは官軍の鎧を着てます。隆さんはわかるかもしれないが、おれはどうやって敵味方を見分けりゃいいんです」

 と聞いた。隆青の鎧を見た。

「旗上げなさるんですから、旗をお作りになっては」

 隆青が言ったが、呂母は、

「着るものだってろくにないんだ。三千の軍が掲げる布が一体、どこにある」

 と否定した。

「そんな敵の鎧なんて、脱いじまえばいいんじゃないか」

 勇猛というよりも無謀な徐次子の意見を無視し、田求が、

「この島にあるもので何とかしないと……」

 と言った。

「敵も味方もわからず同士討ちにしないためには……」

 呂母は、島にある物資をすべて思い浮かべた。木だの貝だの、島にあるものは何の役にも立たなそうに思えた。思考を交易船に飛ばす。敵から奪った物資で食えるものはすべて食ったし、軍を支えるため、カネになりそうなものはすべて売った。

「何もないか……」

 呂母は水でも飲もうと、部屋の隅の水甕から水をくもうとした。

 水面に自分の顔があった。日焼けし、三年も化粧をしていない顔は、とても女には見えなかった。

 そのとき、呂母は船の中にある荷物を一つ思い出した。

「紅よ。確か、北地の紅があったはず。あれを塗ればいい」

 呂母の名案に、三人は一斉に顔をしかめた。

「紅なんて将軍、そんなもの、男のあっしらには恥ずかしくてできませんや」

 徐次子が恥ずかしそうに言うと、ほかの二人もうなずいた。

「紅は何も、口に塗らなくてもいい。鼻でもほほでも塗れば、敵味方の見分けがつくだろう」

 呂母の代案を、今度は隆青が、

「それでは、紅なのか刀傷なのかわかりませんが」

 と一蹴した。

 呂母は少し考えると、三人に「少し待ってな」とだけ言って、北地の紅を載せた交易船に向かい、すぐに戻ってきた。そして、紅の入った二枚貝をゆっくりと開け、指で紅をすくった。

「紅はこう使うんだ」

 自分の眉(まゆ)にすっと紅を引いた。三人に鋭い視線を向けた。燃え上がる報怨の炎のように赤く染まった眉。三人は気圧(けお)された。

 そして三人も紅を指ですくい上げ、自らの眉を紅で染めた。


       六


 天鳳四(後一七)年、眉を赤く染めた三千人の大船団は、海曲県に向かった。

 この時代、中国では「万物は木・火・土・金・水の五つの元素から成り立つ」とする五行(ごぎょう)思想が信じられていた。赤は、赤帝の子と言われた高祖・劉邦が開いた火徳の王朝、漢の色である。王莽の新は火の次の土徳だから黄となる。

「われら赤眉の手で新を討ち、漢に回帰させよ!」

 本の虫、韓具が叫ぶと、軍団の士気はいやがおうにも高まった。眉は目に最も近い。お互いに目を見て雑談をしているだけでも、兵たちの心は自然とわき立った。

 呂母の心の中の炎も、同じように激しく燃え盛っていた。

 報怨の赤き軍団は岸に着くと、火の玉となって一気に県府へと突進した。

 右翼から隆青の千、左翼に猛虎・徐次子と張兄弟の千。中央から呂母と田求の本隊千で進軍した。慣れ親しんだ土地に県府までは迷うことはなく、義を掲げた呂母の軍をさえぎる者もなかった。それほど新は、民心を失っていた。

 県府に着くと門が閉じられたが、どうやら不意を突かれたらしく、県府に備えはなさそうに思えた。

「われらは義の兵だ! わが息子を殺した県令を捕らえよ! 降る者は殺さずともよい!」

 呂母は、門の内側にいる門衛に聞こえるように叫んだ。県府に対する反乱ではなく、仇討ちの義の兵だとわかれば、向こうから門が開くのではないかと期待した。

 だが、門は開かなかった。

 左翼の徐次子の軍が、お互いを踏み台にしながら塀を越えて中に飛び込んだ。それを追うように、隆青の軍も同じように塀を越えた。

 県府の中で乱戦が始まった。

「われらも急げ!」

 呂母が自軍をけしかけると同時に、正面の門が開いた。中から門を開けたのは、隆青の軍にいた盗人・盗蓋だった。

「全軍、突撃! 速やかに県令を捕らえよ!」

 門をくぐると、乱戦にはなっていなかった。県の役人たちは、眉を赤く染めた異様な軍団に気圧されるように逃げ回っていた。

「われらの目的は県令のみ! 戦わねば殺さぬ!」

 呂母が叫ぶと、役人たちは武器を捨て、県府の奥へと一目散に逃げていった。

「猛虎と隆さんは左右から攻めよ!」

 呂母は両翼を徐次子と隆青たちに任せ、自ら軍を率いて役人たちを追った。

 役人たちは、普段会議をする大広間に集まっていた。

「田求の百で、あそこを取り囲め!」

 呂母は大広間の前の中庭に入ると、血気盛んに大広間に飛び込もうとする軍を一旦とどめた。田求が兵を動かそうとすると、両翼の徐次子と隆青が駆けつけた。呂母の軍と同じように、役人たちの激しい抵抗には遭わなかったのだろう。

「隆さんの千であの建物を囲め! 猛虎の千は、あたしの背後を警戒せよ!」

 呂母は三百だけを率いて大広間に入った。大広間の奥半分に、役人たちが追い詰められたようにひしめいていた。

「県令はどこだい!」

 呂母が叫ぶと、役人たちの群れが中央から割れた。呂母の顔を見た県宰が、引きつった顔を見せた。県宰は呂母の顔を覚えていたわけではなく、赤眉の女海賊におそれをなしていた。

 だが、呂母は愛息を殺した男の顔を忘れてはいなかった。

「あたしは、お前に殺された呂育の母だ!」

 そう叫ぶと、県宰は「あ……」とだけ漏らし、その場にひざから崩れ落ちた。息子の仇討ちと理解した役人たちは、県宰を差し出すかのように、県宰の後方に移動した。

「思い出したようだね。あんたは三年前、あたしの子、呂育を殺した。あの子はただ出仕に遅れただけで、あんたに死刑にされたんだ。その仇を討たせてもらう」

 呂母が刀を突きつけた。

「ひ、ひぃぃ!」

 部下たちは仇討ちと聞いて自分を差し出した。もう誰も自分を守ってくれない。死の恐怖のあまり、県宰は頭を抱えて縮こまった。

 すると、一人の部下の男が、呂母と県宰の間に割り込んできて跪拝(きはい)した。

「ご母堂さま、お待ちください」

 そう言った男の顔に見覚えがあった。呂育の同僚として呂育の遺体を家に戻してくれた王だった。

「王さんかい」

 呂母が刀を納めずに言うと、王は、

「あのとき、私は申し上げたはずです。私たち役人は、新の新法に従うしかないと。県宰はただ、新法に従っただけなのです」

 と訴えた。

「遅参で死刑なんて法はない!」

「ですから、県宰は遅参で死刑に処したわけではありません。遅参一回で一杖というのが法ですから、六十回遅参すれば六十杖打たれる。これがあのときの法だったのです」

「六十杖打てば誰だって死ぬ!」

 呂母が叫ぶと、傍らから徐次子が飛び出した。

「おれはあの事件を調べた! あれは単なる遅参の罰じゃない。そこにいる県宰は、育さんに女を盗られて逆恨みしただけだ。女を盗まれたねたみで育さんを殺したんだ。政治に私情を持ち込むような輩に、人の上に立つ資格はねえ!」

 猛虎・徐次子の大声に、役人たち全員がひるんだ。

 だが、王だけは落ち着いた様子で顔を上げ、

「ですが、遅参は遅参です。法に則(のっと)って処罰しただけの県宰を、どうかお助けください」

 と、県宰の助命を嘆願して、再び頭を下げた。

「ただの遅参じゃないと……!」

 徐次子が叫ぼうとしたのを、呂母が制した。突きつけた刀を、県宰に向けた。

「あんたがただの遅参で人を殺したのは間違っていた。だから、これだけの子たちが、あたしについてきてくれたんだ。あんたも県を束ねる人間なら、万人が正しいと思うように法を運用しなきゃならなかった。なのにあんたは、法に私情を挟んだんだ」

「ひ、ひぃぃ……」

 県宰が体を強張(こわば)らせた。

「情けない声出すんじゃないよ。大体、この国は法が多すぎるんだ。関中に入った高祖は秦の民に言っただろう、『人を殺した者は死刑』と。法なんて『法三章』でいい。あとはあたしら民に任せればいいんだ。なあ猛虎、そうだろう!」

「応!」

 徐次子が応えた。

「だから、人も殺していない育を死刑にしたあんたは死刑だ。いくら王さんが助命したって、いくら政権が代わって法が変わったって、『人を殺した者は死刑』、これだけは絶対に変わらないんだ。あんたも男なら、覚悟を決めな」

 目の前の刀の切っ先よりも鋭い呂母の赤眉の視線が、恐怖におびえる県宰を貫いた。

 すると、すっかり腰が抜けたと思っていた県宰は勢いよく立ち上がり、呂母とは反対の方向へと駆け出そうとした。それを徐次子ではなく、役人たちが取り押さえた。

「ご母堂さま、申し訳ありません! 私が間違っておりました! どうか、どうかお助けを……!」

 男としての覚悟も決められずに情けなく逃亡しようとした県宰に、呂母の軍だけでなく県の役人たちまでもが、軽蔑の視線を向けた。

 −−−−なんて情けない男。育はこんな男に……。

 呂母は一度だけ天を仰ぐとひとつ息を吐き、

「猛虎! 役人さまから罪人をお引き渡しいただけ!」

 と命じた。徐次子たちが近寄ると、役人たちは抵抗することなく県宰を差し出した。

「この国は新なんかじゃない。あたしら民の国、漢だ」

 呂母はそう言うと、泣き叫ぶ県宰を中庭に引き出した。

 −−−−育。三年もかかっちまったが、やっとだ。やっと、お前の仇を討てる……!

 呂母は刀を構えると、ためらうことなく県宰を斬り殺した。

 兵も役人も、その様子を固唾(かたず)を飲んで見守った。

 呂母は徐次子に県宰の首を切らせると、その首を呂育の墓前に捧げた。


 しばらくすると、新の都・常安から、皇帝・王莽の使者が海曲県を訪れた。

 政権から見れば明らかな反乱だったが、王莽は、仇討ちは義の行いだから罪を問わないとして、呂母を許した。それは方便で、政権はすでに反乱を制圧できる力を失っていた。

 海へ帰った呂母は新(くに)に戻らず、海でその生涯を終えた。

 呂母の起こした乱はその後、大規模な農民・豪族反乱を誘発した。王莽政権はわずか十五年で崩壊し、漢は復興した。

                                    

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赤眉の母 豊田旅雉 @toyodaryochi

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