第4章 ほどけてゆく暮らし、知らなかったあなた

 朝日が部屋のカーテンを淡く染める頃、ユイはようやく目を覚ました。


 横には、まだ眠るミナトの寝顔。

 眉根を少し寄せて、でも安心したようにユイの腕にしがみついている。


 昨夜の言葉が、まだ胸に残っていた。


『……怖かったんだよ。ユイに嫌われるの』


 あのとき、返したかった言葉は確かにあった。

 でも口が開かなかった。


(あれは、“仕事の仲間”には向けるべきじゃない表情だった)


 ミナトの無防備な寝顔を見て、ユイはそっと息を吸い込んだ。


(でも……どうしてだろう。

 胸の奥が、こんなにあったかいのは)


  午前十時。

 ユイがダイニングに入ると、テーブルにはトーストとスクランブルエッグ、温かい紅茶が並んでいた。


「……これ、ミナトちゃんが?」


「まあね。冷蔵庫にあったもので適当に。ユイ、食べるでしょ?」


 ミナトはエプロン姿で、何気なくキッチンを片付けている。

 寝起きでぼさぼさ頭のユイとは対照的に、身支度も完璧だった。


 ユイは椅子に座り、パンにかじりつく。

 ほんのりバターの香り。焼き加減も絶妙だった。


「……おいしい」

「でしょ」

「……朝からこんなちゃんと作れるとか、女子力高すぎじゃない……?」

「普通だろ」


 呆れたように返すミナトの声に、少し照れが滲んでいた。


 午後。ユイの部屋で配信準備をしていたミナトが、急に悲鳴を上げる。


「ユイ、これなに!? このゴミ袋、いつの!?」


「え……ああ、たぶん先週の……?」


「腐ってるじゃん!!」


 半泣きでゴミ袋を抱えてベランダへ走るミナト。

 その後も洗濯物の山、カビの生えた食器、賞味期限が2ヶ月前に切れた冷凍食品などが次々に発見される。


 ユイはというと、こたつに足を突っ込みながら、罪悪感もそこそこにカップ麺をすする。


「……だって、面倒なんだもん」


「面倒で生活投げ出すな!」


 呆れ返りながらも、ミナトは掃除機をかけ、洗濯を回し、冷蔵庫の中身をチェックする。

 手際がよくて、動きに無駄がない。

 それを横目に見ながら、ユイは胸の奥に、小さなざらつきを覚えた。


 (ミナトちゃん、こんなにちゃんとしてるのに……)


 (どうしてわたし、昨日、何も言えなかったんだろう)


 ミナトは根は優しい。

 気がつけば、ユイのだらしなさを補ってくれるようになっていた。

 けれどそれは、“世話を焼かれている”というより、

 “見透かされている”ような気がして、息が詰まった。


 怖かったのだ。

 あんなにもまっすぐな気持ちを差し出されたあと、

 自分がそれに応えられないままでいることが。


 夕方、洗濯物を干し終えたミナトが、ぼんやりしているユイに声をかけた。


「ユイ、顔疲れてない? ごはん、先に作っとこうか?」


「……ううん、大丈夫。今日は、私が作る」


「え?」


「ミナトちゃん、さっきからずっと動いてたし。私だって、できることくらいあるもん」


「……ふーん。じゃ、見ててやるよ。包丁の持ち方、逆にしないようにね」


 その“見守る”という言葉が、なぜだか嬉しかった。


 キッチンに立ちながら、ユイは初めて、自分の暮らしが“ふたり”になっていることに気づいた。


 昨日までは、仕事だった。

 でも今日は、仕事じゃないことが、少しだけ増えた。


 ──それが怖くて。

 ──でも、ほんの少し、うれしかった。

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