省の瞳が揺れる。空の色を受けたせいか、波打つように煌めいて見えて、息が苦しくなった。


 鼻の奥が、水が入ったように痛い。肺も、胸も痛い。ちゃんと息を吸って吐いているのに、どうしてなのだろう。


「……華純さん。それほどまでに、深山さんのことが……」


 やめてくれ、省。その名は私が知る者の名ではない。それは別人を騙る者の名だ。だから、私は斬れないんだ。


「違うっ……!! 違う……」


 否定しながら泣き崩れた私を、柔い温度が受け止めた。冷たい風から守るように、強く抱きしめてくる。


「……違わない。貴女は深山さんを、心の底から殺したいと思っていないのです」


「違うっ……! 彼奴は、あの人を……あの人をっ……!!」


 あの人を、殺したのだ。だから、殺さなければならないのだ。そう言おうとしたのに、声が嗚咽の波にのまれて出てこない。


 無茶苦茶になって泣いている私を宥めるように、後頭部に添えられている省の手が動く。まるで赤子をあやすような、ゆっくりと優しい手つきで。


「……大事に、想っていたのですね。なのに、彼は変わってしまっていた。だから、苦しくなってしまったのですね?」


 そうだと言って、その胸に顔を埋めて沈んでしまいたい。だけど、それは出来ない。


 私は、深山聖と名乗ったあの男に、大切な人を奪われたのだ。たとえそれがどんな理由であれ、許すことはできない。


 優しく笑っていても、和助たちと語らっていても、奴は彼奴でしかない。


 省の優しさに溺れてしまったら──深山聖を殺せない自分を認めてしまうことになる。きっと。


「……深山さんが、かつて貴女の前ではどのような人だったのかはわかりません。ですが、知らない人になってしまっていたのなら、知ればいいのではないですか?」


 秋の訪れを報せる風が吹き荒れた。それに応じるように、省のぬくもりが離れる。


「知って、どうするんだ」


「ならば、殺しますか?」


 そんな極端な、と言い返す資格は、私にはない。

 殺したいのに殺せない。その理由を、私の苦悩という名の弱さを知った省は、知りたくないのなら殺せと言う。


「ここで僕を斬り捨て、深山さんのもとへ行かれますか?」


「なぜ、省をっ」


「その手で誰かを殺めるというのなら、僕の屍を越えて行きなさい」


 荒れた大地であろうとも凛と咲いた花のような、そんな意志を見せた省は、懐刀を私の手に握らせると薄らと微笑んだ。


 その真摯な表情を間近に眺め、私は言葉を発することもできずにいる。


「殺されたから、殺して。殺したから、殺されて……それで、何になるというのですか? それで本当に、さいごは誰もが倖せになれるのですか?」


 それが、何よりも本当に伝えたかった言葉だとでも言うように、省は私を見つめ、一音一音を大切に紡いでいく。


「僕は、哀しみしか生まれないと思います。……だから、たとえ僕の大切なものが奪われたとしても、僕は復讐相手から何かを奪ってしまおうとは思いません」


「…………」


「そうしていかないと、終わらないと思うのです」


 その言葉に、私の後方から砂利を踏む音が鳴った。どうやら誰かが潜んでいたようだ。その存在を確かめるために振り返れば、そこには世羅の姿があった。


 私を心配して追ってきたのはいいが、声を掛けれずにいたようだ。刃物を手に立ち尽くしている私の傍に来ると、手を握ってきた。


「貴女の手は、誰かを殺めるためのものではないはずです」


 世羅の熱で浮かされたように刃物を落とした私を見て、省の口元に微笑が浮かぶ。剣を手に取り生きる道を選んでおきながら、本当は誰のことも殺したくはないと、心のどこかで願っている私のことを見抜いたからだろう。


「分からないから、知りたい。松陰先生のことをそう思ったからこそ、華純さんは今、松下村塾にいるのではないのですか?」


 省は私の頬に手を添えると、固い表情で私を見つめている世羅の肩を抱き寄せた。


「僕は貴女が知る深山さんを知りません。同じように、貴女は僕が知っている深山さんの姿を知らない。深山さんは、貴女が思うような人ではないかもしれません。逆も然りです」


 だから歩み寄って欲しい。そうして話をしてからでも、遅くはないはずだ。そう伝えてくる省の言葉を、私はただ聞くことしかできなかった。


 泣く資格さえも、なかったのかもしれない。そんなふうに思った私を、静かに見つめていた世羅の瞳からこぼれたものが、頬を滑って光っていた。

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