「待ちたまえ、本多くん」


「──……っ!?」


「どうやら当たりのようだね」


 ぴたりと足を止めた私へと降り注ぐのは、勝ち誇った笑みを浮かべている小五郎の眼差し。


 小五郎は腕を組みながら私に近づくと、ひょいと身を屈めて私に目を合わせてきた。


「先程、君と初めて会った時は見間違いかと思ったんだ。けれど、その手を見て気づいたよ」


 ──手。私の手に、何があるというのか。同年代の女子のような手はしていないが、それは剣を嗜んでいるからだ。美しいという言葉には程遠いが、そこらの町娘も水仕事をしているからそう変わらないだろう。


 そう思い喉を鳴らした私の手を小五郎は掴むなり、品定めをするように見ている。


「……君はあの道場主の愛弟子だった、スミ君だろう?」


 小五郎は息をするようにそう言うと、私の手を離した。


 スミ君というのは、私が松下村塾に身を置く前に住んでいた村の人たちから呼ばれていた愛称だ。道場に居たことも知っているとは、やはり小五郎は──。


「……今の名は、華純だ」


「そうか、華純くんか。生き残りに会えて嬉しいよ」


 ──小五郎は、何者だ?


「貴様、何を知っている?」


 平静を装ったつもりなのに、声が荒ぶる。目の前にいる男がへらりと笑うものだから、余計に。


「僕が知っていることなんて、ほんの少しさ。…君は強すぎるあまりに粛清された、あの流派を学んだ生き残り、だろう?」


「粛清……?」


 それは一体どういうことなのか。師はあの火事があった日に殺されていたけれど、それは流行病を疎む者たちの仕業のはずだ。だというのに、小五郎は粛清されたと言っている。


「僕は昔、あの方に柔術を教わったことがあってね。長居はしていないから、あそこにいた人の記憶は薄いけれど、君のことは憶えていたんだ」


 小五郎は私の問いには答えず、緩々と口元を綻ばせたまま一人で話し出す。


「……“自分の命と引き換えにしてでも殺したい奴がいるから、剣を教えてくれ”と、泣いて懇願した元お姫様だと聞いて──」


「っ……!」


 その続きを聞いていられなかった私は、小五郎の顔を目掛けて拳を振り上げた。


「黙れ! それ以上は許さぬっ……!」


 力一杯に振りかざした私の拳は、小五郎の顔に当たる寸前で腕を掴まれたことにより止められてしまった。

 何が嬉しいのか、小五郎は笑っている。


「……ふふ、美しいね。知られるのが嫌なのかい?」


 私は歯を食いしばった。小五郎の言葉が間違ってはいないからだ。


 私の過去を話されようが、掘り返されようが、それは不快の二文字で終わる。けれど、それを栄太郎に聞かれるのだけは避けたい。


 栄太郎に知らせてしまったら、私は──。


「やめてください、小五郎さん」


 深くて底知れぬ何かに引き摺り込まれそうだった私の意識を戻したのは、栄太郎の凛とした声だった。


 いつの間にか、小五郎に掴まれていた私の腕は栄太郎によって解放されていて、それだけでなく、目の前には栄太郎の背がある。


「これは華純の問題です。口を出さないで」


 栄太郎越しに、小五郎が不気味に笑う声が聞こえて、身体がぶるりと震えた。恐怖なんて微塵も感じていなかったはずなのに。寒くなんてないのに。


「これは失敬。……しかし、華純くんよ」


 小五郎の呼びかけに、落としていた目線を持ち上げれば、栄太郎を押し退けるようにして再び目の前にやって来た小五郎が、にやりと笑っている。


 言葉を失っている私の耳元に、小五郎は顔を近づけると、そっと囁いた。


「……これだけは胸に留めてくれたまえ。僕は君の味方だ」


「……味方だと?」


 それは何の味方なのか。私は何と対峙していると言うのか。私のことをどこまで知っているのかは分からないが、訳あってあの道場に居たことくらいしか分かるまい。


 小五郎はふふっと笑うと、ひらりと手を振って踵を返した。


「……華純、大丈夫?」


「大事ない」


 栄太郎の顔を見ずに短く答える。もうここに小五郎はいないというのに、視線は地面を向いたままだ。


 そっか、と栄太郎は吐く。そう言ってはいるが、納得はしていないような声色だった。


 私は大きく息を吐き出した。それとともに、胸に絡みつくものも出てくれないかと願ったが、ため息を吐いても変わらず肺の辺りは重い。


 そんな私を見兼ねたのか、気遣ったのかは分からないが、栄太郎の手が肩にそっと乗る。顔を上げれば、栄太郎と視線が交わる。いつもはまん丸のそれは、今は目尻を下げていて悲しそうだ。


「……小五郎さんと喋ってから、暗い顔してるね」


「それは栄太郎もだろう」


「俺は……華純がそんな顔してるから、つられただけだよ」


 風に乗るように、肩に乗っていた手が離れる。


「……どうやら昔の知り合いだったようだ。私は覚えていないが、向こうは私のことを知っているようだった。……私が知らないことも、知っているようだ」


 いや、違う。知らないのではなく、知ろうとしなかっただけだ。自分のことで精一杯だった私は、救いの手を差し伸べてくれた師にただ甘えていたのだ。


 小五郎に会ってから、それを思い知った。


「……師範代、だったんだよね? 華純は」


 栄太郎の問いかけに、小さく頷く。


「凄いなあ。俺とそんなに歳は違わないだろうに、立派だなあ」


 恵まれていただけ、と言おうとした時だった。言葉を紡ごうとした私の口に、甘い固形物が放り込まれたのは。


「ふふ、凄い顔。皆に見せてあげたい」


 口の中に入ってきたものは、この上ないほど甘くて、じわりと溶けて消える。


 これは──金平糖……?


「……私はどんな顔をしているんだ」


 巡ってきそうになる甘い記憶から逃れるように、どうだっていいことを問いかければ、栄太郎はふんわりと笑って私に顔を近づけ、耳元で唇を開く。


「やっぱり、他の人には見せたくない」


 そう吐息混じりに吐くと、私の目を見てからいつも通りににっこりと笑った。笑みを見せる前、一瞬苦しげな表情をしていたのは、私の気のせいだろうか。


「……何故だ」


 私の呟きは、背を向けて歩き出していった栄太郎には届いていまい。一息吐くように、じりじりと熱を放っている太陽を見上げたが、あまりの眩しさに目を細めてしまった。

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