二
「……酷い目に遭っていたそうだな。それで、連れ出したと」
少し違うが、黙って頷いた。
酷い目に遭っていたのは本当だが、リセラはそれから逃れようとはしていなかった。
逃れたのは、私だ。傷ついていることを見て見ぬふりをする姿を見ていられなくて、連れ出してきた。
「そんな顔をするな。俺は怒っているわけではない」
「なら何だと言うのだ」
一体どんな表情をしていたというのか。自覚がなかった私は、つい言い返してしまった。
誠はそんな私を見て小さく微笑み、空を仰ぐ。ただでさえ細い目が、眩しい光を受けて、さらに細められている。
「よく決心したと思っただけだ。あのような容姿では、どこに行っても好奇の目に晒され、利用されてしまうだろう」
そうだな、とは言えなかった。
そう言う資格なんて、私にはない。
あの時手を取らなければ、この先も閉じ込められていたであろうリセラの姿を想像したくなかった。そんな私が勝手にやったことだから。
より多くの人の目に晒されるかもしれないというのに、連れ出してしまった。
あれからひと月以上が経ったというのに、私はまだ考えている。この選択は正しかったのか、リセラを苦しめることにならないか、と。
「華純」
迷っている私を見透かしたような間合いで、誠の声が降る。
無意識に逸らしていた目を再び誠に向ければ、ぱちりと視線が交差した。
誠の眼差しは驚くほど強かな光を放っていた。
見つめられているだけで、私の何かがじわじわと削られているような気がする。
「お前は迷うな。あの手を引いてきたお前が迷ったら、世羅も迷ってしまう」
なら、どうしろと言うのだ。そう発しかけたけれど、声にはならない。
「あの手を取って、ここに連れてきたからには、笑わせてやれ。……お前以外の人間に慣れることは難しいだろうが、俺と松陰先生はいつまでも待っている」
「……待っているのか?」
「ああ、待っている。一人ぼっちになってしまったお前が、ここで生きることを選んでくれたように。俺は世羅が口を開いてくれる日を待っている」
そう言った誠は清々しい笑みを飾った。
誠は松陰の妹の夫で、書物に埋もれていて、口を開けば和助のことを馬鹿にしている人だと思っていた。けれど、そうでもないらしい。
世羅と私のことを気にかけ、声を掛けてくれた。
「……そうか」
私が頷いたのを見て、誠は立ち上がった。
静かに揺れる草木の音に耳を傾けているのか、穏やかな表情をしている。
私はすぐ近くにある大木に歩み寄り、その背で気配を押し隠しているリセラの頭の上に手を置いた。
「リセラ」
後方にいる誠が、そんな所に居たのか、と驚いている。
その視線から逃れるように黒い着物を被り、顔を覆っているリセラは、怯えたような目で私を見上げた。
「リセラ。誠の声は聞こえていたか?」
そう尋ねた瞬間、着物の裾をぎゅっと握られた。
「……やだよ」
「リセラ?」
か細い声で何かを言っていたけれど、聞き取れない。名前を呼んでも、顔を背けられてしまった。
一体どうしたというのだろう。私が知らぬ間に、何かあったのだろうか。
「どうしたんだ、リセラ。何かあったのか?」
リセラはぎゅっと唇を噛んだまま、俯いてしまった。
後ろに居た誠が、心配そうな面持ちで歩み寄ってくる。けれど、その距離が縮まるほどに、リセラは震えるばかりで。
「……リセラ?」
少し屈んで、リセラの顔を覗き込んだ。
その、瞬間。海よりも深い色をした瞳が、じわりと歪んだ。
「嫌だっ!」
「リセラ!」
そう叫ぶと同時に、リセラは私に背を向けて駆け出した。私より少しだけ小さな手を慌てて掴んだが、振り払おうとしてくる。
「やだ!離してっ……!」
「リセラ!?」
「お願い、離してっ……」
あっ、と気づいた時にはもう、掴んだ手を離してしまっていた。私から全力で逃れたそれは、胸の前で小刻みに震えている。
リセラが、私を拒んだ。
それは一体何故なのだろう。誠の声が聞こえたか尋ねただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
リセラは、何から逃げたいのだろう。
「……リセラっ!」
私は再び駆け出したリセラを追おうと、止めていた足を動かした。けれど、それは一歩を踏み出したところで止まってしまった。
誰かが、私の手首を掴んだからだ。
「──放っておきなよ」
その声に鼓膜を揺さぶられた瞬間、私は思わず背をぞっとさせていた。呼吸を整え、平静を装った。そうしてゆっくりと振り返った先には、この先も永遠に憎いであろう人の姿がある。
「……お前には関係ないだろう」
必死に絞り出した声は震えていた。それを嘲笑うかのように、男の口元には笑みが滲んでいる。
私の左の手首は、今も男に掴まれたままだ。
顔を見ただけで吐きそうになるくらいに嫌いで、怨めしくて、憎い男に触れられている。
この男にそんな感情を抱く暇があるのなら、振り切って、リセラを追うべきだと分かっている。
分かっているのに、力づくでこの手を退けることが出来ないのは──。
「関係あるよ。だって、君のことだから」
この男の瞳が、あの人とよく似ているから。
「……意味が、分からない」
あの人も、私を捕まえた時は、自身の左側に引き寄せてきた。私と話す時は、離し終えるまで目を逸らさなかった。この男のように、いつも手が冷たかった。
この男は、私の胸に焼き付いている記憶の中のあの人と、同じことをしてくる。それらが、リセラを追おうとしている私の足を止めている。
「放っておいてあげるべきだ。あの子のことを想うなら」
男はそう言うと、私の手首を放した。その細い見た目からは想像もつかない強い力で握られていたせいか、ほんのりと赤くなっている。
私はそれを呆然と見つめたまま、ぼそりと呟いた。
「……お前に何が分かる」
男はふんわりと微笑むと、リセラが去った方を眺めていた。愉しそうにも見えて、腹が立った。
(……リセラの何が分かるというのだ。ふざけたことを)
私は男に目を向けずに、地を蹴って走り出した。あの青に、今ならまだ追いつけると信じて。
「……君よりは分かっているよ、華純」
そう、男が呟いていたとは知らずに。
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