六
「──さて、華純」
「はい」
変な人たちの代表であると思われる吉田寅次郎の元に案内された私は、彼と向き合うように座った。
彼は初めて会った時のように、深みのある笑みを浮かべている。
初めは変な男だと思っていた。けれど、彼は私を水の中から引き上げてくれた栄太郎が慕う師なのだ。容赦なく人の心に入ってきた人間の、師。
そして、血濡れた手を隠して微笑んでいたあの男を拾い、新たな名を与えた人間でもある。
そんな彼が、ここでどのようなことを教えているのか、吉田寅次郎がどんな人間なのか、純粋に興味が湧いた。
そう、彼がどのような人間なのか、栄太郎は私にどんな生きる理由をくれるのか、それを知れるまででいい。
それまで、ここで息をしていたい。
あんな出来事があってから、まだ日は浅いというのに、私は二本の足で立てている。可笑しなことを可笑しいと思い、笑えている。
その現実もまた可笑しくて笑ってしまいそうになるけれど、それはそれで良いと思える私がいる。
そんな私の変化に気づいたのか、吉田寅次郎はニッと唇を横に引いた。
「私の名は、
「生きている、学問……」
不思議な単語だったから、思わず繰り返していた。
吉田寅次郎──いや、吉田松陰は私の呟きに大きく頷く。
「そうだ、生きている学問だ。書を暗記するのではない。書を読み解くのではない。書を記した人間の想いを考え、それから自分たちがどうするべきかを考える」
私も共に、と吉田松陰は付け足した。
なるほど。この男は、書を読んで学ぶのではなく、それから自分たちはどうするべきなのか、その先を考えるらしい。
生きているというより、生きようと足掻いているように思えたのは、私だけだろうか。
「……それで? その先には何があるんだ?」
私の問いに、吉田松陰は私が一番望んでいた答えをくれた。
それは、もう少しだけ生きてみようと思っていた私を、この世に繋ぎ止めるのに十分すぎるものだった。
私は胸の内から込み上がってくる感情のままに、表情を変えた。まるで、子供のようだったと思う。
「──決まりだな。今日から華純は私の弟子であり、共に学ぶ仲間で、家族だ」
吉田松陰がそう言った時、勢いよく障子が開き、見慣れた顔が飛び込んできた。
「ほんと!? ねえ本当!? 和助も誠も弘毅も聞いたよね!? 華純が──」
「耳元で大きい声を出すな! 後で大根と一緒に煮るぞ!?」
「そんな大きい鍋ねぇよ」
「これ、やめんか! みっともないぞ」
突然現れるなり、そんなやり取りをする男共を見ていたら、また笑えてきた。
そんな私を見て、吉田松陰は心底嬉しそうに微笑んでいた。
──この日、私は松下村塾の塾生となり、吉田松陰の弟子となった。
▼
冬には似つかわしくない、穏やかな風が粉雪を舞い上がらせる。どこまでも白が続いているこの山々が春の色に染まったら、さぞ美しいだろう。
まだ見ぬ景色を思い描いていた私は、つい最近覚えたある人の気配を感じ、背後を振り向いた。すると、気づかれると思っていなかったのか、その人は驚いたように目を見張る。
「……よく、気づいたね」
私は唇を綻ばせた。
「ああ、独特だからな。そのせいで、初めは全く気がつかなかった」
その人はやれやれといった風に肩を竦めて笑った。
「そうか。そのまま気づかないふりをして欲しかったけれど、貴女はそんな人じゃないからね。──華純」
その言葉の後に、一段と大きな風が吹き荒れ、また粉雪が舞った。
ひらひらと、雪が落ちる。ばらばらと散っているようにも見えて、なんだか寂しくなる。
降って、散って、融けて、消える。
そうなるのは、雪だけではない。
たぶん、きっと、彼もそうだ。
陽だまりのようにあたたかくて穏やかな笑みを浮かべていた彼も、そう。
「──綺沙は、
間者とは、敵の中に潜り込んで様子を探り、情報を集めたりする人のことだ。
その手のことに私は詳しくはないし、関わったことはないけれど、周りから綺沙の話を聞いてもしやと思ったのだ。
綺沙は、松下村塾の塾生ではない。だというのに、塾生と親しい。それは恐らく、この近辺に住んでいるから。
塾生でないのならば、何なのか。松下村塾で何をしているのか。松下村塾に来ていない日は、どこで何をしているのか。
それを調べていた時、ある男がこう言った。
──あいつは松下村塾を馬鹿にしている、明倫館の奴らと一緒にいた、と。
明倫館とは、武士の子が通っている、由緒正しい学び舎だと聞いた。だとすれば、綺沙は武士の子。そんな人物がここにいる理由は、考えるまでもない。
吉田松陰が好きだから、などという甘くてお優しい理由ではないだろうから。
私の問いかけに、綺沙は答えなかった。けれど、その微笑みが答えだったのだと思う。
笑っているのに、嬉しくなさそうで、なんだか寂しそうな、そんな微笑みだ。
綺沙は唇から白い吐息をこぼすと、空を見上げた。まだぼんやりと濃い藍が残っている、夜明けの空を。
「……美しい、黎明色だね」
私はゆっくりと頷いた。
「そうだな。夜明けの空は美しい」
出来れば暖かい春に眺めたいものだと言えば、綺沙は笑った。
そうして、ゆっくりと私へと視線を移すと、少し顔を歪めて、小さな声で呟く。
「……共に見られないのが残念だ」
それは、ここから眺める春の空のことだろうか。問おうか迷っていたら、綺沙の人差し指が私の唇に触れ、口を開けなくなった。
「……質問の答えだけれど、半分当たりだよ。私は吉田松陰がどういう男なのかを知るために、時折あの場所を訪れていた」
綺沙はふふっと笑った。
その微笑みがあまりにも優しくて、綺麗で、何が嘘で何が本当なのか分からなくなる。
「私はね、偽物なんだ。いつか本物が表舞台に立つ日まで、本物の代わりとなって生きねばならない影武者で、お人形」
「影武者って……っ、」
「仕方ないんだ」
いつのまにか足元をじっと見つめている綺沙が、ぽつりと零す。何かを迷っているのか唇を噛み締めていたけれど、やがて決意を宿した瞳で私を見つめた。
「私は、生まれてはいけない子だ。幸運なのか不運なのか分からないけれど、私は体が弱い兄と瓜二つの顔で生まれた。だから、兄の影となり、兄が再び太陽の下に戻れる日まで、兄として生きなければならない。……それが、私の償い」
そう言うと、綺沙は初めて顔を歪めた。様々な感情が混ざっているのだろう。泣きたいのか怒りたいのか分からないくらいにくしゃくしゃだ。
酷く人間らしいな、と思う。綺沙は取り繕うように笑っていたから、こっちの方が私は好ましい。
あの日、私を深山聖から庇ってくれたあの時、垣間見えた本来の綺沙にまた会えた。
「……そうか。なら、どうやって本物になるかを考えねばなるまい」
私らしくない言葉が私の口から出たことに、私は驚いた。綺沙もそのようだ。大きく目を見開いて、私を見つめている。
やがて耐えかねたのか、綺沙は吹き出した。
「面白いことを言うね、華純は。実はそれ、吉田松陰にも言われたよ」
「そうなのか」
「ああ。昨晩、暇乞いをしに訪れた私に、彼は貴女と同じことを言った。どうやって本物になるかを考え、いつか本物になれた暁には、また討論をしよう、とね」
そう言って、くつくつと笑う綺沙は、取り繕った笑みを浮かべる綺沙ではなかった。
心底楽しそうに、嬉しそうに、屈託のない笑顔を浮かべる一人の青年だった。
ひとしきり笑うと、綺沙は足先を逆方向へと向けた。
「そろそろ、行くね。私は私がやらなければならないことをしに行くよ」
「そうか」
「おや、止めないのかい? 春が来るまで一緒に居て欲しい、とか」
「何故?」
私の問いに、綺沙は言葉を詰まらせたのか、ぱちぱちと瞬きをする。
私はふっと笑って、綺沙の肩を叩いた。
「春まで共に居たら、春に夜明けの空を眺めるという楽しみがなくなるではないか」
「……楽しみなら、早く叶えたいものではないのかい?」
「ない。早くに叶え、幸福を手に入れてしまったら、後は落ちるだけ。そういうことは出来るだけ先延ばしにした方がよい。……まぁ、これは私の体験談からだが」
私は行きたくなさそうな顔をしている綺沙の肩を叩き、手をひらひらと振りながら歩き出した。
後ろはもう、振り返らない。再び世界に絶望するまで、前を向いていようと思う。
「──華純っ!!」
置いてきた綺沙の声が響く。私は前を向いたまま足を止めた。
「──私の名は……」
綺沙の名は、何だと言うのだ。それが何であれ、綺沙は綺沙ではないか。
そう思った私は、綺沙が綺沙になれるまで言わんでいいと叫んだのだが、綺沙は自分の名を叫んで、去って行った。
置いていかれたのは、私の方かもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます