Aiするヒト
霞水乱夢
第1章
灰色の空からシトシトと雨が降り続く。
全面ガラス張りのビルディングが建ち並ぶ都内に、半分ほど蔦に覆われた小さな事務所で働いている。
雨野菫 29歳、恋愛経験は皆無。
職場では最年少だけど、現にもうすぐ三十路と言われる年齢だ。
今までは自分が独身であることを気にしたことなんてなかった。平日は朝から晩まで目まぐるしく仕事に勤しみ、休日には好きなことをして過ごす。
それで充実していると思っていた…でも、友人からのある一報でなんとも言えない焦りを無性に感じ始める――。
私が事務所に勤め始めた、新人の頃のこと。
都内から少し離れたレトロな雰囲気のマンションで、今年から1人暮らしを始めた。
でも未だに朝は決まって、けたたましい目覚まし時計に飛び起きる。
寝る子は育つというけれど、もうこれ以上育たなさそうなのにこんなにも眠いのはなぜなのかと、不思議に思う今日この頃。
いつも寝相はそれほど酷くないのに、荒れ狂う髪を仏頂面で仕方なく丁寧に直すところから1日が始まる。
仕事着はメンズライクが好きなので、基本カッターシャツにパンツスタイルと決めているけれど、毎朝色で悩む。
「う〜ん、春らしく今日は白とグレーにしよ。」
朝食は決まってシリアルと牛乳だ。
いつまで経っても子供の頃のままな食事事情を、親には内緒にしている。
あんまりしたくないメイクも社会人の、いや成人女性の暗黙のルールなのか、しなければいけない億劫さがため息に変わる。
バタバタしながらもなんとか支度し、足早に家を出る。
駅に向かう道中も四方八方から大勢の人が行き交い、様々な靴の音が慌ただしく聞こえてくる。
30分ほどでもギュウギュウの満員電車に揺られていると、狭い中スマホを使い続ける人や吊り革があるのに捕まらず体重をかけてくる人、色んな人の臭いが混ざって少し気分が悪くなる。
やっとの思いで電車を降りると、それでもあまりいい空気ではないけれど、マスク越しに軽く深呼吸をしてから徒歩で事務所に向かう。
気付けば自分の前から後ろまで上司たちが連なっていて、さながら軽い大名行列のようで少し可笑しな気分になった。皆が仕事を始めると、
カタカタカタ…タンタン、
カチッサッカチカチッ…
ペラペラ、ハラリ、
事務所内を満たすのは、鳴り止まないタイピング音とコピーしたてのインクと紙の匂い、冷房から吹き出す風や資料を捲ったりペンのノック音。
静かな空間で時折、指導係の上司に名前を呼ばれ手招きされる。
私は恐る恐る伺いにいく。
「雨野、ここ修正。」
再々ミスはしなかったけれど、たまの指摘もやっぱり少し凹む。いつも通り返事と謝罪をして席に戻ろうとすると、
「雨野、まだだ。新しい企画やってみるか?」
いつも無表情なことが多い上司が珍しく少し試すような表情をしながら、聞いてきた。
私は初めてのことに驚きと嬉しさと不安で少し思考がショートしそうになったけど、
「あっえっと、はい!やってみむす。」
急いで返事をしたせいで噛んでしまった。
私の耳が真っ赤になると、普段静かに働く寡黙な上司たちから、笑みが溢れた。
仕事の難しさや大変さはあったけど、そんな静かな優しさのあるいい職場だった。
ある週末、私の友人の中で唯一独身の陽野光がワインとおつまみ、旅行土産を手に訪ねてきた。
「やっほ〜。お邪魔するよ!あっはい、これ美味しいはず…多分、一緒に食べよっ。」
扉を開けるなり、光は押し入るようにリビングへ向かう。
家主の私は呆気に取られて、後ろから手渡されたお土産と客人用のスリッパを持って追いかける。
「相変わらず急ね、まぁいいけど。えぇ〜なんか不安なお土産だなぁ。また彼と?」
「ふふ〜、まぁね!菫は今もフリー継続中なの?あと、菫のことだからどうせ、気遣って結婚したみんなにも会ってないんでしょ。この間会ったけど、みんな菫のこと心配してたわよ。」
さすがは、長年友人の光。私の考えてることはすっかりお見通しのようだった。
私は別にかまってちゃんな訳ではないけれど、それを聞いて少しだけ嬉しくなった。
嬉しさが顔に出ていたら恥ずかしいと思い隠すために、持ってきてくれたおつまみのキューブ型のチーズと生ハムをつまみながら、赤ワインを急ぎ飲んでいると、
「あたし菫が心配だよ…ふわぁ…。」
そう言ってあくびをしたら、すぐに眠ってしまった。私はそっとブランケットを掛けながら小声で、感謝を伝えた。
お土産の袋には、琉球ガラスでできた私の好きなエメラルドグリーンの綺麗なグラスだった。
光は私と正反対で、明るくて面倒見もいい姉御肌。笑顔も可愛くて太陽みたいで、友人も多く恋愛経験も豊富だった。
時折休日になると、いつまでも恋愛の1つもしたことがない私を心配してお酒に弱いのにおつまみと持って、弾丸で会いに来てくれている。
翌朝になり、グラスのお礼に簡単な和風の朝食を用意することにした。
もち麦ご飯に、味噌汁、ご飯のお供になる瓶詰めのおかず、ほうれん草の煮浸しを作って光を起こした。
見送るとき、何か言いたげな顔をしている気がして声を掛けたけど気のせいだったのかいつものようにあっさり、
「んじゃ、また来るよ!」
と一言だけ言って元気に帰って行った。
7年ほど経った今では、他の上司たちからもいくつか仕事を任されるようになり、キャリアもついてきた頃。
初めて新人さんが入ってきた。
「木之下百合です。よろしくお願いしむす!」
少し前の私と同じように、緊張で噛む後輩に懐かしさと親しみを感じて自然と微笑む。
あの時の上司たちの気持ちがわかった気がした。
私にとって初めての後輩で、指導を任されることになり少し緊張したけれど、明るく真面目で親しみやすい子だったのですぐに打ち解けられた。
「明日もよろしくお願いします!お疲れ様です。」
「うん、よろしくね。また明日。」
仕事帰りの道中“新しい風が吹くってこういうことなんだな”と思っていると、いつも立ち寄る本屋さんで自分好みな小説をみつけ、心の中で小躍りした。
しばらく経ったある日の朝。
いつもの時間に目を覚ますと、灰色の雲が隙間なく広がっていて、雨も降り続いていた。
薄暗い部屋、手元にあったスマートフォンにたまたま触れた瞬間パッと画面が眩しく光る。
ついでに時計をみようと寝ぐせ頭のままで目を細めながら覗くと、光からのLINE通知だった。
『菫、この間ぶり〜!遂に彼と結婚することになりました。来月引っ越すから、また落ちついたら会おうね!』
そう書かれていた。
どうやら、これで私以外の友人は皆既婚者になったようだった。
おめでたいことだし、素直にお祝いしたい気持ちの反面、気軽に遊びに誘える友人が居なくなってしまった寂しさに胸の奥がスッと冷えるような感覚がした。
返信をしようと指を近付けたけど、カーソルが点滅したまま止まる。どう返せばいいのか、寝ぼけた頭では上手く言葉がみつからない。結局今すぐには返せなかった。
いつもならテキパキと出掛ける準備をする時間だけど、しばらく呆然としてしまった。
感傷に浸りながらも、なんとか遅刻せず、寝坊したことを悟られないようにしながら出社。
私が朝から気落ちしてしまっても、職場はいつも通りの風景が広がっている。今日も寡黙な上司達と懐いてくれている後輩とひたすらにタイピングする。
お昼休憩の時間になると、
「先輩、ご飯行きません?お弁当持ってきてます?美味しそうなとこみつけたんですよ。」
「うん、いいよ。大丈夫、今日はちょっと寝坊しちゃったから食べに行こうと思ってたの。」
道中、気の置けない後輩との休憩時間に気が緩んだのか、思わずあくびがでる。
「ふふっ、大丈夫ですか?でも、先輩も寝坊することなんてあるんですね。しっかりしてそうなのに。」
些細なことでも心配してくれる優しい後輩だ。
それにいつもよくお洒落だけど、高すぎないお店をみつけてくるものだと、いつも感心させられる。
冷房の程よく効いた店内で席につくと、少し気が緩んだのか後輩にその寝坊しそうになった原因を少し溢してしまった。
「あ〜なるほど、だから今日朝から元気なかったんですね。先輩も恋愛すれば解消しそうですけど…そういうタイプじゃないですもんね?」
「えっ気付いてたの?…うん。どちらかというと、そうね。」
「はいっいつも先輩のことよく見てるんで!う〜ん。なら、私を呼んでください!ご友人の代わりになれるか分からないですけど、私でよければいつでも!」
「も〜、ありがとう。…ふ〜ん?私を見ている暇があるってことは、もっと仕事任せられそうね。」
後輩からの提案は嬉しかったけれど、なんだか申し訳なくて素直にお願いすることはできず少し茶化して誤魔化してしまった。
7つも下の子だからなのか、私はどうにも人に甘えられない性格なのかもしれないと、この時気付いた。
それに、後輩に言われて意識したけれど、私は確かに恋愛や結婚にあまり興味がない。というよりも、みんなのような経験自体がないので恋愛というものを魅力的に思える要素がないのかもしれない…と深く考えそうになったところを、後輩が心配そうな顔で話しかけてきたのに気づいて、モヤは晴れないまま思考を止めた。
少しして、注文していた黄昏色のスープといくつもの出来たてのパンが入ったバスケットを店員さんが持ってきてくれた。
温かいコンソメにスパイシーなペッパーの効いたスープには野菜がゴロゴロと入っていて、バスケットの中には胡桃が入っているものやチーズがかかっているところがこんがりとしていたり、ブルーベリージャムのついた甘いデニッシュ、小さめのブールなどがあった。
その後も、午後からの始業に遅刻しないように時計を気にしながら、楽しく談笑と食事を堪能した。
季節の変わり目で、天気は乱れ気味で雨の日が続いていた週末。
後輩もそう言ってくれていたし、気分転換にショッピングに誘おうかと思ったけど、忙しい平日からの束の間の休日。
きっと先約もあるだろうなと、やっぱり遠慮することにした。
せっかくの休日だしと、結局ずっと気になっていた遠方の美術館へこの間手に入れた小説とお気に入りの傘を道中のお供に、1人で電車に乗って行くことにした。
美術館に着くと、城のような何段もある階段を挟むように両端にはエスカレーターが私を出迎えた。
雨の日だったからか、ひと気はまばらだったのでなんだか得した気分になった。
私は壮大なアート空間に浸りながら、壁から壁へと時間を忘れてじっくりと巡る。
何気なく周りを見てみるとディスプレイも作品ひとつひとつに合わせて、神々しく照らされているものもあれば、おどろおどろしく薄暗くしているところもあって想像を掻き立てられたりもした。
目の前の個性的な絵画の数々や本物の美しい睡蓮をみていると、自分の中のモヤモヤとした感情もスーッと薄れていくようだった。
他にも、天使や悪魔がリアルに描かれた少し怖めの壁画や教会をモチーフにしているのか丸く高い天井や壁には星空のような深い青、壁いっぱいに描かれた最後の晩餐の実物大のアートが広がっていて、思わずスマートフォンを構えて写真に収めていた。
帰りの電車内では、美術館のショップで自分用に買った抹茶味のウエハースや美術館に飾ってあったアートが描かれている缶に入ったバタークッキー、一目惚れした猫のアクリルクリップ。
優しい後輩にはミルク餡が入った焼き菓子と3種のコーヒーをお土産にした。
それらを眺めて、私の表情はきっとマスクの外にまで満足げに滲み出ていたと思う。
帰宅するといつもの部屋のせいだろうか、せっかくの気晴らしは効かず、またあっという間に鬱屈とした気持ちに包まれてしまった。
このままではいけないと感じ、月のようにぼんやりと光る間接照明をつけて、窓を開けてから夜の空気をゆっくり吸い込む。
気持ちを落ち着けてから、美術館で買ったオレンジ色の花モチーフの和三盆を砂糖代わりに紅茶に添えて、缶からはクッキーを2つほど出して家にある中でもそこそこ小洒落たお皿に載せた。
いつもの部屋中に広がる優雅な香り、和三盆の優しい甘さが意外と合う。
クッキーもサクサクで甘く、もっと食べたくて指先が缶に伸びたけど、明日の自分のためにとなんとか堪えた。
充分に自分のご機嫌をとってから、ソファーにもたれてスマホを手にすると結婚する光へのお祝いメッセージを、やっと丁寧に打ち込み始めた。
『返信遅くなってごめんね。光、結婚おめでとう!いつも気に掛けてくれてありがとう、これからは旦那さんと幸せにね。また、落ち着いたらLINE頂戴ね。今度は私が会いに行くから、本当におめでとう。またね。』
メッセージを送り終えた後も、まったりとティーブレイクを挟みながら、今日撮ったアートの数々の写真を眺めたり思い返したり、SNSで好きな絵描きさんやブランドの新作を眺めたりしていると。
そんな時に初めて君をみつけた――。
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