第7話 囁きと影

屋敷は昼間の静けさとはまったく違う空気に包まれていた。

咲は自分の部屋で仕事の残りを片付けながら、ふと背筋に寒気を覚えた。

どこからともなく、微かに「……咲……」という呼ぶ声が聞こえる。


声は遠くからではなく、まるで屋敷の奥から直接響いてくるようだった。


(また、あの声……?)

咲は自然に足を止め、声の方向を探る。理性は「行くな」と警告するが、好奇心がわずかに理性を上回る。


扉を静かに押し開け、廊下へ一歩踏み出す。

その瞬間、足元の床がかすかにきしむ音がした。

月明かりに照らされる廊下の先に、人影がふっと浮かび上がる。

長く伸びた髪、でもどこかぼんやりとしていて、現実の人物とは違う。


「……誰……?」

思わず声を漏らしかけるが、宮園に言われた言葉が頭をよぎる。

(返事をしてはいけない……)


影は動かず、しかし咲の視線を引きつけるように、ゆらりと揺れた。

好奇心と恐怖が入り混じった心臓の鼓動が、夜の静寂を打ち破る。


そのまま影は廊下の奥へ消えた。

咲は立ちすくむ。足は震え、心はまだ声の残響に捕らわれている。


しかし、確かに呼ばれた。

そして、確かに何かがそこにいた。

それだけが、彼女にとって唯一の手がかりだった。



廊下の奥に消えた影を前に、咲の好奇心は恐怖を押しのけるようにわずかに膨らんだ。

「……誰なの?」

声にならない声を自分の胸に押し込み、彼女はそっと足を進める。


廊下の明かりはほんのわずかで、壁や床の隙間が黒く陰を落としている。

影の輪郭ははっきりせず、月明かりに揺れるだけだ。

その揺れを追いかけるように、咲は一歩一歩静かに進む。


(地下室……?怖い……でも知りたい...声は誰?……)

咲は屋敷の奥へ奥へと足を進める。

心臓が張り裂けそうになるが、呼び声はますます鮮明になり、耳に張り付く。


廊下の突き当たりで、一枚の扉がうっすら開いているのを見つけた。

影はその中に消えたようだった。

咲は息を飲む。扉の向こうには何があるのか、予想はつかない。


しかし、あの声が自分を呼んでいるのは間違いない。

恐怖を押し殺し、彼女は扉に手をかける——その瞬間、かすかな冷気が指先を撫でた。

背筋に電流が走る。だが、咲はその冷たさを感じながらも、決意を胸に扉を押し開けた。


暗闇の中、影の正体がようやく、かすかにその姿を現す——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る