幕間 黒依の日常/クロエのメモ帳②

 「今日はこの辺で切り上げましょう」


 いつもの雑居ビルの、半地下の部屋の壁にエイジの声が響いた。

 ボクシング用のミットを両手にはめていた彼は、息を吐いて汗を拭う。


 私は彼に言われて続けていた獣人種用のサンドバッグ打ちをやめて振り返る。


 その半地下のスペースにはボクシング用のリングが設置されていた。

 ロープには、さっきまでエイジとスパーを行っていた司三つかさが、まるで物干しに干された洗濯物のようにぐったりとして引っかかっていた。


 半地下のスペースには空調が入っているけど、それでも蒸し暑い。

 私はベンチの上の水の入ったペットボトルを、ぐったりとロープに引っかかったまま動かない司三に手渡した。


 「どうぞ」

 「……ああ、ごめん」


 司三は、それ以上は言葉を発する余力もない様子だった。

 私から受け取ったペットボトルからごくごくと一息に飲み干す勢いで水を飲む。


 それで司三もようやくひと心地ついたようだった。

 よろよろとリングの端の椅子に向かい、ぐでんと腰を下ろした。


 リングの中央で自分の水分を補給し、汗を拭っていたエイジが口を開く。


 「司三はまずそもそもの基礎体力が弱い。本悪的な訓練の前に、体力強化のメニューを組むべきだな」


 涼しい顔で汗を拭い腕を組むエイジに、司三が「……あーい」と返事をする。

 それから、多少は体力が戻ったのか、顔を上げて息を吐いた。


 「筋肉が付くのが嫌で避けてたけど……ジム通い始めるかぁ……」


 「友達に誘われてたんだよね」と、つぶやく司三から、エイジは私へ眼を移す。


 「クロエお嬢はやはりフットワークはいいですが、上半身の動きが弱いです」


 エイジは専門的な格闘技を修得している。

 その意見は確かで、私は彼の意見にうなずいた。


 先ほど軽くミット打ちをした私の動きを思い出すように、エイジは軽く自分でも構えを取って少し上下に弾むように動きを交える。


 「強い打撃を放とうとする時、お嬢はおそらく足の方に頼るクセがあるのだと思います。話を聞く限り、この前〈赤竜レッドドラゴン〉に反撃を受けたのはそれが原因でしょう」

 「なるほど」


 理にかなった説明に、私は自分でもあの時の状況を思い起こした。

 確かに、あの時は勝負を急いで強い打撃を放とうとしていたはずだ。


 「どうしたらいいですか?」

 「そうですね……まずは、キック以外で効率的に相手にダメージを与えるテクニックを身に着けましょう」


 「ふむふむ」とうなずく私に、エイジが指を立てて言葉を続ける。


 「ですが、お嬢の一番の武器を磨かずにいるのも惜しい。敵に動きを読まれないように、キックのバリエーションも増やしましょうか」


 「必殺技みたいに、かっこいいのを考えましょう」と、エイジが微笑む。


 私はそれを聞いて「やった!」と汗を散らして飛び跳ねた。


 そんな感じで訓練を終えると、もう時刻は深夜に差し掛かっていた。


 梅雨に入った〈夢見島ゆみじま市〉は、今夜も相変わらず、むわっとした湿度の高い空気に包まれている。


 シャワールームで軽く汗を流して普段着に着替え、いつものミーティングルームに戻ると、マヤが冷蔵庫で冷やした麦茶を出してくれていた。


 「わあ、ありがとう、マヤさん」

 「いえいえ、クロエさんこそ、今日はお疲れ様」


 一息ついた後は、もう寮に帰って寝た方がいいだろう。


 明日の授業に差し支えないように、ソファで体を落ち着かせた。

 すると、部屋の隅の机でパソコンと向き合っているなぎの姿が見えた。


 なんだか今日は特に渋い顔をしている。

 きっと、〈黒衣姫〉の活動の、SNSの反応などを確かめているのだろう。


 そんなことを考えながら彼の背中を見ていると、こちらも汗を流した司三が「クロエちゃん」と、声を掛けてきた。


 「あっ、司三さん、なんですか?」

 「こないだ言ってた、衣装のイメージ描いてきたんだ。見てもらえる?」


 私はその言葉に弾むように、司三が机の上に広げるイメージ図をのぞき込む。

 三面図が描かれている本格的なもので、私は目を輝かせた。


 「わあ……いいですね、これ。可愛い!かっこいい!」

 「でしょう?」


 私がはしゃぐのを見て、司三が笑み崩れる。


 「早速、これ参考に変身して……」


 そのデザイン案を参考に魔力を展開しようとした時だった。


 ──「ちょっといいか?」


 と、のっそり近づいてきた凪が渋い顔をして、デザインをのぞき込む。


 「その……なんというか、こういう事言うのは、ちょっと、あれなんだが……」

 「なに?らしくないじゃん、言い淀んじゃって……」


 何か言い難そうなうつむく凪の横顔を、私は腰に手を当てて見下ろす。


 すると、凪は大きく息を吐いて、私の衣装のデザイン案の──胸とか腰とか、太腿の辺りを指差して、顔をしかめた。


 「その……ただでさえ、体のラインが出てるし……こういうとこ露出するより布付け足した方がいいと思う。その……そういう目で見ている奴が、けっこう……」


 ひたすら言い難そうにうつむく凪。頭頂部の耳が、ぺたんとしている。


 私は一瞬、ぽかんとしたけど──

 次の瞬間、耳の先まで熱い血がかーっと昇っていく音が自分でも聞こえた。


 「バカ!スケベ!この衣装は元々、私が子供の頃から考えてたやつなんだよ!?そういう目で見るなんてサイテー‼」

 「俺が見ているわけじゃねぇよ!?あーもう、だから言いたくなかったんだよ!」


 私と凪は互いにむきあぅてぎゃーぎゃー喚き合う。


 そこへ、汗を流し首筋をタオルで拭うエイジが部屋に入ってきた。

 彼は状況が掴めないはずだけど、私と凪が言い合っているのを見て、なにやら面白そうな事が起こっていると悟った様子だった。


 「そーだぞ、凪、サイテーだぞー」


 エイジが完全に面白がって野次るのに、凪が「はぁ!?」と声を荒げた。

 更には事の成り行きを見守っていたマヤも、わざとらしく口に手を当てる。


 「んまー、凪ったら思春期ボーイ」


 二人の無責任なヤジを聞いた凪の顔が活火山のように真っ赤になる。


 「‼」


 私と司三が思わず耳を塞ぐほどの、凪の怒声。


 雑居ビルに集った私たちの夜は、しとしとと降り続く雨の中、更けていく。


 

 ※※※※※



 ◎クロエのメモ蝶


 〇〈超闘戦士ファイティンマン〉


 〈幻燈映画配給会社〉が制作する特撮ヒーローシリーズの七作目。

 当時流行だったカンフー映画やスポ根ドラマを取り入れた、ハードなアクション路線が特長の作品。スーツアクターやスタントはもちろん、俳優自身も体当たりで危険を伴うアクションシーンを演じた事が今でも語り草になっている。

 私はこの作品のアクションシーンとエイジさんの格闘技を参考に、ばあちゃんとの訓練で培った自分の技を融合させたスタイルの習得を目指している。


 〇〈聖魔戦隊アイセクター〉


 〈精霊映像制作会社〉が手掛ける戦隊特撮シリーズの二十四作目。

 登場人物たちの感情や精神的な成長、それに伴う人間模様の変化などに重点を置いたストーリーと、俳優たちの熱演が今でも語られる作品。

 特に、物語の終盤で戦隊のリーダーレッドアイと、敵女幹部サタンヘレナが悲劇的な恋愛模様の末に結ばれる展開が話題になった。

 視聴率が振るわず、肝心の子供向けでなかったという意見もあったが、バラエティ番組の『特撮神回総選挙』でレッドアイとサタンヘレナの逃避行と悲劇的な別れを描いた回が上位に食い込むなど、再評価されている。


 〇大富豪


 言わずと知れたトランプカードゲームの定番。

 我が〈梓川第一学園〉の女子学生寮では、昔の星取表が談話室で発掘され、数人の寮生の提案により、日をまたいで春先から勝敗を持ち越して続けている。

 『淑女協定』により、負けても実生活においてペナルティがあるわけではないが、『主人』、『令嬢』、『侍従長』、『メイド』、『下働き』と、勝敗結果によって地位が入れ替わり、ゲーム中はそれぞれの地位でロールプレイをする。結果、波乱万丈の人間模様が展開される事となっている。

 私も二、三回、参加していて『黒い森の令嬢』という、ミステリアスなちょっと悪役っぽいゲストキャラの役を与えられている。

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