文明的未踏の三角地帯

池田 樹

文明的未踏の三角地帯

 横浜駅のすぐ隣、開発の兆しがまったくない三角形の空地がある。JR線と京急線の線路に挟まれ、一方を帷子川で塞がれていた。この三角地帯は到達できなくなって久しかった。道路からは隔絶され、高層の集合住宅によって隠されていた。


 しかし、全く未到ということではない。僕には2つのアイディアがあった。1つは、細い路地の奥にある細長い駐車場の隅を歩き、今は使われていない古びた線路の高架橋を潜り抜け、休むことを知らないワーカーホリックな線路を乗り越えた先に三角地帯に到達する方法だった。ただ、この方法には大きな問題があった。ひっきりなしに走る電車が、僕の横断を喜んで受け入れるとは思えなかったし、夜中にヒソヒソと線路に侵入するなんて泥棒みたいだった。どちらも文明的ではない。もう1つは、帷子川の岸壁にボートを着け、コンクリートの壁を登り、茂みをかき分け、底なしの湿地を抜け、マゼラン隊のような多くの犠牲を払って到達することだった。どちらかと言えば、文明的な方だった。経済的な勘定を無視すれば、強い意志をもって到達することは可能だと思われた。ただ、実行するものは一人として現れない、人類の行き止まり的な土地だった。到達しても名誉を得られず、後に続くものもいない、純粋に行き止まり的な文明的難攻不落だった。


 現実的な考えとして、横浜の一等地にフロンティアは残されていない。この三角地帯も例外ではなく、所有者によって登記された空間であり、しっかり固定資産税も支払われていたので、その権利は保障されていた。僕が知る限り、事実として、この三角地帯の所有者であっても踏み入ることはできず、不法に占拠されても警察が立ち入ることはできなかった。航空写真を見る限り、人類の痕跡があるようだった。写真には、何かが地面に埋まって等間隔に並んでいて、西日に照らされた大小に伸びた影が写っていた。戦後の遺構なのか、江戸時代の遺跡なのか、縄文時代の住居跡かもしれなかった。旧石器時代のストーンヘンジ的な原始宗教に関わるものにも見えたし、これら全てが折り重なったものであってもおかしくなかった。つまり、この三角地帯は、現実と事実が異なり、時間の奥行きも不確かだった。


 三角地帯に立ち入ることは困難を極めるが、覗くだけなら簡単だった。横浜駅から下りの根岸線または京急線に乗り、次の駅に至るまでの僅かな時間、三角地帯を見ることができた。ほんの一瞬だけ、行き止まりの今を垣間見れた。車窓から見る三角地帯は、日々その情景を変えていた。春にはタンポポが咲き、夏には背丈を超える草が茂り、秋にはススキとセイタカアワダチソウが綿毛を出し、冬には茶色く枯れた草が地面に折り重なっていた。毎日、何百両の電車が行き交い、何万人という乗客に見られては忘れられていた。もしくは、見られていなかったかもしれない。極少数の人たちが、人類の行き止まりに気づいていたが、声には出さなかった。異端になることを恐れたのか、声に出すことすら無駄なほど無価値に思えたのか、僕にはわからない。


 三角地帯を思うとき、僕は太平洋上に降る雨を思い浮かべた。辺りに島影はなく、海鳥にも、魚にも見られていない。陽射しは明るく、風は暖かく、居心地のいい雰囲気に囲まれている。陽射しと風は、湿った空気を空の高いところへ登らせ、雲を育てる。雲は次第に高く大きくなって、空は暗くなる。見渡す限り黒い雲で覆われ、冷たい風が吹き、雨粒が落ちてくる。初めのうち雨粒は小さく弱く、やり過ごせそうな気がする。しかし、次第に雨足は強くなり、雨粒一つ一つを意識できないくらい増えていき、雲と海の間が雨で埋め尽くされる。これが、誰にも見られずに毎日繰り返されている。三角地帯とは、そう言う場所だった。


 個人的に行き止まりを体験するのは、それを見るだけでも容易なことではない。意図的でなければ行き止まりに遭遇する事はまずない。現代では、社会全体が経済的にも法的にも不毛な行動を抑制するように作られていて、社会のルールに従う限り、行き止まりに遭遇することはない。強いて体験するには、住宅地の奥で、「この先、行き止まり」という看板を見つけ、忠告を無視してその道を進む。これが、日常生活でほぼ唯一体験可能な行き止まりである。


 正確に行き止まりを体験するには、その道路の先端まで行き、塀や門や崖で閉じられたところで立ち止まる必要がある。そして、その帰路は、必ず行きと同じ体験を逆順に辿ることになる。もう一度「この先、行き止まり」の看板を見たところで、一巡の体験は終わる。純粋な行き止まりの体験は塀や門や崖の前で立ち止まった状態であり、歩いている間は行き止まりに至る過程であり、帰路は行き止まりを解消する過程である。つまり、行き止まりの体験には、長いプロローグとエピローグによって、その大半の時間を費やすことになる。まったく文明的ではない。


 同時に、行き止まりはプライベートな空間である。自転車やバイクが停めてあり、物干し台が並び、チョークの落書きがあり、子供達がボールで遊ぶ。何十年も取り残された記憶が残る私有地である。個人が所有する土地の上にアスファルト舗装が乗っていて、片側が別な道路に繋がっている外部と連続性をもった空間であり、「この先、行き止まり」の看板によって境界を示している、扁平動物の消化管だ。


 行き止まりの最たるものが三角地帯であり、いかなる者の体験も拒んでいた。空間的断絶があり、法的困難さがあり、経済的障壁によって、文明との接触を絶っていた。しかし、確かに存在していた。雪男やビッグフットより、その虚しさも含めて確かだった。


 僕はしばらくの間、三角地帯のことを忘れていた。もちろん、忘れるために意図的に努力した。電車に乗る時は、それと反対側に立って風景を眺め、彼女が雑誌で読んだ流行のアクセサリーの話に相槌を打った。そして、できるだけ電車に乗らないようにした。電車にさえ乗らなければ、見ることはなかった。


 デートの途中、彼女が三角地帯のことを聞きたがった。彼女がなぜ三角地帯を知ったかは分からなかった。彼女の興味を引くような話題でもなかった。どちらかと言えば、彼女はもっとライトな会話を好むタイプだった。少なくとも僕はそう思っていた。


 1杯目のビールが届くと、

 「三角地帯って、見たことある?」と彼女は訊いた。

 「君も見てたはずだけど」と僕は答える。

 「どこにあるの?」

 「横浜駅の隣り。電車から見えるよ」

 「楽しいところ?」

 「分からない。見ただけだから」

 「遊園地なら見ただけでも楽しいってわかるでしょ?三角地帯はどうなの?」

 僕は答えられなかった。2杯目のビールを飲みながら、僕の知る現実を語るべきか、事実を話すべきかを考えた。現実を語るとして、難攻不落の上陸作戦の困難さを説明できる自信がなかった。彼女には物理や経済のルールは通用しない。事実を話すとして、プライベートな扁平動物の消化管や洋上の降雨を語る異端者を彼女は想像できそうになかった。そして、そのどちらか一方を理解できたとしても、僕が知る限り昔の遺跡があるだけだった。

 「写真で見ると、あんまり楽しいところじゃなさそう」と僕は言った。昔の遺跡に対して、僕が言える最適な答えだった。

 「ふーん。みんなはワクワクするみたい」と彼女は言ったが、みんなとは誰なのか、三角地帯のどこにワクワクしたのか、僕には分からなかった。

 「草の茂みがあって、虫に刺されたり、草で肌を切ったりするかも知れない。もっと危険なことが起こるかもしれない」と彼女に伝えた。

 「そんなの気にしない」と彼女は答えた。それでも、実際に虫に刺されたり肌を切ったりしたら、彼女が機嫌を悪くすることは明らかで、その機嫌を直すために苦労するのは僕だった。

 「もっと悪いことが起こるかも」

 「大丈夫」

 三角地帯に対する彼女の意気込みは本物だった。彼女は三角地帯に行くことに魅力を感じていて、そこで何をするとか、危険があるとか、どうでもいいという感じだった。僕は三角地帯への道順を想像した。ボートを漕いで川を渡り、岸壁を登り、茂みを超える。そして、立ち止まって、少しの時間行き止まりを満喫する。その後は、JR線か京急線の線路を渡って外に出る。三角地帯に住み続けるという選択肢はなかったし、空を飛んだり、地下トンネルを掘ることはできなかった。


 コース料理は折り返し地点を過ぎていた。彼女はこの食事が終わる頃には「三角地帯を見たい」と言い出すことは明らかだった。僕に残された時間はわずかで、すでに僕が選べる選択肢は限られていた。最も平和的な選択肢は、奇跡的に彼女が三角地帯のことをすっかり忘れて、2人でデザートを楽しむ事だった。


 彼女が席を立つと、代わりにマゼラン隊の亡霊が座った。僕はビールを薦めたが、彼はそれを断って「戻る事はできない」と言った。彼は続けて、「一度踏み入れれば、その先に破滅的な犠牲があると分かっていても進むしかない。戻ることはもっと大きな犠牲を伴う」と語った。三角地帯に上陸した亡霊の言葉は重かった。それが真実なんだと感じた。そして、三角地帯から戻れないことを知った。つまり、この行き止まりには引き返す道はない。三角地帯にエピローグは存在しない。


 ウェイトレスがテーブルに来て、「デザートを運んでいいか」と尋ねた。すでに亡霊の姿はなかった。「彼女が戻るまで待って欲しい」とウェイトレスに伝えると、何か言いたそうな表情を浮かべ、頷いて戻っていった。


 彼女が席を外したまま、夏が終わろうとしていた。

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文明的未踏の三角地帯 池田 樹 @Itsuki_IKEDA

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