魔法使いの天球儀

早蕨足穂

風をあつめて

 走ることが好きだった。

 頬を叩く風、体の内側から湧き上がる熱。そして、叫び出したくなるような高揚感。この土地に生まれてよかった、と思う。他の都市では、女は貞淑でいるべきで、男の所有物だと言われている。けれどここでは男も女も関係なく、強いことが正義で——走ることもまた、鍛錬の一種なのだ。


 栗色の髪が、風になびく。


 鬱屈とした感情も、怒りも喜びも、走れば表現できる。発散できる。走っていれば、泣いていても誰にもバレない。


 わたしはいつもと同じように、神殿を通りがかった。


 ——そこに、人がいた。


 長い黒髪の男だった。肌はあまり見かけない浅黒い色で、髪の内側だけ瞳と同じ金色に染まっている。何よりも目を引いたのは、美しさ。わたしが見たことのあるどんな男より端正な顔立ちをしていて、すべての配置、すべての角度が完璧だった。美しい、という概念をこの世界に投影すれば、彼のかたちになるとさえ思った。


 男は金の視線でわたしが走るのを追いかけていたが、興味をなくしてかすぐにそれをやめた。暮れかけた太陽が、神殿と男の横顔、わたしの背中を照らすころのことだった。




   1

 あの人は、あんな場所で一体何をしているのだろう。彼がいる神殿は既に朽ち果てていて、管理人もいない。たぶん、スパルタにいる誰も、あそこで祀られていた神を知らない。それだけ古くに放棄された場所である。だからわたしは、彼こそがあの神殿で崇められていた神なのではないかと、そう思っていた。あれほどの美を持っているのだ、アプロディーテーに連なるものだと言われても疑わない。あるいは、彼こそが三美神を象徴する偶像であるとか。


 今日も、走っている。神殿の崩れかけた階段に彼はいて、丘から見える街並みをただ眺めていた。


 物憂げな瞳は、魅力的に見える。わたしは足元に転がっている石に気づかず、派手に頭からすっ転んだ。


「——っ、た……」


 膝と、咄嗟に地面についた手のひらがヒリヒリと痛む。手のひらはそれほどひどい怪我ではなかったが、擦りむいた膝からは血が滲んでいた。


 ……やってしまった。街を見ていた彼には、何を見ていて転んだかまではバレていないはず。それだけが救いか、と溜め息をついて立ち上がろうとする。


 すると、地面に座り込むわたしの頭上に影が落ちた。


「……怪我か」

「あ、え」

「動くな」


 彼の声を聞いたのは、初めてだった。やや低いが、甘く伸びやかな声色だった。あまり歳のいっていない、青年の声だ。二十代半ばといったところだろうか。顔立ちが綺麗だから、年齢にまで意識が向かなかった。


 彼はわたしの膝に手を翳して、すい、と空中で撫ぜる。それだけで痛みは消え失せ、傷もなくなった。


 これがなんなのか、わたしは知っている。


「ありがとう。あなた、学者だったんだ」


 アテナイのほうで議論されている自然的な哲学のうち、仮説を実践して真理を証明する者たちを、真理派と呼ぶ。真理派は魔術師でもある。神の声を聞き、その名のもとに奇跡を再現する人間だ。彼は女性用と同じくらい丈の長いキトンに、貝紫色に染められたヒマティオンを重ねていた。ギリシャヘラスではありふれた服装だから、わからなかった。


「……似たようなものだ」

「そう。あなた、名前は? わたしはラオディケ」


 彼は視線を彷徨さまよわせている。名乗るべきかどうか、迷っているんだろう。代わりに無言で差し出された褐色の手を握り、わたしは立ち上がった。答えてくれないのだろう、と諦めて立ち去ろうとしたとき、彼の薄く形の良い唇が、花のようにひらいた。


「ゼノン」


 その音は、驚くほど軽くわたしに馴染んだ。ゼウス神にまつわる名前だ。神々のように美しい彼にはふさわしいと言える。次に気になることといえば、彼がどこから来たのか、だ。褐色の肌は少なくともこの辺りの血が濃いわけではないことを示していて、異国の魅力を湛えている。


「見たことない顔だけど、どこから来たの? こんな……廃墟で、何してるの?」


 神殿を廃墟と呼ぶのは憚られたが、事実ここは放棄されて、誰も寄りつくことすらない。


 わたしの矢継ぎ早な質問にうんざりした様子を隠そうともせず、彼は眉間を狭めた。その顔は歪んでも綺麗で、気を抜けば陶然としてしまいそうだった。


「遠くから。もう日が暮れる、帰りなさい」

「答えてくれないの?」

「……帰りたまえ」


 助けてくれたのに、それ以上の関わりは許してくれないのだろうか。わたしはむっとしたが、彼の言う通り、もうじき日が暮れてしまう。この辺りは真っ暗になって、獣も出る。早く帰ったほうがいいのは確かだ。


「……わかった。また明日」


 今回は大人しく引き下がってあげることにして、神殿から家の方角へと足を進める。一度だけ振り返ったが、彼はほとんど屋根のない神殿へ入っていくところだった。入り口だった部分をくぐった瞬間、その姿は見えなくなった。




   2

 それからわたしたちは毎日顔を合わせ、少しずつ言葉を交わした。最初はうんざりしてわたしを追い払おうとしていたゼノンもだんだん話してくれるようになって、いつの間にかわたしたちは友人と呼べるまでの関係になっていた——彼もそう思ってくれていたら、だけど。


 彼はエジプトアイギュプトスから来たらしい。故郷を出て旅をしているという。ここスパルタに来たのは偶然で、立ち寄っただけ、とのことだ。少ししたら旅に戻るらしい。


「ゼノンは、走るのって好き?」


 わたしはふとそう尋ねた。わたしは何か激情に駆られたとき、走るのが好きだ。一方、彼が運動しているところは見たことがない。それどころか、街に降りているところすら。


「好き、と言うほどではないな。嫌いでもないが」

「そればっかりだね」


 彼にこれは好きか、あれは嫌いか、とよく聞いてみるけれど、はっきりした答えを貰えたことはない。好きでも嫌いでもない、というのが彼の常套句。だから、毎日言葉を重ねているのに、わたしは彼の内面や性格をあまりよく知らなかった。わたしばかりが、取材をするように話題を作っている。本当は、渋々わたしに付き合ってくれているだけなのかも。


「好きなものはあるの?」

「酒」


 無愛想に返されたので、これは本当じゃないんだろうとすぐにわかった。第一、彼が酒を飲んでいるところなんて一度も見たことがない。本当に酒が好きならこんな神殿にいないで、街で宿を取って、毎日酒場にいるはずだ。


「嘘だ。飲んでるところ見たことないもの、わたし。本当は何が好きなの?」


 はあ、と溜め息を吐かれる。面倒くさがっているようだけど、最後には必ず答えてくれることを、わたしは知っている。だからめげずにしつこく尋ねるのだ。


「好きなものか……」


 ゼノンは繰り返して、答えに迷っているみたいに、わたしから視線を外した。沈黙がおりる。考え込んでいるようで、長い睫毛が黄金の双眸にけぶっていた。


「……人が好きだろう、と言われたことがある」

「人?」


 そこで、彼は初めて口元に微笑みを乗せた。春の陽射しのようにあたたかく、絹のようにやわらかな微笑だった。タローみたいだ、とわたしは思った。もちろん、春の女神の姿を目の当たりにしたことはないけど。


「言われたって……誰に? いつ?」

「君は質問が多いな」また溜め息。やはり、呆れているようだ。「イスラエルに住んでいたとき、王に」

「王様? ダレイオス三世のこと?」


 イスラエルは、王国の名前だ。現在はアケメネスアカイメネースの王たちが統治している。古い国の名前だったはずだが、その地域では、征服されたあとも同じ名前が使われているのだろうか。


「いや」

「なら誰?」

「君の知らないひとだ」

「なにそれ」


 きっとこれ以上踏み込まれたくないのだろうな、と思って、わたしは生返事をした。ここまでしか教えてくれないなんて、薄情な人だ。……わたしにも言ってないことがあるから、お互いさまか。


 わたしは唇を尖らせ、しぶしぶ聞き分けのいい子どものように振る舞った。


「じゃあ、旅の話を聞かせてよ。イスラエルから来たなら、マケドニアも通ってきたでしょ?」


 陸路で来たのであれば、当然ながらペルシアは通っているだろうし、マケドニアも通過しているはずだ。


 スパルタは、マケドニアが結成したコリントス同盟——ギリシャヘレスを統一している同盟には参加していない。反マケドニア的な風潮があるから、敵国のことは尋ねにくかった。旅人であるゼノンならばきっと、客観的な立場から見た、あの王国を教えてくれるはずだ。


「一時期、王の食客として王宮に滞在していた。そうだな……あまりここと違いはなかったように思うが」


 マケドニアの狙いは、コリントス同盟にかこつけて、南ギリシャを征服しやすくすることだ。わたしはそう言った父の言葉を信じていたし、口を揃える市民のことも権力者のことも、彼らが言うならそうなのだろうと信じていた。


 マケドニアはスパルタを征服し、破壊と略奪を行わんとする、醜悪な国家であると。


 だが、ゼノンは違うと言った。


「王たちの尺度で見れば、征服者と言ってもいいのだろうが——民衆の尺度で見たあの国は、ここと変わらない。人々が助け合い、秩序を築いて生きている」


 彼の声は穏やかだ。初めて会ったときより、ずっとまろくて、やさしい。わたしの耳には心地よかった。弁論家になったら、民衆なんて意のままに扇動できるだろうと思われた。


「旅の話を、と言ったな」


 風が、わたしたちのあいだを駆け抜けていく。


「私はただ、凪いだ場所を求めて彷徨っているだけだ。旅などと呼べるものではない。だが……」


 わたしの髪をさらっていく。彼の、長い黒髪をも。


「ひとのいとなみを眺めることが、きっと、わたしの惑いの意義だ。彼らを見て、学ぶために、歩いている」


 彼は青く澄み渡る高い空と、そこに浮かぶ雲を見上げ、まぶしそうに目を細めている。わたしもつられて上を見て、目を刺す陽光に手を翳した。


 ……ひとの、いとなみ。見て、学ぶこと。惑うことにも意義があって、旅とも呼べないような彷徨いにも、意味があって。


 なら、世界に、意味のないものなどないのだろうか。きっと、ゼノンなら肯定するだろう。全てには意義があり、それに気づくために、わたしたちは生きているのかも、しれない。わたしはたった十数年の人生しか持っていないけど、そうであったらいいと思った。


 全てに意味があるのだとしたら、お母さんの死も、わたしの生も、無駄じゃない。そうならいい。世界が思うよりずっと優しいことの、証になるから。


「ねえ、ゼノン」


 彼は返事の代わりに、視線をこちらに寄越した。


「わたしね、走るのが好きなの」


 空は広い。果てがない。海にも、果てはない。大地には限りがあって、人にもそう。だったら、わたしは。


「わたしならどこまでも走っていけるって思ってた。でも、ここから出たことない」


 限りがあるなら、そのすべてを見てみたい。


「わたし、どこまで走っていけるのか、知りたい」


 きっと果てを知る、あなたみたいに。




   3

「……ただいま帰りました、お父様」


 その日は珍しく、玄関に父が立っていた。また遅くなったから、怒っているんだろう。眉間に深い皺が寄せられている。いつもは玄関になんていないのに。


 わたしは父の横を通り過ぎて家へ入ろうとしたが、強く腕を掴まれ、阻まれた。思わず声がこぼれる。


いたっ」

「またこんな時間まで、どこに行っていた」

「どこって……どこでもいいでしょう」


 突き放すような言い方をしても、父を怒らせるだけだ。そう理解してはいたが、わたしは穏やかな話し合いができるほど、父を慕ってはいなかった。


「わかっているのか? お前はいずれ王の妻となる身だ。旅人などにうつつを抜かしているようでは——」

「現を抜かしてなどいません!」


 わたしは思わず叫んでしまっていた。わたしが彼に抱く気持ちは恋などではなかったし、それに近いものなどでもなかった。これは純粋な友情と尊敬、そして憧憬だ。それをそんな言葉で表してほしくなかった。


 父は構わず大声を張り上げる。


「あの神殿は放棄されて久しいのだぞ! あんな場所に居座る旅人など、人かどうかも怪しいではないか!」

「彼は人です! 悪く言わないでください!」


 そこまで言ったところで、乾いた音が響いた。

 頬がじんじんと痛む。叩かれたのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。視界が滲み、なおも激怒する父の声が、遠くなる。なんで、どうして、と思考が回り続ける。


 わっと込み上げる何かの感情を父にぶつけようとした。けどまた叩かれるんじゃないかと思って——今までは反抗しても、叩かれることはなかったから——何も言えなくて、握った拳はわなわなと震えていて、数秒遅れて追いついた心が、涙をにじませて。


 わたしは、家を飛び出した。


 父の声も聞かない。涙を堪えることに力を尽くしていた。食いしばった歯の隙間から息が漏れる。は、と口を開けてみると、緊張が緩んだのかいっそう胸のあたりがぎゅっとして、涙が流れ落ちてきた。


 走る。行くあてなんて一つしかない。こんな時間に神殿を訪れたら、彼は迷惑そうにして帰そうとするだろうか。それともわたしの涙を見て、居させてくれるだろうか。


 暗い街を、必死で走り続ける。大通りを外れて丘へ向かうと、道は獣が通るようなものになって、石が邪魔をする。わたしは何度も躓きながら走って、走って、走って、あの神殿へ辿り着いた。


 走っているうちに目が慣れたのか、すぐに彼を見つけることができた。彼は火も焚かずに、朽ちた神殿の前に立っていた。街を見下ろしているようだった。


「あ、ぜ、ゼノン……えへ、来ちゃった」


 わたしは風を受けて乾きつつある涙を、手のひらでぐいと拭った。ゼノンが金色の視線で、一瞥する。


「……火をおこそう。そこに座っていなさい」


 彼は面倒くさそうな顔ひとつせず、階段に座るよう手で示した。わたしは鼻をすすって、言われた通りにする。ゼノンの人差し指が宙に掲げられれば、指先が淡く輝いた。まっすぐ横に引かれる。光の軌跡からは枝葉が茂るように、何かの紋様が伸びていく。


 魔術、じゃない。わたしは魔術を見たことがある。ゼノンが使うものではなく、アテナイから来た真理派の学者が使う実践理論だ。彼らが使う魔術はもっと、こう、なんと言うか——地に足がついていた。法則があり、公式があった。だが、ゼノンのこれは、違う。あえて無理やり喩えるならば、神の——。


 信じられなくて何度も瞬きをする。二度のそれを終えたときには、光は彼の指先から姿を消していた。


 代わりに、違う光があった。火の灯された薪が、わたしの目の前で燃えている。魔術にしては複雑そうだ。真理派の学者曰く、魔術では複雑な物体の創造は難しいらしい。この場合なら、薪だけを創り出してそこに火をつける、といった方法が一般的だ、ということになるだろうか。彼らの言葉に則れば、火のついた薪をいきなり生み出すのは、相当に難しいはずだ。


 学者たちのなかでもかなりの腕の持ち主なのだろう。そうでなければ、本当に神に連なるものであるかだ。


「……落ち着いたか?」


 彼はわたしの近くにそっと腰を下ろし、恐る恐るといった様子で尋ねた。声音が泣いている子どもに慣れていない人間のそれだったから、わたしは吹き出しそうになってしまった。


「何か、あったのか」

「…………」


 わたしはすぐに答えられなかった。わたしはいずれ王の妻になる身で、それなりの学があり、肉体的にも恵まれている。身分も頭も体も申し分ないはずなのに、わたしには受け入れられなかった。


 だって、わたしは王様なんかの妻になりたくない。戦士として戦って死にたい。女だから無理とか、そういう言葉は父親から嫌というほど浴びせられてきた。自分の力がどこまで通用するか見てみたいし、父親の抑圧や束縛から離れて、したいことをしたい。


 わたしがどこまで走っていけるか、知りたい。

 このあいだわたしを導いてくれたゼノンなら、父のことについて適切な助言をしてくれるかもしれない、と思った。だからわたしは、悩みを吐露しようとする。


「あ、のね」ぼろり、と涙がこぼれ落ちた。「ああ、ごめんね、泣きたいわけじゃないの……」

「話したくなければ、話さないでいい」

「ううん、話したい」


 止まらない涙をぐしぐしと拭って、鼻をすすって、熱っぽい息を吐く。


「……あのね、お父様が、わたしに良い妻になれってずっと言ってきて。王の妻になる女なのだからって、お淑やかにしろって。でもわたし、走りたい。走っていたい。外を知りたいの」


 ゼノンは、爆ぜる火を見つめている。黄金色の瞳に炎がちらちらと燃えて、いっそう綺麗に映った。


 ずっと隠していたことを、口にしてしまった。彼になら、いい——彼なら笑ったり怒ったりしないはずだ。そう、思ったのだ。


「ゼノン」


 わたしが呼びかけると、伏せられていた物憂げな視線はこちらに向けられる。わたしがかろうじて彼から読み取れたのは、優しげで切なげな感情だった。


「わたし、あなたみたいに走っていける?」


 彼は自由だと、わたしは思う。旅をして、気の向くままに歩いていることもそうだし——彼の考えかたは、何より自由で平等だと感じられた。


「あなたみたいに、自由になれる?」


 だから、あなたのようになりたい。


「なれるさ」


 ふ、と彼が微笑んで、夜の風がわたしの頬を撫でる。


「そう思った瞬間から、君はもうどこにだっていける」


 その肯定はひどくやわく、やさしかった。わたしは目をみはって、星の光に網膜が焼きつくのを受け入れるしか、できないでいた。目を閉じても、葡萄酒色のざらりとした影が、まぶたの裏に残っている。




   4

 荷物を最低限詰め込んで、わたしは神殿を訪れた。


「見て、ゼノン! わたしね、外に行くんだ。世界を見に行くつもり。走るの、やめたくないから」

「……父君は説得できたのか?」

「できたよ。半分くらいはね」


 父はわたしの固い意志を聞いて、説得も抑圧も無駄であることを理解してくれたようだった。半ば諦めのようでもあったが、わたしにとってはどちらも同じだ。


「そうか。身を守るすべも、持っているんだな?」

「剣は持ってる。大丈夫だよ、わたし運動できるし」

「……そうだといいんだが」


 女は戦場に出ない。走ることと戦うことは違う、と言いたいんだろう。彼の言い草ももっともではあるが、わたしはそんなことよりも、わたしが旅に出ていける喜びを、分かち合いたかった。


「右手を出しなさい」


 はあ、とため息をついた彼はそう言うと、わたしが差し出した右手を取った。なんだろう。


 すると、ゼノンは中指に金色の指輪を嵌めてくれた。ラピスラズリサファイアが陽光を浴びて輝いている。


「これ、どこで買ったの?」

「造ったんだ」

「魔術で?」

「魔術で」


 ふふ、と思わず笑い声をこぼすと、彼は困ったように眉を下げた。わたしのために、ここまでしてくれる人がいるなんて。


「この指輪は、害あるすべてから君を守る」


 褐色の指が宝石を撫でる。害あるすべてから、なんて大仰だ。けれども面白半分で言っているのではないことを、わたしはよく理解していた。彼は、そうした冗談を口にすることはない。というかそもそも、彼はあまり嘘をつかない人だ。だからきっと、これも本当。


 わたしは指輪を見下ろしている。霞のように儚げで、ごく短い交流しかしなかった彼との、確かなつながり。これがある限り、この日々が夢ではなかった証になる。それが嬉しくて、わたしはゼノンを抱きしめた。


「ありがとう、ゼノン。わたし、あなたみたいになる。それで、どこまでだって行ってみせる。やりたいこと、なりたいもの、全部叶えるよ」

「……ああ。君なら、できるだろう」


 彼の手がわたしの背に回され、頭にもう片方の手が置かれる。こわごわとした手つきだったが、わたしにとっては温かく、心地よいものだった。


 そっと離れると、彼は祈るように胸に片手を当て、わたしに微笑む。花のように美しい様相で。


「ラオディケ。君の旅路に、幸運がありますように」


 彼はそこで、初めてわたしの名前を呼んだ。


 伏せられた眸には、たしかな愛が宿っている。

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