第46話

 ビアトリスは学園を卒業すると、ハロルドとともに隣国へ渡った。

 春に隣国に来て、その夏のうちに、ビアトリスはハロルドの妻となった。


 侯爵家の次男であるハロルドは、爵位を継ぐ兄とは別に、自身で商会を立ち上げた。彼が数学を得意とするのも、会計実務に役立てるつもりで学んでいたからだろう。


「君、言ってたよね。商売する家に嫁いだなら頑張れるって」


 数学に悪戦苦闘していたビアトリスの言葉を、ハロルドは忘れてはいなかった。



 ビアトリスは隣国に来て直ぐに、叔母と再会した。幼い頃に別れて以来、十年ぶりの再会だった。


「本当によろしいの?叔母様」

「ええ。やっと一組に戻ることができるのだもの、耳飾りも喜んでいるわ」


 ビアトリスは、叔母から譲られた片方だけの耳飾りを、叔母に返そうと思っていた。だが叔母は、自身の手元に残したもう片方をビアトリスに譲ると言った。


 真珠の耳飾りは、叔母が婚約した当時の留学生である夫から贈られたものである。本来なら叔母の手元にあるべきで、そんな大切なものを幼いビアトリスに譲った理由がわからなかった。


「この国に渡る時に、私は貴女と離れたくなかった。許されるなら貴女を連れて、一緒にここにきたかったわ。でも貴女はまだ幼くて、両親の下にいるべきだと諦めてしまったの」


 叔母はそう言って、叔母が持っていたもう片方の耳飾りをビアトリスに差し出した。


 真珠は特別なものだった。『ツインパール』と呼ばれる、所謂「双子」の真珠であった。


 二つの真珠が母貝の中で結びつき、隣あって育つという希少なもので、愛と絆の印とされている。

 耳飾りは、その双子の連結部分を離して、耳飾りの金具に埋めたものだった。


「双子の真珠がきっと、貴女をここへ引き寄せてくれると思ったの。ハロルド様が王国へ渡ると聞いたときに、必ず貴女を連れて帰ってくれると信じていたのよ」


 だって、と叔母は続けた。


「貴女に会うために、ハロルド様は留学したのだもの」


 叔母の言葉を、ビアトリスは半信半疑で聞いていた。いくらハロルドが、幼い頃に叔母からビアトリスのことを聞いていたとしても、それでわざわざ留学なんて考えるだろうか。


 だが、ビアトリスが今も不思議に思うのは、なぜ自分のような平々凡々令嬢を、ハロルドは妻にしてくれたのだろうということだった。


「懐かしいわ」


 叔母はそう言って、小箱を手に取った。

 蓮の花弁が彫られた象牙の小箱。叔母が呪詛を閉じ込めた、あの小箱である。


 叔母はそこで、懐かしそうに小箱を眺めて、それからゆっくりと蓋を開けた。

 叔母が呟いた呪詛の言葉と、ビアトリスが毎夜毎夜ささやいた、ハロルドへの恋心がふわりと漏れ出たように思えた。


「驚いた。まだ香りが残っているわ」


 叔母の言葉に、ビアトリスこそ驚いた。


「叔母様にも香りがわかる?」

「勿論よ。でも随分前のものなのよ?私が八歳の頃ですもの」

「八歳?叔母様、それは」


 叔母は八歳の夏に、領地の森で神隠しに遭っている。


「叔母様は、森の精霊にさらわれてしまったのでしょう?」

「精霊?ふふ、貴女もそう思う?」

「え?」

「ただの迷子よ」

「迷子⋯⋯」


 叔母は八歳の夏の朝、カントリーハウスの裏にある森のそばを散歩していた。そこで、ちょっと目を離した僅かな間に姿を消して、三日目の朝に門の前に一人で立っていた。


「狐の巣穴に落ちちゃったの」

「え?」

「森の手前に茨の藪があるんだけれど、そこに巣穴が空いているのを見つけたの。もっと見てみたいと足を踏み出して、そのまま滑り落ちてしまったの」


 ビアトリスには、その光景が聞かずともわかった。鮮やかな映像として思い出すことができた。

 叔母の話を聞けば聞くほど、それはいつか見た夢の通りだった。


「穴は傾斜があったし滑ったし、巣穴にしては大きかったわ。それこそ狐のように四つん這いでなら通れるほどの広さと高さがあったの。向こう側が仄かに明るく見えたから、きっと通り抜けられると思ったわ」


 聞けば聞くほど夢の通りで、ビアトリスは相槌を打つことも忘れて、叔母の話を聞いていた。

 叔母の話はまだ続く。


「出られなかったら引き返せば良いと思って。それに、なぜか怖くなかったわ。だから、薄っすら見える光を目指して這って進んだの」


 二十年も前のことを、叔母ははっきりと憶えていた。


「出口には、ちゃんと辿り着けたわ。今でも思い出せる、天に光の穴が空いているように、明るい日射しが降り注いで見えたの。宗教画のような、空から光が射して天使が舞い降りる、そんな神々しい光景だったわ」


 ビアトリスはもう、叔母の話を聞かずとも、その先がわかっていた。


「穴からそのまま這い上がれそうな気がしたから、斜面を伝って登ったところで、穴の向こう側から手を差し伸べられたの」


 ビアトリスはそこからは、叔母と一緒に言えると思った。


『これは可愛らしいお嬢さんだ。お怪我はございませんか?どこか痛いところはないですか?』


「おじいちゃん司祭様が、そう言って助けて下さったわ」


 叔母はその後、熱を出した。高熱ではなかったが、大事をとって、教会で翌日まで寝かされていたという。

 家族が心配しているだろう、探しているだろうとわかっていたが、発熱のせいなのか司祭には言えなかった。


 他のことなら色んな話をしたのに、なぜか家のことも家族のことも言おうと思えなかった。そして司祭も尋ねてはこなかった。


「ただ、お世話を受けてなにかお礼をしなければと、そればかり考えていたわ。お母様が教会に寄付をしているのを知っていたから、自分も貴族の高貴な義務ノブレス・オブリージュを果たさなくてはいけないと思ったの」


 それは、ビアトリスの知らない話だった。


「それで、なにも持っていなかったから、着ていたワンピースを置いてきたわ」

「置いてきた?」

「ええ。泥がついたからと着替えまで用意して下さって、ワンピースも洗って頂いたの。そこまでお世話になったなら、貴女もきっと、お礼をしたいと思うでしょう?」


 ビアトリスは、やはり叔母は森の精霊に心を囚われたのだと思った。普通は八歳の少女なら、真っ先に家族の下に戻りたいと思うだろう。ノブリス・オブリージュなんてことは思いつかない。


「家名を教えたら、おじいちゃん司祭様はおわかりになったわ。ほうぼう捜索されていた筈なのに、教会には誰も来なかったのね。それで私はお願いしたの」

「お願い?それはなにを?」

「明朝にカントリーハウスの前に置いていってほしいと」

「え?」

「おじいちゃん司祭様が、私のことを知らせなかったと、それで罰を受けるのではないかと怖かったの。ワンピースはお礼にとお渡しして、私は教会からお借りしていた白い衣を着ていたんだけれど⋯⋯」


 叔母はそこで、悪戯がバレてしまったように笑った。


「森の妖精に拐われたことになっちゃったわ」





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