ビアトリスの象牙の小箱

雨之宵闇

第1話

 ビアトリスは初め、叔母が呪いをかけているのだと思った。



 叔母は父の末の妹で、当時は十八歳、貴族学園に通う学生だった。


 ビアトリスとは十歳しか違わない叔母は、叔母というより年の離れた姉のような存在だった。

 長兄となる父とはひと回り年の差があったから、ビアトリスとのほうが年が近かったし、叔母はどちらかといえば童顔だった。


 その叔母が、小箱に向かって何かを囁いていた。それから、今しがた囁いた言葉を閉じ込めるように、叔母はすぐに蓋を閉じた。


「ごめんなさい、アーノルド様」


 両手で持った小箱に向かって叔母が謝るのが聞こえて、ビアトリスはそんな彼女に声をかけることができないまま、小さく開けた扉から動けずにいた。


 叔母は当時、厄介な物事に巻き込まれていた。

 幼い頃にははっきり理解できずにいたが、今ならわかる。叔母は、当時の婚約者であるアーノルドとの間にトラブルを抱えていた。


 貴族の子女の間で醜聞めいたことが起こるのは、いつの時代も珍しいことではない。

 だが、ビアトリスが知る当時の騒動とは、高位貴族ばかりでなく王族まで巻き込んだ醜聞として、今も貴族の間で記憶されている。

 一人の女子学生に男子学生が群がったという、ひと言で言うならそんな話だった。


 学園で最終学年を迎えていた叔母は、翌年に婚約者との婚姻を控えていた。 

 婚約者は同じ年の伯爵家の嫡男で、生家の爵位も等しく親しい交流のある家同士であった二人の婚約期間は長かった。


 アーノルドという叔母の婚約者のことは、ビアトリスも薄っすら憶えている。だが、彼の笑顔はどうにも思い出すことはできない。


 叔母の通う学園には、今の国王陛下の弟で当時の第三王子が同じ学年で学んでいた。

 王子には公爵令嬢の婚約者がおり彼女もまた同じ学年で、叔母も叔母の婚約者も、当事者は揃いも揃って皆同じ年齢だった。


 騒動とは、そこにもう一人子爵家の令嬢が加わっていたからで、彼女が可憐で魅力溢れる令嬢だったことから、簡単に言うなら男子生徒らは王子も含めて彼女にメロメロだったということである。


 メロメロ軍団に爵位は関係なかったのか、第三王子に公爵家子息に侯爵家子息、男爵家の子息もいれば騎士の子息もおり、その中に叔母の婚約者もいた。


 翌年には卒業する子息らの多くが婚姻を控えており、婚姻するからには当然ながら婚約者がおり、男子生徒と婚約者令嬢と子爵令嬢が三つ巴の様相となって、学園ばかりでなく社交界、引いては王家まで巻き込む騒ぎとなった。


 結論から言うなら、可憐なる子爵令嬢を射止めたのは第三王子だった。どれほど可憐で殿方をメロメロにする実績を積んでいようとも、令嬢の身体は一つしかないから、当たり前だが一度に一人の男性にしか嫁げない。


 公爵令嬢との婚約は王家に非がある破談となって、王子は王籍を抜けて子爵家へ婿入りした。

 王子は潔かった。

 どこかの小説や舞台劇にあるような、公爵令嬢に対して、子爵令嬢をイジメたとか冷遇したとか因縁をつけたり、公衆の面前で婚約破棄をしたりなどという愚行は起こさなかった。


 国王に全てを打ち明け、宰相に相談し、婚約者と公爵家に平身低頭詫びを入れ、相応の賠償金を払い、残った僅かな個人資産を携えて子爵家に入った。


 残されたのは、その他諸々の子息たちだった。その中には、叔母の婚約者も含まれた。


 ビアトリスは今も憶えている。


 叔母は他の令嬢たちのように、子爵令嬢にメロメロな婚約者を叱責することはなかった。父がそんな妹を案じて、お前はそれでよいのかと言っているのを幾度も耳にした。


「仕方ありませんわ。アーノルド様のお心を掴んでいられなかった私が悪いのです」


その度に、叔母は毎回そう答えた。


 叔母は幸せそうだった。アーノルドとの婚約が彼有責で破談になった時に、鮮やかな笑みを浮かべた。


 ビアトリスには二人の姉と弟が一人いるのだが、叔母とはビアトリスが一番気が合って、彼女の部屋をたずねるのは日常だった。


 ビアトリスと二人きりの叔母の自室で、「やったわ、ビアトリス」そう言って叔母はビアトリスを抱きしめた。


 あの小箱に何ごとかを吹き込むように囁いた叔母はきっと、間違いなくアーノルドとの破談の為に呪詛を込めたのだと、幼いビアトリスが思い込んだとしても仕方ないことだったろう。


 叔母はその後、何ごともなく嫁いだ。

 夫になったのは、あのメロメロ軍団を静観していた、他国から来た留学生だった。

 隣国から留学していた彼もまた伯爵家の嫡男で、叔母とは同じ教室で学んでいた。


 その彼と、叔母がいつどうやって心を繋いでいたのか、少女だったビアトリスは知らない。

 だが、叔母が誰かに恋心を抱いており、そのお相手が留学生その人だったことには、幼いビアトリスでも気がつくほど叔母は歓喜したのだった。


 アーノルドとの婚約が解かれて、間もなく叔母は留学生と婚約し、春には意気揚々と隣国へ嫁いでいった。


 嫁いでゆく前日に、叔母はビアトリスを呼び寄せた。侍女を下がらせて二人きりになってから、叔母はビアトリスの手を引いてソファに座らせ、ぴたりと身を寄せるように隣に座った。


「ビアトリス。貴女と離れるのは淋しいわ。貴女もどうか幸せになって頂戴。これを貴女に譲るわね」


 そう言って、叔母はあの小箱をビアトリスの小さな手に渡した。


 アーノルドとの破談を願った呪詛の詰まった象牙の小箱は、今、ビアトリスのもとにある。





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