#わが子
こふい
第1話
廊下に面したアパートの換気扇を通して、肉を炒める匂いがもれ漂ってくる。摺りガラスの向こうに淡い影が揺れる。
浩介はドアの前に立ち、呼び鈴を三回鳴らした。そのとたん、部屋の中から女の子の声がした。
「パパ」
その声と同時にドタドタという足音が近づいてきて、そしてカギの開く音がした。
「ただいま、結」
ドアを開けるとそこに待ち受けていた娘を抱きかかえ、浩介は部屋の中に入っていった。
「ちょっと、汚れるから服着替えてからにしてくれない」
景子は二人を追いながら言った。
結はそう言われると余計に強く抱きついて、鼻を父の肩に押し付けた。
浩介は笑いながら結を高く持ち上げ、それから畳の上にゆっくりと降ろした。
浩介は汚れた作業着を脱いで先に風呂に入り、三人で夕食を食べ、それからテレビを眺めた。
狭い部屋の中で身を寄せ合いながらこたつに入り、浩介は缶ビールを飲んだ。結は女の子の人形を大事そうに抱いている。結の母親が幼い頃に遊んでいた人形だった。結の母親がまだ幼かった頃、彼女の誕生日におばあちゃんが買ってきてくれたものだった。
結は人形の頭を撫で、それから「あかちゃん」とささやきながら母の膨らんだお腹を不器用に撫でた。妻はその手にそっと自分の手を重ねた。
「生まれてきたら、お人形貸してあげるね」
結は言い、景子は結の柔らかな髪の上に唇をあてた。
石油ストーブの上のやかんが小さく音を立てながら湯気を吹いている。浩介は立ち上がり、冷蔵庫からビールをもう一本持って戻ってきた。
「友だちの愛子の彼氏の写真よ」
景子は携帯電話のインスタグラムの画面を浩介に向けた。
「へえ。なかなかかっこいいやつだね。何してる人なんだろう」
「なんか工場で働いてる人みたいよ。なんの工場かはわかんないけど」彼女は言った。「でね、今度結婚するんだって」
「愛子さんって、一度うちに遊びに来てくれたことあったよな」
「うん、私らが結婚するときにお祝いを持ってきてくれたかな、たしか」
「じゃあ、俺らもまたお祝いをしてやらないとな」
浩介はそう言ってビールを飲んだ。
景子は自分たちのインスタグラムを開き、結と一緒に眺めはじめた。景子は自分たち家族の今の写真から次々と過去に遡ってめくり、結も時々何かを喋りながら自分たちが写っている写真を見つめた。
インスタグラムは彼らの楽しみのひとつだった。彼らは自分たちの写真を投稿し、友人たちからのコメントを読むのが好きだったし、友人たちの写真を見るのも好きだった。
浩介は二人の笑い声を聞きながらビールを飲み、テレビの画面を何とはなしに眺めた。テレビではくだらない番組が、まるで時間を埋めるためだけのように流れていた。
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