1票とベクトル

ほしわた

1票とベクトル

桐原美咲は、窓際の自席に座り、まだ始まらない朝のホームルームを待っていた。

視線を上げれば、教室はにぎやかだ。けれど、そのざわめきの輪に自分は含まれていない。

まるで透明な壁で隔てられているみたいに。

きっかけは、数か月前の放課後だった。

クラスでいちばん人気のある男子に、みんなの前で告白されたのだ。

突然のことで頭が真っ白になり、気づいたときには、きつすぎる言葉で断っていた。

「やめてよ。クラスのみんなの前で、そんな冗談みたいな告白。

 本気なら余計に無理。ありえないから」

その瞬間、空気が凍りついた。

彼を傷つけたというより、教室全体を敵に回したような感覚。

以来、視線は冷たく、声をかけられることもない。

昨日、机に無造作に置かれていた紙切れを見た。

――クラス女子人気ランキング。

くだらない悪ふざけ。ゼロの名前も並ぶ中で、自分には「1」がついていた。

笑える数字のはずなのに、不思議と胸に残っている。

美咲はノートを開き、現実から逃げるように予習に目を落とす。

今日の題材はベクトルの合成。

あちこちに矢印が伸び、互いに打ち消し合っている図。

だが――ひとつでも向きがあれば、その方向に進む。

数式の上では、それだけで答えが決まる。

その理屈に指を止めて、美咲は小さく息をのむ。

そうだ。私には――あのランキングで「1票」を入れてくれた人がいる。

たったそれだけの事実が、確かに残っている。

胸の奥で、かすかな温もりが広がった。

周囲のざわめきは相変わらず遠いままだが、完全に孤独なわけじゃない。

一本の矢印が、確かに自分の背を押している。

ガラリ、と教室の扉が開く。

浅倉陽斗が入ってきた。

数か月前からずっと、彼だけは変わらない。

みんなが視線をそらす中、いつもの調子で「おはよう」と声をかけてくる。

胸の重石が少しだけ軽くなる。

美咲は顔を上げ、自然に唇が動いた。

「おはよう、浅倉くん」

気づけば、頬に柔らかな笑みが咲いていた。

まるで、ノートの中のベクトルが示した先に導かれるように。

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1票とベクトル ほしわた @hoshiwata_novel

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