アイはアイより出でて

@akatsuji

第1話

 青。七色の一つ。または三原色の一つ。晴れた空のような色。

 広辞苑で青を調べると出てくる説明文だ。

 更に少し古典を調べると、古くは青は灰色がかった白色のことを指していたらしい。

 晴れわたる青と灰色に燻る青。僕の心は、今どっちなんだろう。


 彼女と出会ったのは、幼稚園に入った頃。隣の家に家族で引っ越してきた。

 彼女の家族は皆金色の髪に青い目をしていた。外国の人だった。

「はじめまして」

 彼女のお父さんはとても流暢な日本語で挨拶をしてきた。当時の僕よりも、日本語が上手かった。

「ノルウェーから引っ越して来ました」

 ノルウェーがどんな国かは今でもよく分からない。分かるのは北欧の国でとても寒いということだけ。

 彼女のお父さんは大学の先生で、日本で教鞭を執るために家族で引っ越して来たという。日本語は向こうの日本の友人に教わったそうだ。

「コンニチハ」

 父さんの後ろから様子を怖怖と見ていた僕に、彼女が幾分か辿々しい日本語で挨拶をしてきた。僕は、何故か少し安心した。

「こんにちは……」

 今思うと、なんて情けない返事だっただろうか。初めて見る外国人の大人に怯え、縮こまっていた僕。たぶんそれは彼女も同じで、初めてくる日本、初めて会う日本人に戸惑っていたのだろう。

 そんな僕の情けない返事を、彼女は笑顔で受け取ってくれた。

 青空のような、晴れやかな笑顔で。


 それはからは、僕と彼女はいつも一緒にいた。

 父親同士は趣味が合ったのか、週末はいつも遊びに行く計画を立てていた。母親同士も、気が合ったのかお互いに自国の料理を教えたり、手芸をしたりと意気投合していた。

 親同士は直ぐに打ち解けたけど、僕らはぎこちなく、少しずつ距離を詰めていった。お互いに引っ込み思案で人見知りだったことも少なからず原因だった。それでも、ずっと一緒にいる内によく遊ぶようになった。

 週末にはよく父さんたちが釣りやアスレチックに連れて行ってくれた。そうじゃない日も、かけっこ、かくれんぼ、けんけんぱ。あやとりに折り紙に手遊び。二人で遊べる遊びは一通りやり尽くしたと思う。

 そう――二人で。


 外国人というのはやはり特異に見られるようだ。日本語が話せる話せないではなく、まず見た目が槍玉に上げられる。彼女も例外ではなかった。

「やーいっ! きんぱつふりょー!」

「へんなめー!」

 金の髪も青い瞳も、幼稚園には彼女しかいなかった。赤い金魚の群れの中に黒い金魚がいると目立つように。彼女の髪と瞳はとても目立った。

 皆と違う。たったそれだけで、残酷な子供の世界ではいじめる理由になった。

 ろくに意味も知らない聞きかじっただけの暴言を吐き、そこらにあった適当な石を投げつける。彼らにとって、それはただの遊びだった。もしくは邪魔者を排除する正義の英雄だ。相手に思いやりもない一方的な遊び。思考の欠片もない感情だけの正義。それが、子供の中の遊び、子供の中の正義だ。

「…………」

 彼女は黙って耐えた。謂れなき暴論にも、容赦なき礫にも、彼女はただひたすら耐えた。台風が過ぎ去るのを待つかのように。

「…………」

 僕はそんな彼女に、何もできなかった。いじめっ子に立ち向かう勇気もなく、先生に相談するという知恵もなかった。

 その後、いつも傷だらけの僕らを不審に思った両親が幼稚園に訴えいじめが発覚した。最初はのらりくらりと言い訳していたいじめっ子の親たちも、父さんと彼女のお父さんの仕事を知った途端、手のひらを返したかのように平謝りをしてきた。いじめっ子たちも謝ってきたけど、それは親に怒られたからで、本当に自分たちのしたことを悪いとは思っていないだろう。子供の世界は、それくらい単純で残酷だから。

 それはから暫くはいじめはなくなったけど、子供は直ぐに成長する反面、中々に学ばない生き物だから、時々似たようないじめは起きた。

 小学校では、彼女の学力の高さやドラマの子役のような容姿に、無駄に肥えたプライドを刺激されたのかいじめが激しくなることもあった。それでも僕は、ただ自分の無力さを嘆くだけだった。


 彼女を取り巻く環境が変わったのは中学校に進学するような時期になってからだ。女の子は男の子よりも早く成長する、とはよく言ったもので、彼女は小学校高学年の頃から一気に大人びていった。

 背も高くなり、顔立ちは端正に。おっさんくさい言い方だけど、出るとこは出て引っ込むとこは引っ込む、スタイル抜群な体型に。何より、一層輝きを増した金色の髪と深い青色の瞳に、誰もが魅了された。

 道を通れば誰もが振り返る美人に成長した彼女に、それまで彼女を「ガイジン」などと誂っていたいじめっ子たちは、男女問わず彼女に見惚れていった。それはどこか、あの日父さんたちに平謝りしていた大人たちに似ていた。

 中学校に上がってからは、彼女はそれはそれは注目の的だった。

 連日のように学年、性別問わず告白され、持ち前の学力の高さから先生たちからも一目置かれていた。瞬く間に学校のマドンナと持て囃された。

 しかし、それは同時に妬み僻みの対象にもなるわけで、男からは厭らしい目で見られ、女からは被害妄想からくる陰険な攻撃の的となった。

 けれど、彼女の環境が変わったように、彼女もまた変わっていた。

 ただいじめに耐えて続けていただけの彼女の姿はそこにはなく、悪魔の手から抗い反撃する戦乙女のような彼女がいた。

 無法には論を、拳には弁を。彼女は今までの鬱憤を晴らすかのように、害なす者全てを情け容赦なく熾烈に責め立てた。時にはやり過ぎではいかとも思ったけど、最後には相手が非を認め、それ以降彼女を脅かすことはなくなった。

 そんな彼女に誰もが憧れ、友だちも見違えるほど増えていった。二人だけで遊んでいた彼女は、もういなかった。

 一方僕はというと、誇れるほど何も成長しなかった。

 引っ込み思案は多少は解消したものの、背丈は平均、顔は童顔、学力は中の上、友だちはそこそこ。至って普通の男子生徒。それが自他ともに認める僕の印象だ。

 影は薄くはないが、悪目立ちもしない。どこにでもいるが、印象には残らない。勿論、告白なんてしたこともされたこともない。ただのクラスメイトA。それが僕だ。こんな僕が彼女と幼馴染みだんて、最初は誰も信じてなかった。

 それでも、不思議と僕と彼女の関係は変わらなかった。家は隣同士で同じ学校だから登下校が一緒なのは置いとくとしても、ペアを作る時もグループを作る時も、彼女は誰よりも率先して僕を指名した。他の人が嫌な顔をしても、彼女は僕の側に立った。その度に僕は、嬉しさと恥ずかしさと情けなさと申し訳なさが入り混じった、複雑な感情を抱いた。


 そんな中学校時代を過ごして高校入学。ここでちょっとした事件が起きた。彼女の進路問題だ。

 当然学校は県内でも有数の有名私立や進学校、大学の付属校を推薦した。スポーツも万能で女子サッカー部のエースストライカーだった彼女には、名門校からのスカウトも来ていた。傍から見たら選り取り見取りのエリートコース。僕らの関係もここまでかな、と少し覚悟していた。

 なのにあろうことか、彼女はそのどれも選ばなかった。そして彼女は選んだのは家から電車で二十分くらいの公立高校。毎年数人有名大学現役合格者を輩出したり、部活でもインターハイ出場などを成し得ているが、世間からの評価は中堅。とてもじゃないが彼女には役不足だ。彼女の両親も当然これには反対した。大学教授でもある彼女のお父さんは、贔屓目無しに彼女の能力を評価していたし、親心からしても高いレベルの学校に通わせたいのは当たり前だ。

 それでも、どう説得したのかは分からないけど、最後には彼女は自分の道を貫いた。結果、僕の隣には未だに彼女がいる。その学校は、僕が受験する予定の学校だったから。

 入学式は大いに盛り上がった。彼女は学校開設以来の好成績で合格し、新入生代表のスピーチも立派にこなした。

 校長先生も来賓の市議会議員の人も手放しで彼女を褒め讃えた。僕はそんな彼女を、その他大勢の生徒たちと一緒にパイプ椅子に座って見上げていた。雲一つない青空のように晴れやかな彼女に、僕は眩しさを覚えた。

 高校では入試の成績でクラスが変わるらしく、彼女は勿論最上位のAクラス。僕はCクラスだった。僕にしたら結構頑張った方だ。クラスが分かれても、彼女は昼休みには僕のクラスに来た。一人の時もあったし、友だちと一緒の時もあった。その度にクラス中がざわめくのは恥ずかしかったけど、3ヶ月もすると皆慣れたのか、何故か風物詩のようになっていた。

「おい。また『彼女』来てるぞ」

 なんて誂われることも多くなった。その度に僕は、

「ただの幼馴染みだよ」

 と否定するけど、その度に彼女が不機嫌になるのは慣れなかった。そんな時は彼女の好物の玉子焼きをあげて機嫌をとることにしている。

「ついてきて」

「どこに?」

「ついてくれば分かるから」

 ある日彼女に言われて、言われるがままについて行った。――まさか生徒会室だとは思わなかった。

「会長。お世話になります」

 生徒会長と彼女がにこやかに握手を交わす。いずれは生徒会入るだろうと噂されていたが、こんなに早く実現するとは思わなかった。いつの間にコンタクトを取ったのだろうか。

「こちらこそ。……彼が君の言ってた推薦したい人?」

「はい」

 推薦? 何のことだろう?

「ふ〜ん……」

 生徒会長は僕を品定めするように上から下まで見やると、

「ま、気後れせずに頑張ってね」

「あ、はい」

 肩をポンと叩かれた。いったい何だというんだ。

「じゃあ、君は副会長補佐。彼は庶務補佐ということで」

「はい」

「はい?」

 いつの間にか、僕も生徒会入りしていた。

「ごめんね〜。いつも力仕事ばっかりさせちゃって。私力ないからさ〜」

「あ、いえ。これくらいどうってことないですよ」

「ありがとう〜」

 放課後。生徒会庶務である先輩と一緒に資料を運ぶ。おっとりしていて優しそうな女生徒だ。

 庶務の仕事は事務作業だけど、実質は体のいい雑用だ。資料作りにまとめ、議事録作成や備品の補充。地味だけど、必要な仕事だ。僕にはそれが性に合っていた。

「先輩は何で生徒会に?」

「私はちょっとでも人の役に立てることがしたいなぁって。生徒会って色んな行事を取り仕切ったりするでしょ? そんな人たちのお手伝いをしたいなって思ったから」

「へぇ。それで庶務に。凄いですね」

「全然。私も最初はよくミスして怒られたし。もう辞めちゃおうかなって思ったこともあるよ」

「え!? そうなんですか?」

「うん。でも、今の生徒会長が、『君の力が必要になる』って言ってくれたから。それでもう少し頑張ってみようって」

「生徒会長が……」

 生徒会は二年生が主体の組織だ。三年生を受験や就活に集中させるためらしい。

「けど、彼女凄いよねえ」

「何がです?」

「だって一年生で副会長補佐だよ。実質生徒会のTOP5だよ。やっぱり学年首席は違うなぁ」

「生徒会長もそうじゃないんですか?」

「ううん。会長は最初は会計補佐だったよ。それに前の副会長補佐は二年生だったし」

 つまり、先輩の言う通り、一年生で副会長補佐抜擢は異例中の異例だったわけだ。皆が注目するのもよく分かる。

「ま、君も割と凄いんだけどね」

「僕が?」

「そうだよ〜。生徒会に入った一年生って、普通最初は役職なんてないんだよ」

「え? そうなんですか?」

「うん。最初は誰かの下について仕事を覚えて、二学期始めの会議で補佐になれるんだ」

「へ〜。……とか何とか言って、実は単に人手不足だったからってオチでしょう?」

「う〜ん。否定はできないかなぁ」

 やっぱり。でないと辻褄が合わない。彼女は兎も角、僕みたいにか何の取り柄もない人間がいきなり生徒会に入れたり、あまつさけ肩書をもらえるわけがない。たぶん、前任者が辞めたかなにかで欠員ができたんだろう。僕は丁度いい穴埋めだったわけだ。

「ま、私としては助かってるからありがたいけどね」

 先輩がちょいとウィンクをしてくる。その姿に、少しドキッとしてしまった。

「ねぇ」

 資料を生徒会室に運び終わると、後ろから声をかけられた。彼女だ。

「そっちが終わったらこっちも手伝って欲しいんだけど?」

 彼女にしては珍しく少し、いや目に見えて不機嫌な様子。僕は何事かと思ったが、横では先輩がくすくすと笑ってる。いったい何なのか。

「ごめんなさい。すっかり独り占めしちゃってたわね」

「独り占め?」

 何のことかと尋ねる僕に、先輩はただ笑うばかり。

「こっちの話し。――そうね。もうこちらの仕事もないから、アナタは彼女を手伝ってあげて。私ももう帰るから」

「あ、はい。お疲れ様でした」

 先輩は鞄を持つとスタスタとドアに向かう。

「――――から」

「っ!?」

 彼女とのすれ違いざまに先輩が何か彼女に囁いていたようだけど、気のせいだろう。

「生徒会には慣れた?」

「あ、うん。なんとか」

 先輩たちや彼女の手助けもあって仕事にも慣れた、気がする。

「そう。良かったわ」

 彼女はホッとしたように呟いた。やっぱり心配をかけていたようだ。

「ごめんね」

「? なにが?」

「なんか心配かけたみたいで。僕って足手まといになるから」

 我ながらなんと情のないことか。事実だから仕方がないけど。

「…………なんで?」

「え?」

「なんで、そんなことを言うの?」

 彼女は怒っているような、泣いているような、そんな顔で僕を見つめてきた。

「だって僕は」

「私はそんなこと、一度だって思ってない!」

 驚いた。彼女の大声を聞いたのなんて、いつぶりだろう。

「でも、僕は何もできてないよ。別に頭がいいわけでも体力があるわけでもないし。要領だって」

「そんなの関係ない!」

 さっきよりも大きな叫び。その悲痛そうに聞こえる叫びに、何故か胸が張り裂けそうになる。

「そんなの関係ないよ……」

 蚊の鳴くような声で俯く彼女に、僕は何も言えなかった。


 翌日。珍しく彼女が学校を休んだ。朝彼女の家に行くと、彼女のお母さんが「今日は調子が悪いみたいで」と申し訳なさそうに言っていた。心配だったけど、僕が居てもどうにもならないので、そのまま「お大事に」と言伝を頼んで登校した。

「やあ」

 昼休み。突然後ろから声をかけられた。一瞬人違いかと思ったけど、一応後ろを振り返ってみると、生徒会長が手を上げてこちらに歩いてきた。横には庶務の先輩もいた。

「あ、会長。お疲れ様です」

「お疲れ様。というか、まだ今日は仕事してないけどね」

 会長はハハッと軽快に笑う。容姿端麗、明朗快活、文武両道。絵に描いたような生徒会長だ。僕にはないものを全部持っている。正直、羨ましいし憧れる。

「ちょっといいかな?」

 会長が僕の肩に手を回してくる。気さくなんだろうけど、この少し馴れ馴れしいような感じがちょっと苦手でもある。悪い気はしないんだけど。

「大丈夫ですよ」

「良かった。じゃ、ちょっと生徒会室まで」

 会長に肩を組まれたまま、僕には珍しく奇異の視線と注目を浴びながら廊下を歩いた。

「このプリントを彼女に届けて欲しいんだ」

 会長が渡してきたのは、今度の文化祭の資料だった。

「今日ですか?」

「うん。君と彼女はお隣さん同士みたいだし、帰る時にでも渡しておいて」

「それは大丈夫ですけど……」

 病欠の彼女に仕事を押し付けるようで気が引ける。

「そんな顔しないでくれよ。僕だって本当は嫌なんだけど、教頭が明日までに進捗を報告しろって言うからさ」

 会長はヤレヤレと肩を竦めた。渡された資料は彼女が担当している部分だった。あの教頭は風邪だろうが葬式だろうが期日はきっちり守らせるという噂なので、会長の話も納得できる。

「分かりました。僕でよければ」

「いや、君以外に適任はいないだろう?」

「それもそうですね」

 会長が少し呆れたように言う。そりゃお隣なんだから当たり前か。

「それじゃ、頼んだよ」

「はい。では失礼します」

 会長と先輩に一礼して生徒会室を出た。


「……良かったんですか?」

「何が?」

「本当の事を言わないで」

「ハハッ。流石に僕もそんな野暮ったいことはしないよ」

「そうですか」

「君も疑り深いなぁ」

「誰かさんのせいですね」

「その誰かってのは余程酷いヤツなんだろうなぁ」

「ええ。とっても」


 放課後。どうせ行くならと途中のコンビニでスポーツドリンクやプリンを買って、会長の言いつけ通り彼女に資料を渡すため彼女の家のドアベルを鳴らす。

『はーい。今開けまーす』

 ドアの向こうから返事をしながら出てきたのは、彼女のお母さんだ。

「どちらさま――あら?」

 僕の顔を見るなり、彼女のお母さんはパッと笑顔になった。

「まぁ、どうしたの? お見舞いに来てくれた?」

「はい。あと、生徒会に頼まれて彼女にプリントを渡したくて」

「そう。丁度良かったわ」

「?」

「ちょっと急に用事ができちゃって、これから出なきゃいけないの。悪いけど、少しあの子を看ていてもらえる?」

「あ、はい。分かりました」

「助かるわ〜。これであの子もだいぶ良くなるわ」 

 彼女のお母さんはそう言い残し、鞄を引っさげると急いで車に乗り込んで出かけていった。

「だいぶ『良くなる』?」

 まるでこれから快復するかのような台詞だったけど、多分聞き間違いだろう。

 玄関のドアを閉め、2階にある彼女の部屋に行き、ドアをノック。

『……誰?』

 中からくぐもっだ声が聞こえる。マスクをしているのだろうか。少なくとも、喉は悪いようだ。

「僕だよ。会長に言われてプリントを持ってきたよ」

『…………そこに置いといて』

「分かった。じゃぁ、リビングに居るから何かあったら呼んで」

『……待って、どういう事?』

「下でお母さんとすれ違ってさ。留守番と君の看病を頼まれたんだ」

 そう言うと、中からガタガタっと慌てて何かを動かす様な音がする。

「……入って」

 部屋のドアが開かれ、彼女が顔を出した。

 マスクはしていなかった。顔色もそこまで悪くないような……

「あ、でも……」

「いいから。入って」

 彼女は僕の手を引くと、半ば強引に部屋に引き込んだ。

「お、お邪魔します」

 おずおずと部屋に入る。彼女の部屋に入ったのなんて、実に何年ぶりだろう。中学生の時には「流石に女の子部屋には……」って感じだったはず。

「適当に座って」

 そう言って彼女は僕にクッションを渡すと、自分はベッドに座った。

 彼女の部屋には家具は勉強机とベッドに本棚とクローゼット。卓袱台みたいな足の短いテーブルとクッションがいくつか。それにベッドに並べられたぬいぐるみ。

 女の子にしては少しファンシーさに欠ける、シンプルな部屋。だけと、漫画やゲームだらけの僕の部屋とは全然違う、女の子の部屋。まぁ、彼女の部屋しかしらないんだけど。

「それで、プリントって?」

「あ、うん。これ」

 鞄から資料のプリントを出して彼女に渡す。

「教頭先生が明日までにまとめて報告してくれってさ」

「そう」

 彼女は生返事で答えながらプリントに目を通す。口元に指を添えて左右に目を走らせるその顔は、体調を崩しているとは思えない程に凛々しかった。

「……分かった。後でやっておくわ」

「うん」

「それで、そっちのは?」

 彼女の視線がプリントから僕の横、コンビニのレジ袋に移る。

「ああ、これ? 体調悪いって聞いたから、風邪でも引いたかなって思って買ってきたんだ」

 テーブルの上に買ってきた物を並べる。

「そう。ありがとう」

 彼女がほんの少し嬉しそうに言う。その顔はやっぱり――

「ねぇ」

「なに?」

「どうして『仮病』なんかしたの?」

 彼女がドキリとしたような、驚いた顔をする。やっぱりそうだ。

「…………なんで、そう思ったの?」

「んー。まぁ、君が風邪なんて引かないだろうなぁってのもあるけど」

「なにそれ、酷いわね」

「やっぱり、その顔見たら体調が悪いなんて思えないよ」

 少なくとも、病気をしている顔じゃない。

「そんなので分かるの?」

「分かるよ」

 だって、

「何年君の顔を見たと思ってるの?」

 ちょっと戯けて言ってみる。実際、何年も見ている顔だ。体調の良し悪しくらいなら見ただけで分かる。

「…………そう」

 彼女は最初気恥ずかしそうな顔をしたけど、すぐにそれは引っ込んで、俯いてしまった。何か気に障るような事を言ったかな?

「どうしたの?」

「……何でもない」

「何でもないわけないじゃん」

「何でもないったら!」

 語気を強めて否定される。その不意の悲痛そうな大声と、切羽詰まったような顔は、今まで見たことも聞いたこともない。

「……ごめん」

 彼女も僕ほ驚いた顔を見たのか、バツの悪そうに謝った。

「やっぱり、今日の君、変だよ」

「…………」

 僕の言葉に彼女は反論することなく、目線を逸らす。

「昨日も何か不機嫌だったし……僕、君に何かした?」

「…………」

 気に障るような事をしたのら謝りたかったのだけど、彼女は沈黙を貫いたまま。

「……」

「……」

 そのまま気まずい雰囲気が漂う。彼女と一緒に居て、こんな事は初めてだ。

「……じゃぁ、僕そろそろ帰るね」

 僕がその雰囲気に耐え切れずに帰ろうとすると、

「待って!」

 彼女が僕を呼び止めた。

「待って。もう少し、ここに居て」

「え……? う、うん……」

 寂しそうな彼女を見て、僕も嫌だと言えなかった。相変わらずの優柔不断さだ。

「……」

「……」

 再びの沈黙。正直居た堪れないが、もう彼女を置いて帰る気にもなれなかった。

「……ねぇ」

「うん?」

 彼女が口を開く。

「……君は、私の事をどう思ってるの?」

 突然の突拍子もない問に、僕は答えに貧した。

「えっと……凄いと思ってるよ」

 結局口から出たのは、当たり障りのない台詞。テンプレートのような褒め言葉。

「昔は引っ込み思案だったのに、今じゃ友達もたくさんいて、勉強も運動もできて、生徒会にも入って、皆から憧れてて――僕とは」

「そんなことない」

 彼女が僕の台詞を遮る。

「私はそんなに凄くない。勉強も運動も頑張ったのも皆に褒められたいからじゃない。生徒会に入ったもの誰かのためじゃない。全部私のため。私のエゴだよ」

「……それでも、やっぱり凄いよ」

 自分本位の行動かもしれないけど、それが巡り巡って人のためになっているのだから、やっぱり凄い。

「凄くない。どれだけ人に褒められても嬉しくない。どれだけ人に頼られても意味がない。だって――」

 彼女は抱えた膝に顔を埋めたままボソボソと呟く。

 僕は『コレ』を知っている。コレは、彼女の癖だ。

「――だって、貴方じゃないから」

 隠し事を、後ろめたい事を打ち明ける時の。

「……ごめんなさい。忘れて」

 彼女はコテンと寝転ぶと、僕に背を向けるように寝返りをうつ。

 ああ。これは罰だ。彼女の気持ちから目を逸らしていた、僕への罰だ。

「ねぇ、そのまま聞いて」

「…………」

 彼女が胸の内をさらけ出したのだから、僕も同じ事をしなくては。

「僕は…………君に似合うような人間じゃないよ」

 どんなに、仄暗い気持ちだろうと。

「僕は君みたいに勉強も運度もできない。人からそこまで期待されない。平凡な人間だよ。君みたいな人に、そんな想いをして貰えるほどじゃない」

 そうだ。僕は――

「僕は、君のヒーローには」

「貴方は!」

 彼女が勢いよく顔を上げる。その顔は、泣き叫びそうなくらい歪んでいた。

「どうして貴方はそんなに私を美化するの? どうして貴方はそんなに自分を卑下するの?」

「だって僕は」

「貴方は私のヒーローだった! 今も! 昔も! 私のヒーローは貴方だけなの!」

 彼女のサファイアのようなブルーの瞳から大粒の涙が溢れる。

「……僕は……君を守れなかった……小学校で君がいじめられてる時ですら、何もできなかった」

 あの時から、僕にヒーローを名乗る資格はない。

「……本当にそう思ってるの?」

「え?」

 彼女の涙を湛えた大きな瞳がコチラを射抜く。

「だって僕、アイツらに文句ひとつ言えなかった。喧嘩ひとつできなかった」

「でも、貴方は私の盾になってくれた。泣いて蹲る私を、そっと抱いてくれた」

「それは」

 それしか出来なかったから。

 僕にはし返す腕力も、言い返す語彙力もなかった。だから、降り注ぐ火の粉から彼女を守る盾になるしかなかった。彼女が傷つかないように。

「……それがどれだけ嬉しかったか。貴方が側にいてくれたから、私もいじめっ子に立ち向かう勇気が持てた」

 いつの間にか近づいてきた彼女の両手が、僕の頬を包む。

「お願いだから、貴方が貴方を悪く言わないで」

 彼女の額と僕の額が重なる。額から彼女の熱が、温かみが伝わる。

「……僕は何でもない人間だよ?」

「何でもなくない。貴方の良さは私が知ってるよ」

「……また変な奴にいじめられるかもしれないよ」

「平気よ。あの頃の私じゃない。それに、また貴方が守ってくれるでしょ?」

「…………」

 参ったな。僕はとうの昔に諦めたというのに、どうやら彼女は諦めてはくれないようだ。

「自分の気持ちに、嘘をつかないで」

 本当に参った。全部分かっていたんだ。

「……なんで今まで黙ってたの?」

「パパに言われたの。自分の魅力は自分で気づくのが一番だって。でも、もう耐えられなかったの」

「そっか」

 彼女なりの気遣いだったんだ。

 随分と、待たせてしまったなぁ。

「僕で良いの?」

「貴方が良いの」

 心のモヤモヤが晴れた気がした。

「僕は――君の事が好きです」

「私も――貴方が大好きです」

 彼女の青い瞳み僕が映る。何の変哲もない日本人の顔が。

 その平凡な日本人の心は、彼女の瞳のように――青く晴れ渡っていた。



「ねぇ。気がついてる?」

 不意に彼女が聞いてきた。

「何に?」

「あ、やっぱり気づいてないんだ」

「?」

 彼女がいたずらっ子のように笑う。

「貴方、自分の瞳が黒だと思ってるでしょ?」

「え? 違うの?」

 毎朝鏡で見てるけど、黒かったはず。

「貴方の瞳ね。黒じゃなくて、黒に近い藍色なの」

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