第3話(他視点) 王女セリーヌの視線
王都の朝は、いつも静かだ。だが今日は違った。街の噂が、城の回廊を伝ってわたしの元へと早足で届く。
「侯爵ルシアンが、また市場をかき乱したらしいです」
「はい。商人ギルドが抗議して王城にも報告があがっています」
侍女の顔色は青い。私、セリーヌは、王家の一人娘。市井の暮らしを学ぼうと市に下りたとき、侯爵の姿を見て胸が冷えた。あの男が来ると、空気ごと凍る――人を圧する冷たさ。噂は噂でしかないのかもしれない。しかし、噂の積み重ねが人々の生活を蝕んでいるのなら、放ってはおけない。
「勇者アレンは、まだ調査を続けているのね?」
「はい。陛下は慎重なご様子です。勇者様は民の声を大切にされますから」
私の胸に、くすぶる思いがある。幼い頃から聞かされてきたのは「正義は強者を守る」という言葉ではない。民の声を聞き、弱き者を支えることこそが王家の務めだ――と。だから私は侯爵ルシアンを「悪」の化身として見ている。彼の笑みひとつ、指先の動きひとつが不安の種に見える。
その日、私は勇者と顔を合わせた。剣の生み出す緊張ではなく、その瞳の真っ直ぐさが私の心を安堵させる。
「姫、侯爵については私が直接話をつけます。民のために」
アレンはいつも穏やかだが、言葉の端に強さがある。彼は民を守ることを何より重んじる。侯爵のやり方がどれほど巧妙でも、真実は必ず暴かれる。私は、そう信じたい。
だが私の近くで聴いた話は、違和感を生む。侯爵が市場で高圧的に振る舞ったという。貴族の圧力。重税。――どれも可能性として十分に恐ろしい。あの笑みは、優しさの欠片も見せない。人びとの恐怖を喜ぶかのようだ。
翌朝、私達は市場へ向かった。民の顔を確かめるためだ。屋台を回り、目に映る顔をひとつずつ見ていく。だが見たのは困窮の表情と、警戒の影。小さな子が店先で泣き、老人が荷車を押す。誰も侯爵の裏の計らいなど口にしない。人は噂を疑うより先に、その場の明日の食を気にしている。
「姫、あの路地先で……」
侍女が指差す先に、黒マントの一団。護衛を伴った侯爵の一行だ。群衆の間に寒さが流れ、店主の声が消える。
私は息を詰める。彼が通るだけで、どうしてこうも空気が潰されるのか。彼の視線は人を試すナイフのよう──触れるだけで裂ける。あの目が、私の幼い頃に見た「断罪の視線」と重なった。正義は断罪を要求する。
アレンが私の隣でそっと剣を握った。彼もまた、侯爵の気配を感じ取っている。
「姫、ここはご安心ください。私が直に侯爵と話して、誤解であれば解きます。もし悪事なら、私は民のために行動します」
私は小さく頷いた。彼の言葉に不安が少しほどける。しかし同時に、胸の内の火は消えない。侯爵はただの噂で片づけてよい男ではない。私は王の娘として、民のために行動する義務がある。
侯爵一行が去った後、群衆の一人が私に声をかけた。若い母親だ。目に濁りのない祈りが宿っている。
「姫様、どうか。あの侯爵のせいで、あたしたちの生活が……」
言葉はそこで詰まった。彼女の娘が私の袖にしがみつく。
私の胸に怒りが湧いた。怒りは冷静な判断の敵だと教わってきたが、ここでは怒りが正しい羅針盤だった。正義という剣があるなら、私は振るう。だがどう振るうか。剣は刃となれば暴力だ。私は言葉を選んだ。
「教えて。何が一番困っているの?」
母親は震えながら答える。塩が手に入らない、税が重い、商人は価格を上げてしまった……要請は目の前の小さな現実だ。私は筆を取り、書き留める。データになる前に、顔を忘れない。私は民の顔を見たい。数字は後で役に立っても、人の声は今の私を動かす。
その夜、私は父王の書斎でアレンと話した。アレンは一橋の剣を背に、真剣に語る。勇者は理想を語るとき、子供みたいに純粋に見える。だが戦いを選ぶときの冷静さも持っている。私は彼の横顔を見て、信じていいのだと自分に言い聞かせる。
「侯爵の行為は、民を脅かす。だが、動機や裏のことは分からない」
「姫、情報は精査する。王城の機構を通して調べつつ、私も直接接触する。だが無茶はしない」
私はその言葉に救われつつも、心の奥に燻る疑念を抑えられない。侯爵が本当に民を救うために動いているなら、なぜ彼はそれを隠すのか。なぜ人は恐れ、噂は増えるのか。答えは一つではない。私は王女として、民の声に耳を傾ける。
翌朝、私の元に一通の密書が届いた。送り主は名乗っていない。だが中身は簡潔だ。――「侯爵の領内で、救援物資が配られている。見れば分かる」。送り主は誰だ。匿名の善意か、それとも巧妙な罠か。私の胸は揺れた。
私は決めた。直接、侯爵に会う。王の権威を盾に、問いただすのだ。真実が何であれ、民の目の前にさらす責任がある。アレンは私に向かってうなずいた。彼は言葉少なに「姫の決意なら、私は隣にいる」とだけ言った。
夜の侯爵邸への訪問は、表向きには「王家からの面会」の口実であった。しかし心の準備はできている。民の声、母の祈り、そしてアレンの約束――全てが私の後ろ盾だ。
侯爵は迎えの間で私を待っていた。玉座の陰で、彼は例の冷えた笑みを浮かべていた。その笑みは、人の情を計算の対象にする者のものだ。私は胸に灯る正義の炎を握りしめる。
「侯爵ルシアン、私は民の声を聞いた。あなたはこれをどう説明するのか」
私は言葉を選び、王家の名にかけて問いただしたつもりだ。だが侯爵の返答はいつもと変わらない。
「王女セリーヌ。あなたの正義は美しいが、世の中は美しさだけでは動かぬ。だが興味深い。民がどう困るかは、私の関心事だ――まさに演出するために」
その「演出」という言葉に、私の胸が収縮する。嘘、あるいは本当。どちらだ。彼の瞳の奥にあるものを私は掴めない。ただ一つ言えるのは、侯爵は人の重みを軽んじるように見える。私はその目に、絶対の不信を刻んだ。
夜が明け、私は城へと戻った。報告書をまとめるとき、私の手は震えていた。正義か、策略か。どちらが人を守るのか。答えはまだ出ない。だが私の足は動く。王女として、私は民を守るために、勇者と共に動く。
侯爵ルシアンは、まだ笑っている。彼の笑みは、人が知らぬところで何をしているかもしれない。だが私には見えない。だからこそ私は、見張る。正義は、見張ることから始まるのだ。
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