夫の秘密の手帳
満月 花
第1話
コトリ、と湯呑みを置けば
夫は当たり前のように手を伸ばしてお茶を啜る。
ありがとう、なんて言われたことはない。
かといって、お茶を用意しなければずっと渇いた喉のまま
リビングのソファで新聞を読み耽るだろう。
妻はキッチンのテーブルでコーヒーを飲む。
コーヒー皿の横に添えたクッキーを口に放り込む。
ごわつくクッキーを噛み砕きながら心の中でため息をつく。
すでに会話も少なくお互い空気のように存在
夫も、もうすぐ定年
ずっとこのまま?
これといった趣味もない、仕事人間な夫。
退職したらいつも家に居続ける夫
三度の食事を用意して、身の回りの世話をして……。
今までのように夫を送り出した後の
気ままな自分の時間もなくなるだろう。
子どもの手も離れた気心知れたママ友と
ファミレスでのランチでおしゃべりを楽しんで、
たまにはフリータイムのカラオケで発散したり
市の主催のカルチャークラブならお得なので
ワイワイ楽しんでる。
今はそれらが心の潤いであり息抜きだった。
でも、夫が家にいるとなれば自由にできなくなるかも知れない。
夫は口数が少なく妻のする事に文句を言う人ではないが
本心では心よく思ってないだろう。
息が詰まる
「離婚」という言葉が、ふと頭に浮かんだ。
いったん浮かんだその二文字は
思いつけばその言葉が離れない。
ザワリザワリと染み込んでいく。
気がつくと、その言葉に頭がいっぱいになる。
テレビで「熟年離婚」という言葉が出るたびに、ビクリと反応する。
前のめりで食い入るように見てしまう。
本屋に行けばそのタイトルがあると思わず手に取る
ネットで関連ワードを調べる。
ほぼ専業主婦だった、自分でもやっていける?
子どもは独立した。
母親としての責任も果たした
妻としても支えて来た。
もうこれからの人生自分のために使ってもいいのでは?
そんな思いを抱えながら、日常を過ごす。
万が一離婚した時のことを踏まえて、パートを探したり
なんとなく断捨離をし始めたり。
ある日、机の中を整理しようと思った時
見つけてしまった。
引き出しの奥に、見慣れない手帳が。
小さく年号と夫の名前
どうしてこんな隠すような感じで夫の手帳があるの?
心臓がドクリとなった。
ソワソワと辺りを見回して息を呑んで
黒い表紙の手帳をめくる。
指が止まった。
几帳面な字で書かれたそこには
妻への日頃の感謝と定年後に妻とやりたいことがリストアップされていた。
それは妻が会話の中で何気なく言った願望だった。
本気でやりたい訳ではない、テレビかなにかを見た時に言った
他愛のない感想のようなもの。
自然を探索したい。
御朱印を貰いたい。
観光地に行きたい。
体験型の講習会に参加したい
行列の店に行きたい。
モーニングセットを食べたい。
など
いっぱい書いてある。
その一つ一つに目を通しながら
心の奥でやわらくて温かいものがじんわりと滲んでいく。
モーニングセット?
朝は納豆と味噌汁なのに
そんな小洒落たモーニングセットなんて食べれるのかしら?
白いプレートの上の食べ物に四苦八苦してる姿が想像できる。
思わず笑い声が出た。
そうだ、あの人は無口だけど優しい人だ
若い頃、可愛いおねだりをしても応えようとしてくれた。
いつのまにか、言わなくなったのか
言わなくてもわからないなんて最低だと
決めつけてしまっていた。
思いやりがない、って不満を抱いていた。
これからは言いたい事やりたい事は言っていこう。
そして二人で出来ることは、一緒に楽しんで
一人で行きたい時は、「いってきます!」だけ言って
あとは自分でなんとかしてもらえばいい。
夫の再教育だけじゃない
生きやすい未来のための自分自身も努力もしないと。
これからビシバシ行くわよ。
手帳を戻して、そっと引き出しを閉めた。
ーーまずはお揃いの夫婦湯呑みを買いに行こう。
夫の秘密の手帳 満月 花 @aoihanastory
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