第2話:あたし、何かやっちゃいましたか

 カラオケボックス──。

 相馬桜子そうまさくらこのささやかな胸は、湿った室内の空気に高鳴っていた。

 アルコールと甘ったるい芳香剤の匂いが混じり合い、思考をわずかに鈍らせている。

 壁に染み付いた喧騒の記憶が、分厚い防音材の向こうから滲み出してくるかのようだ。

 画面に映し出される光だけが、三人の若い顔をめまぐるしく照らしている。

 月村康太つきむらこうたが、少し感傷的なラブソングを歌い終えた。

 彼が時折、自分の方へ向ける視線の熱に、桜子の心臓は密やかな音を立てていた。

 マイクを置いた康太に、桜子は微笑みかける。甘い沈黙が、二人の間に落ちた。

 その沈黙を破ったのは、隅のソファに体を縮こませている百合川典子だった。

 彼女は、リモコンの画面から顔を上げ、大きなメガネの奥の瞳を不安げに揺らした。

「あ、あの、ごめんなさい……。なんか、あたしが歌う雰囲気じゃない……ですよね?」

 音楽の余韻に消えてしまいそうなほど、か細い声だった。

「あたし、空気の読めない曲を選んで、迷惑かけちゃうかもしれないですし……」

 予想以上の二人の親密さに戸惑いを隠せない、という顔と声だった。

 康太は慌てて、典子の肩に手を置いた。

「変なこと言わないでよ。典子が誘ってくれたから、俺たちここにいるんだし」

「え、え……。でも、康太先輩ってすごいですねぇ。歌うだけで、人の胸の中って、こんなに伝えられるんだ……って、びっくりしちゃいました」

 典子は、心底感心したように呟くと、好奇心いっぱいの眼差しで桜子に視線を移した。

「桜子先輩は、今の、康太先輩のドキドキ……わかりました……?」

 その問いは、あまりに直接的だった。

 桜子は言葉に詰まった。

 康太と桜子は、まだ恋人でもなんでもない。典子と三人セットの友達関係だ。

 ここで「はい」と頷けば、二人の関係を認めることになる。「いいえ」と答えれば、彼の想いを無下にすることになる。

 気まずい笑顔の沈黙が続く中、モニターの映像がパッと変わった。

 典子が入力したらしい、歌のタイトルが現れた。

 イントロが流れ始めて、典子は「あっ」と驚き、テーブルの上のマイクを手にする。

 桜子は、典子の集中力が歌に流れて、会話が別のところへ移っていくのを期待した。

 ところが、典子はマイクを持ったまま、ぼんやりモニターを眺めている。

 口は半開きのまま、目が軽く泳いでいる。

「あ、あの……」

 典子は、恥ずかしそうな声で言った。

「ご、ごめんなさい。……あたし、やっぱりムリですぅ……。消しちゃいますね!」

 典子は、身を乗り出してリモコンに手を伸ばした。その動きに合わせて、彼女の豊かな胸が、隣の康太の二の腕に押し付けられる。

 彼は典子の隣にいた。

「……」

 リモコンを手にした典子が、バランスを崩して康太の方へと倒れ込む。

 曲が止まらないまま、康太は咄嗟に彼女を庇い、抱き止めた。

 典子は、康太の膝の上で小さく硬直した。

「あ……あわ、慌てちゃいました!」

 彼女の頬が少し赤い。そして、なぜかなかなか立ち上がらないでいた。

 桜子の胸の奥が、焦げるように熱くなった。

「康太先輩……? あの……。だいじょうぶですか……?」

 康太の膝の上から、典子が心配そうに彼を見上げる。その声は友人を気遣う響きを持っていた。

 だが、なかなか起きあがろうとしない。

「さっ、桜子先輩……あの、ちょっとだけ……あっち、向いててくれますか……?」

 典子が真剣な目で、桜子の顔を見つめる。

「もう、典子。そんなに萎縮しないで。転んだぐらい恥ずかしくないよ」

 そう言って、桜子は立ち上がり、後輩女子の腕を手に取り、起き上がらせた。

 その時、康太が何も言わないのが気になった。

 ゆっくりと彼から身を離していく典子。その影に隠れていた異変が、桜子の視界に入っていく。

 ──あっ。

 康太のジーンズの一部が不自然に盛り上がっていた。

 彼は何もなかったような顔をして、「典子こそ大丈夫だった?」と言いながら、桜子の顔を見まいとしている。

 どうやら典子は、彼の男性的な体の異変に接触したのだ。

 そしてそれを桜子に見せまいとしていたらしい。

 康太は、咄嗟に近くのメニュー表を掴んで、自分の膝の上に乗せた。

 その慌てた仕草が、彼の身体に起きている変化の強さを物語っていた。

 桜子は、見てはいけないものを見てしまった、という後ろめたさで、顔が熱くなりそうになる。

 二人の顔を交互に見た典子は、焦ったような顔をして、康太の首に汗が流れているのに目を止めた。

「康太先輩、そこ、汗かいてませんかぁ?」

 典子の指先が、康太のうなじから首筋にかけて、熱を確かめるように触れた。

 それを見た桜子は、やめなよ典子、と気まずい顔をした。そこが男の性的興奮が脈動として最も分かりやすく現れる部分だと、聞いたことがある。

 康太はくすぐったいような顔をして、「厚着してるからかも」と言いながらも、メニューを手放せず、触られるがままになっていた。

 桜子は、ここで中立を保つことへの躊躇いが生じた。

 友達の康太に、友達の典子が、──おそらくは無意識に──とても女っぽく触れている。

 康太が、友達に触れられるのとは違う顔になっているのが見えた。その表情を、桜子は言葉にすることができずにいた。

 典子は康太からそっと手を離すと、メガネ越しに桜子を見つめて首を傾げた。

 ──あたし、何かやっちゃいましたか?

 そう言いたげな顔をしている。

 桜子は、唇が震えそうになるのを感じた。

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