《第4話》瀬川Side①:②
「何か弾いてみて。『テンペスト』とかは?」
「暗譜はしてますけど………入試に向けて練習した曲なんで……」
ステージ袖の薄暗い所にグランドピアノがあった。
「笑わないでくださいね。先輩の前だっていうだけで緊張するんですから」
そう言い朱鷺はテンペストを弾いた。あまり長くはない曲なのであっという間に弾き終わる。
「これは……ちょっと酷いな。これでよくあの大学に受かったね」
その一言に尽きた。この小さい手では弾きにくいかもしれないがそれ以前の問題だ。この子はピアノが苦手ではなく嫌いなんだろうと思った。
「……解ってます。だからここで練習してるんです」
『しょんぼり』とはまさに、このことを言うんだと思う。普段なら冷笑していた。でも、何故か朱鷺を笑う気は起こらなかった。斜め上を向いて俺を見つめる朱鷺がいじらしいとさえ思った。
「特訓しない?俺と」
「え、でも………」
「嫌、かな?」
「嬉しいですけど、謝礼とか払えません。生活費でギリギリですから。それに忙しいんじゃないですか?」
「俺が好きでするんだ。気にしなくて良いよ。頑張ろう」
朱鷺はにっこり笑った。傾いた陽はもうなくて、教会の薄いランプが俺と朱鷺を照らしていた。面倒を抱えるのは、嫌いなはずなのに。朱鷺を見るとあまりにも必死な感じがして、切なくなる。
「ありがとうございました」
守衛の佐藤さんに声をかける。「また、お世話になります」とも。方向が同じで途中まで一緒に歩いた。
「──夜なのに空気が冷えてこないね」
「そ、そうですね」
上の空の返事で朱鷺は足元ばかり気にしていた。
「どうしたの?」
見かねて俺は朱鷺に声をかけた。
「──何でもないです」
「からかったりしないから言ってごらん」
「………コンタクト、落としちゃいました。見えない………。僕、すごく目が悪くて。変な見栄張らないで眼鏡にすれば良かった」
「そう言うことは早く言え!」
朱鷺の大きな瞳が怯えるように俺を見つめる。思わず怒鳴ってしまったことを一瞬で後悔した。
朱鷺に腹をたてたのではない。街灯を頼りにおぼつかなく歩く隣を気遣えなかった自分に腹が立った。でも、こんなことは言っても詮なきことだ。
ただ、身を縮める朱鷺に『ごめん。大きな声をだして』と謝り、手をとった。手を繋いでいれば少しは怖くないだろう。
ゆっくりと歩調を朱鷺に合わせた。彼の手は少し震えていた。罪悪感が滲む。
大通りでタクシーをつかまえコンタクトレンズを取り扱っている店に行った。ずっと考えていた。
何で俺はこの子の世話を必死になってやいているんだろう。しかも今日──ではないが──会ったばかりの子だ。歌声と──好きな奴に『声』が似ているだけだ。あとは『遊び』のツケくらいか。でなければ、こんなモジャモジャ頭の子供とせっかくの初夏の夜なのにコンタクトレンズを一生懸命選んでいるはずはない。
「──選び終わった?」
「助かりました。ありがとうございました。本当に」
「どうして眼鏡にしないの?便利だよ?俺も眼鏡だし」
「──高校の頃のあだ名が『モジャモジャG眼鏡』だったんで。『ゴキブリモップが眼鏡してる』って散々からかわれて。大学に入ったら絶対コンタクトにするって決めてたんです」
こんなことに拘ってるなんて、僕も馬鹿だなぁって思うんですけど。と、朱鷺は、少し哀しそうな顔から気を使った笑顔に変わる。思っていたことを見透かされたようで、胸が痛んだ。
「会計は済んだの?」
「まだです。少し混んでいて。時間がかかりそうです。だから、先輩は先に帰って下さい。遅くなっちゃいます。それに裸眼で来店するとサービスで新しいコンタクトをもらえるんです。先輩の顔もちゃんと見えます。教会は薄暗くて良くわからなかったけど、先輩は本当にハンサムなんですね。羨ましいです。髪も、さらさらだし。今日はわざわざかかりつけの所に送って頂いて──ありがとうございました。あの」
手渡されたのは十一桁の番号。それと名前。少し丸みを帯びた優しげな字だった。
「電話です。レッスン楽しみにしてます」
そう言い朱鷺は深めに頭を下げた。
「じゃあ、また」
そう言い俺はその場を後にした。見送るのは好きではない。ふと、他人に対して使ったことがない言葉を使った事を思い出す。そんなに忘れられるのは誰でも嫌か。
「『また』か───」
『深谷朱鷺』他人に対して興味をもったのは鷹以来かもしれない。
俺は朱鷺がくれた紙を大事に手帳のポケットにいれた。建物のガラスに映る自分は上機嫌に見えた。
こんな日に、あの家族に会いたくなかった。月1の家族の会食。父の、母と俺に対するはた迷惑な家族サービス。
「帰りたくないな」
ぼんやりそう呟き、目についたコンビニエンスストアの喫煙コーナーで、俺は煙草に火を点けた。
────────────next Episode
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