温泉郷〜深地の湯〜

ちりめん山椒

人生の夏休み

 大学最後の夏休みが始まる少し前。世の大学生は就職活動や卒業論文・研究に追われて碌に楽しめない者が多いだろう人生最後の長期休暇が迫る頃。例に漏れず就職活動も卒業論文も碌に進展していない事に喘ぐ一般大学生が1人大学図書館で机に突っ伏して現実逃避に勤しんでいた。


 彼の名は笠軒出水。このままでは人生最後の夏休みを、楽しみもない灰色の思い出として浪費してしまう事が容易に想像できて項垂れているところだった。夏期休暇が始まるまでにせめて卒業論文の形だけでも完成させようと図書館に勇んで赴いた笠軒だったが、そもそも何を書けばいいかすら決まってない状態で資料を探しても意味などなく、只々無為な時間を過ごしただけと言う結果だけが残った哀れな馬鹿である。


「あぁ〜、卒論なんてどう書けばいいんだよぉ…」


 そう独りごちている笠軒の背に声をかける人物が現れる。


「笠軒じゃん。机の上で溶けて何やってんだ」


 笠軒が所属する民俗学ゼミの梔子教授だ。チリチリの天然パーマに瓶底眼鏡、短パンアロハでサンダル履きと言う教授にはとても見えない風貌でありながら民俗学界では名の知れた人物であり、フランクな性格でたまにフィールドワークの助手としていろんなところに連れてってくれたりもするので学生からの人気も高い。


「梔子先生こんちゃす。見ての通りの今後の憂鬱を全身で表現してるんですよ」


「そういやお前まだ卒論の概要すら提出して来ないもんな。それじゃ助言のしようも無いわ」


「そんな簡単に切り捨てないでくださいよ…。卒論って何をどう書けばいいのかすら理解してないから方向性も決められないんすよ」


「そりゃ俺のゼミに入ってるなら民俗学に関する事書けばいいだろうよ。何のために色んなところにフィールドワーク連れてってると思ってるんだ」


「…寂しい一人旅にならないためのお供?」


「だったら家族連れていくわ馬鹿タレ。行った地域での聞き取り調査とか伝承の残る土地のピックアップとかをお前達に任せてたりしてただろ。自分達が調べる側になった時の為に経験積ませてたんだよ。俺は雑務を任せられるしお前達は経験積めて旅行にも行けるしお互いWin-Winのイベントだったろ?」


 笠軒が思い返してみれば梔子教授に連れて行ってもらったフィールドワークは参加した学生が赴いた先の地域住民から聞き取り調査をを行い、教授が提示した伝承と照らし合わせて資料をまとめて教授に提出していた。終われば自由に観光ができるので、笠軒はそちらを第一目標にしていた為フィールドワークでの行動決定は友達に任せきりにしていた。


「うおぉ…あの時のツケが今になって自分に襲いかかってきてるぅ…!」


 梔子教授の言葉に再び頭を抱えて突っ伏した笠軒だった。


「しょうがねぇなぁ。おい笠軒よぅ、お前温泉好きだったろ?テーマすら決まってないなら温泉をテーマにしたらいいじゃねぇか」


「温泉っすか、確かに大好きですけど卒論のテーマとしていけます?」


「何言ってんだ。温泉こそ土地に根ざしたいいテーマだろ。古くから土地に在り人々は様々なご利益を信じてきた。まさに人々からの信仰の対象だろ。民俗学としてはいいテーマだ」


「そう言うもんですかね」


「昔から人は水を清浄なものだと信じてきた。だから神聖な行事の前には川などで身体を清める禊なんて風習が生まれたんだ。温泉だって人々は湯治だといって身体に良い効果をもたらすと信じられてきた。ならそこを紐解いていくのも民俗学の貢献になるだろ」


 それを聞いた笠軒は天啓を得たりと机から勢いよく体を持ち上げた。


「なんか先生にそう言われたらそんな気がしてきた!ありがとうございます!」


「そうかい、それはよかったな。ちょろいなぁコイツ」


「なんか言いました?」


「いんや何も。とまぁ心優しき教授がお前にアドバイスをやったんだ。アドバイス料としてこの受け取り札持って受付で本貰ってきてくれ。俺は研究室に戻ってっからよ」


 そう言って梔子教授は笠軒に24と書かれた番号札を押し付けて図書館を後にした。


「もしかして声かけてきたのってこれの為か…?」


 笠軒は訝しんだが一縷の望みが生まれたのも事実である為この件を考えるはやめた。




 笠軒が受付に梔子教授から預かった受け取り札を提出すると、司書は少々お待ちくださいと奥に引っ込んだ。暫く待っていると顔が隠れる位に積み上がった書籍を抱えた司書が少しふらつきながら帰ってきた。


「お、お待たせしました…。こちらがご希望の書籍15点になります。お間違いないですか?」


「あ〜多分間違いないと思います。と言うか結構な量ありますね」


「梔子さんはいつも一度の利用でこれくらいの量を借りられていくんですよ。借りる本のリストをいただく時以外はいつも他の方にが返却と受け取りに来られますね」


 司書の言葉を聞いて笠軒はやっぱりいいように使われたのだと確信した。


「あんのチリ天メガネめぇ…!」


 そう文句を垂れるが目の前の本の山が消えるわけではないので笠軒は諦めて本を抱える。


「それではこちらで受付は以上になります。返却期日は1週間後までとなっておりますのでご注意くださいね」


「了解です。教授に伝えておきます。それじゃあお邪魔しました〜」

 笠軒はそうして図書館を退館した。しかし教授の研究室に持っていくまでが大変だった。如何に本が軽くても15冊も重なるとそれ何の重みになる上に視界が遮られて足取りが覚束なくなる。教授の待つ梔子ゼミ研究室は大学研究棟の4階にあり、中のエレベーターは教職員のみしか使えない為必然的に階段で登るしかない。その結果笠軒は階段途中の踊り場で躓き持っていた本を撒き散らしてしまった。


「いってぇ…。流石にこの量を持って階段登るのは無理しすぎたか…。てかやっべ本大丈夫かな!?」


 笠軒は急いで本をかき集める。図書館で受け取る際に見た感じかなり年季の入った物も混じっていたように見えていた。梔子教授が借りる本など歴史的資料である事など想像に難くないのでもし破損していたらと考えると顔から血の気が引くのも無理からぬ事である。

 一通り本をかき集め終え、本の無事を確認し一安心した頃。余裕ができたからか一番上に載せた本の題名に目を惹かれた。そこに書かれていたのは「深地湯縁起」というもの。丁度先ほど卒論のテーマにしろと言われた「温泉」にまつわるであろう題名に笠軒は興味をそそられる。少しくらい遅れてもいいよねと誰にするでも無い言い訳を心中で行い、その本を手に取る。相当古い物のようで、著者は掠れていて読めない。開いてみると、挿絵と文字が書かれていたが全く読めない。字体が古くて笠軒には解読できなかった。


「ガチモンの古文書すぎてなんも読めねぇ」


 しかし湯について記されているであろう事は読めた題名から明白なので何としても内容が知りたい笠軒。そして元々この資料は教授が借りた物なのでもしかしたら教授なら読めるのでは無いかと思い至る。そうと決まれば居ても立ってもいられず先程までのフラフラだった状態もなんのその、本の山を再度抱えて足早に研究室に向かっていった。


____________________________


「せんせー!開けてくださいせんせー!」


 研究室にたどり着いた笠軒は両手が塞がっている為大声で室内の教授を呼ぶ。暫くして扉が開き中からチリチリ天パが顔を出す。


「はい御苦労さん。そんなに叫ばなくても聞こえてるよ」


「両手塞がってるからノックもできないんですよ。と言うか司書さんから聞きましたよ、いつもこんな量の本を学生に運ばせてるって」


 室内のテーブルに本を置きながら教授を見やる笠軒。冷ややかな目線に晒された教授は特に悪びれる様子もなく資料に手を伸ばしている。


「最初にアドバイス料だって言ったろ?迷える生徒は道を見つけて救われた。俺は重い荷物が研究室に届いて救われた。ほらWin-Winだろ?」


 ぐぬぬと呻くことしか出来ない笠軒。先の見えない卒論に一筋の光明が見えたのは事実である為何も言い返せなかった。


「光明と言えば先生が借りてた本の中に気になるタイトルがあったんですけど」


「んぁ?申請したの前すぎて何借りたか忘れたな…。なんてかいてあった?」


「えっと、あったこれこれ。『深地湯縁起』ってやつです」


 笠軒が本の山から引っ張り出したその本を目にした教授は少し驚いたように見えた。


「また懐かしいもんが出てきたもんだ。と言うか申請リストに入れた覚えないよこれ」


「先生はこの本知ってるんです?見た目からして相当古い文献みたいですけど」


「まぁな、うちのかつてのゼミ生達も卒論のテーマにしてた伝承が書かれてるんだよ」


「先輩達もこれを?題名はなんとか読めたんですけど中のくずし字が全く理解できなくて内容はさっぱりで」


「仮にも民俗学を専攻してんのによぉ」


「仮にも民俗学を専攻してたから題名は読めました!」


 清々しい顔でそう返す笠軒だった。


「はぁ…、んで?名前からお前の卒論テーマにマッチしたから使いたいってとこか」


「ついでに先生なら中身読めないかなって」


「読めんこともないけどそのまま教えちゃ研究にならんだろ。先輩達も研究テーマにしてたって言ったろ?ちゃんとそいつらの研究レポートも卒論も残してるからそれ使え」


 そう言って教授は研究室の一角にある棚を指差す。そこにはかつてのゼミ生達が書き上げた卒業論文が年代別に収められており、いくつかの物にはちらほらと深地湯の文字がみえた。


「ちぇっ、そう上手くは行かないか」


「沢山考えて沢山悩め若人!周りからわかりやすい答え貰ってばっかだと自分じゃ何も見つけられなくなるぞ」


 揶揄う様な声音で話しているが、その表情は何か思い出しているかの様だった。


「分かりましたよ。取り敢えず先輩達の研究資料借りるとこから始めてみます」


「おうよ。ちなみにその『深地湯縁起』な、とある温泉について書かれているのはお前の考えてる通りだ。今までうちのゼミ生達が何人も研究してきたが、見つけたやつは1人もいないんだ」


「え゙っ…。そんなの俺に見つけられます?」

 

「そりゃお前の努力次第じゃね。数年前までは毎年研究するやつがいて、そいつが期限までに見つけられなきゃ後輩に自分の研究成果を引き継ぐって流れがあったんだがある年から引き継ぐやつがいなくてな。そっから研究は停滞してたんだ。俺もすっかり忘れてたしな」


「見つけられても大発見として卒論書けるし見つけられなくても伝承を紐解いて情報を纏めるだけでも卒論書き切るくらいわけないだろうしやり得だろ」


「確かに。いやぁテーマも方向性も決まっちゃってさっきまで頭抱えてたのが嘘みたいだなぁ」


 笠軒は鼻歌でも歌い出しそうな程上機嫌で資料の保管されている棚の物色を始める。


「ちゃんと返すならその資料は持って帰ってもいいぞ。と言うか持って帰って家でやれ。俺もこれから自分の研究やるから」


「そんな邪険にしないでくださいよ。可愛い生徒が頑張ろうとしてるんだから」


「何が可愛い生徒だよバカ。こんな時期まで卒論テーマすら決まってなかったのうちじゃお前だけだわ。世話のかかる奴め」


「手のかかる子ほど可愛いって言うじゃないすか。なら俺は先生にとって可愛い生徒でしょ?」


笠軒はそう言いながらめぼしい資料を引き抜いていく。


「減らず口ばっか叩きおってからに」


 教授は辟易したようにため息をついた。ある程度まとまった量を確保した笠軒は


「そんじゃあ邪魔するのも悪いんでこいつら借りていきますね〜」


 と言って部屋の隅にあった空き段ボールに資料を詰めて研究室を後にしていった。

 一人になった教授はデスクチェアに深くもたれ掛かり一つ息を吐く。


「久しぶりに見たなあれ、最近はめっきり出てくる事なかったのに。向こうがあいつを呼んでるのかねぇ。ちょっと印つけとくか」


 そう独りごちる教授は窓から見える地平線に溶け出した夕陽に向かい手から何かを放り投げた。投げられたものは夕陽の光に照らされる事なく教授の視界から消えていった。

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