第33話【晴れの特異日のインク】
文化の日の朝。この祝日は晴れの特異日と呼ばれるが、例に漏れずこの日も晴れだった。
特異日と特異点は似ているので、FGOを連想してしまう。
大学のメインストリートに模擬店の赤いのぼりが揺れて、文芸部の朗読テントから低い声が漏れてくる。
俺と名雪さんのゼミは“ことば実験ブース”を出す。三つのお題で、その場で三分小説を印字して渡す企画だ。お題のうち二つはこちらで用意した箱から、一つはお客さんが考えた単語を使う。
「プリンタ、紙詰まりしない?」
「大丈夫です。熱転写なので風にも強いはずです」
最初のお客さんは小学生を連れた近所の人だった。お題を引くと「橋」「朝」。お客様からの指定は「スニーカー」。俺はノートPCを膝に、三分の砂時計をひっくり返す。
「――完成しました。よろしければお持ちください」
「早い! ありがとう」
完成した短い話は、川の橋を渡る前に靴紐を結び直すだけの情景。
印字された薄いインクが、指の体温で少しだけ濃くなる。
名雪さんは隣で、来場者の考えた単語をカード化して“語彙の木”を壁に育てていく。スニーカー、異世界、Vチューバー、推敲、タイパ、たまごっち。新旧の語が同じ高さで枝を広げる。
昼前、朗読テントから拍手が響いた。
「ちょっとだけ見に行こ」
「交代します。十分なら問題ないです」
テントでは、書道サークルのパフォーマンスが始まっていた。太い筆が白布の上で走り、墨が水の音で弾ける。線が立ち上がる瞬間、周囲が吸い込まれるように静かになる。
「ねぇ茨木くん、文化って“誰かが落とした静けさを拾って、次の人に渡すこと”だよ」
「静けさは感動の現れですね。静けさのリレー、心に留めます」
戻ると行列が少しできていた。
アニメ研究会の子が箱から引いたお題と組み合わせ、「“ループ”“記憶”“喫茶店”でお願いします!」と目を輝かせる。
「承知しました。少々お待ちください」
三分で書けるのは落差のない日常の端っこだけだ。
それでも、喫茶店のマスターが砂時計を返すたび同じ笑みになる、と書くと、彼は「尊い」と照れて笑った。
名雪さんは語彙の木に"喫茶店"に追加で“尊い”の札を貼り、「古語なら“めでたし”かな」と小声で遊ぶ。
午後、ゼミの先生が現れて、短い講評をくれた。
「よく回っている。お題と小説の距離を近く見せるのが肝だね」
「ありがとうございます。お客さんの待ち時間も含めて設計しました」
「三分を超えると集中が切れる。砂時計は優秀なインターフェースだ」
日が傾くと風が冷えた。最後のお題は「祝日」「窓」、そして「音」。俺はさっきの書道の余韻を引き取る。
窓辺の紙が、誰も触れていないのに微かに鳴る――それを祝日の音と呼ぶ話。
印字を渡すと、読み終えた学生が「静かですね」と笑った。
「本日はここまでにしましょうか」
「うん。紙、けっこう旅立ったね」
片付けながら、名雪さんが壁の“語彙の木”を写真に収めた。枝はもうポスターからはみ出している。
「これ、来年は森にしよ」
「賛成です。今日集まった言葉を、栞にして配っても良さそうです」
「いいね。今日の匂いを閉じ込められるかな」
帰り道、グラウンドの端でマーチングのドラムが鳴っていた。文化の日は晴れが多いっていう言い伝えは、おそらく統計と気の持ちようの中間にある。俺たちのインクは、風で少し波打ちながらも滲まずに残った。明日、紙束をゼミ室に持っていく。誰かがまた静けさを拾えるように。
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