二章十三話 共和国へと

 馬車の御者席にはアウルが腰を下ろし、その隣にアダムが並んで座っていた。手綱を握るアウルの背は静かで、揺れる荷台の音さえ計算しているかのように落ち着いている。


 そのすぐ後ろ、簡素な座席にカオルとココアは肩を並べていた。馬車はゆっくりと進み、車輪の軋む音が一定のリズムを刻む。


「それにしても、この馬車は型が古いな! 遅い!」


「喧しい。あまり速度をあげるとカオルくんの身体に障るだろう」


「ふむ……少年は体が弱いのか?」


 不意に、前方から気配が動く。アダムが身体だけを振り返り、視線を二人へと向けた。


「どうなんでしょう……個人的にはそこまで病弱ではないと感じてるんですけどね」


「ご主人様は私と違って繊細な方なので……私がアウルさんに無理を言ったんです」


「ふむ……私の編み出した魔法を使えば、速度を格段にあげられるが、少年はどうしたい?」


 アダムがそう問いかけると、カオルはその言葉に瞳を輝かせ、迷いなく首を縦に振った。

 それを見て、ココアもまた小さく微笑む。


「ではお願いします。ご主人様、体調は悪くありませんね?」


「うん、平気だよ。ココアちゃん」


「では、アダムさん、それをお願いしても? ──私も、興味がありますので」


「ああ、いいとも! いやあ、君たちはいいね。アウルと違って反応が可愛らしい」


「悪かったな」


 アダムがからかうようにそう言ったものだから、アウルはむっとした様子で足を伸ばし、アダムの脛を蹴った。

 だがアダムはそれを意にも介さず、静かに馬車全体へと魔力を滲ませていく。


「わあ、すごい……」


「本当に凄いですね……アダムさん、これは私でも使える魔法ですか?」


「ん? ああ。簡単に言えば、風魔法の応用で空気抵抗を減らして速度を上げているんだ。そこら辺の計算が出来れば簡単だと思うぞ」


「計算……」


 アダムの助言に、ココアは「ふむ」と小さく唸り、考え込んだ。

 人の身体を得たことで、猫だった頃よりも人間に近い視点で物事を見られるようにはなった。

 ――けれど、勉強だけはどうしても駄目だ。

 カオルがしていたことも難しすぎて頭に残っていないし、いくら説明されても理解できる気がしなかった。


「でも、ご主人様のため……! アダムさん、今度教えてください。計算について」


「うん? いいぞ! 私は教えるのが下手だがな!」


「やめた方がいいよ、ココアちゃん。こいつは天才だから説明が下手なんだ」


「むむ……ままなりませんね……」


  アウルにそう言われ、ココアはしゅんと猫耳をぺたんと伏せた。

 その直後、アダムの身体から噴き出していた魔力が一つに収束し、馬車の速度が緩やかに増していく。

 急激な変化にならないよう、身体に負担がかからぬようにと、加速の仕方まで細かく調整されているのが伝わってきた。

 ――これは確かに、頭を使う。


「アダムさん、この速度だと、どれくらいで共和国につきますか?」


「うーむ……6時間でつけば早い方だと思うが、どうだろうな……」


「そんなに早くつくんですか」


「もちろんだ。途中でトラブルが起きればまた変わるがな」


 アダムはそう言葉を切り、再びアウルをからかっていた。

 その様子を見て、ココアはふっと肩の力を抜き、カオルへと視線を向ける。

 速度が上がっても体調が悪くなる様子はなく、表情にも特段の変化は見られなかった。

 それを確かめて、ココアはほっと安堵し、ゆっくりと空を見上げた。


「──どんな、場所なのでしょう」


 期待に胸を膨らまし、ココアは瞳を伏せる。

 どうかそこに、カオルを救える何かがあると信じて。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「──う、」


 水面に浮かぶような感覚。

 平たく言えば、眠りから解き放たれていく感覚が脳を満たし、やがて瞳が静かに開かれた。


 いつの間に眠ってしまったのだろうか。

 微睡んだままの頭でそう考えながら、ココアはカオルの方へと手を伸ばす。


「ああ、起きたか! さすがに疲労が溜まっていたのだろうな、少年も君と同じように寝たぞ!」


「──ああ、なるほど……ごめんなさい、周囲を警戒しなければならなかったのに」


「構わん! もうじきつくからな!」


「運転してるのは僕だぞアダム」


 アダムが元気いっぱいに話すものだから、ココアは思わず苦笑を浮かべた。

 その表情のまま、どう言葉にするべきか一瞬考え、やがて静かに言葉を紡いでいく。


「──アダムさん、元気ですね?」


「何故だろうなあ……人と話すというのは、言葉以上に大切だからだろうか?」


「──人と話す……」


 その言葉の意味を、ココアはうまく理解できずにいた。

 ずっとカオルと共に生きてきた。その事実だけが確かで、それ以前の記憶は――思い出したくないという気持ちが先に立ち、輪郭の曖昧なまま胸の奥に沈んでいる。

 そして、カオルと引き離されてからの時間は、気づけばいつもアウルが傍にいた。


「──あれ?」


 不思議な違和感が、じわりとココアの胸を満たしていった。

 記憶が、感情が、どこか噛み合っていない――そんな気配だけが、はっきりと残る。

 けれど、何がどうおかしいのかを言葉にできるほど、輪郭は見えてこない。

 だからそれは、掴みどころのない違和感として、胸の奥に留まるだけだった。


「──? 君、どうかしたか?」


「あ、いえ……そうですね、人と話すのは大切だと思います」


「そうだろう、ひとりで考え込むと大抵の場合最悪なことになるからな」


 アダムは、ココアの微妙な表情に込められた真意を知ってか知らずか、相変わらず軽い調子でそう受け答えした。

 ココアも、小さく「そうですね」と頷く。

 そのとき、不意に、そんなココアへ向けてアウルの声が飛んできた。


「ココアちゃん、もう少しで国境を超えるから、カオルくんを起こしておいてくれるかな?」


「はい、かしこまりました! ご主人様、起きてください!」


 カオルの身体をそっと揺さぶると、彼は小さく唸り、顔を顰めてから、ゆっくりと瞳を開いた。

 その様子を確かめて、ココアは、


「アウルさん、ご主人様起きました!」


「うん、ありがとう。アダム、速度ゆっくり落として魔法解いてくれ」


「はいはい。共和国は相変わらずか?」


「僕もしばらくは立ち入ってないが……昔に行った時と、大きくは変わってないだろうな」


「──嫌になるな。ただでさえ王国もあんななのに」


 アダムとアウルが、二人にしか通じないやり取りを交わしている。

 その声を耳にしながら、何の話をしているのだろうかと思いつつ、ココアは静かに周囲の風景へと視線を移していた。

 やがて馬車の速度は、気づかぬうちに少しずつ緩まり、それに伴って、辺りに満ちていた魔力の気配も薄れていく。

 意識していなければ見逃してしまいそうなほど、繊細に制御された魔法だった。


「──ココアちゃん? 外が気になるの?」


 意識がはっきりしてきたのだろう、カオルがココアへ向けてそう声をかけた。

 ココアはそれに応えるように、カオルからもよく見える位置へとそっと姿勢を変える。


「はい。ここはご主人様とわたしの昔いた国に似ているらしいのです。もしかしたら、ご主人様の記憶も戻るかもしれませんよ」


「そっか、ありがとう」


 カオルが浮かべた優しい笑みを、ココアは愛おしげな表情で受け止め、吹き抜ける風に黒髪を揺らめかせた。

 その拍子に、視界の端へ、鉄でできた門のような構造物が滑り込んでくる。


「──アウルさん、あれは?」


「ココアちゃんの昔いた国にはなかったのかな? 国境には門が設置されて、騎士たちが通していいかどうかを確認してるんだ」


「──わたしは、国から出たことがなかったので」


 ──本当は、この世界が、かつてココアたちが生きていた世界ではないからだと、彼女自身は分かっている。

 けれど、そんなことを口にしてしまえば、ただでさえ後ろ盾もなく、身寄りもないココアとカオルの立場は、危ういなどという言葉では済まなくなる。

 ――いつかは、きちんと話さなければならない。そう思ってはいる。

 だが、それは今ではない。少なくとも、今この瞬間に切り出すべき話ではなかった。


「そっかぁ……まあ、国外になんて用事もなかったら出ないかもしれないね。手続きも面倒くさいし」


「そうだなぁ。国が違えば信仰するものが変わり、価値観や思想も大きく変わる。国によっては、何の変哲もない人間を悪魔だと糾弾する国もある。異国に行くというのは、それなりに危ないことだからな」


 どこか実感のこもったアダムの言葉を、ココアは黙って聞いていた。

 同じ教室にいながらも、分かり合えないことがあるのだと、よくカオルが嘆いていた――そんな記憶が、ふと胸の奥によみがえる。


「──同じ国の人間でも分かり合えないなら、違う国で育った人と分かり合うなんて、無理じゃないですか?」


「そんなことはない。分かり合えないのは、分かろうとしないからだ。そして、分からないのは、大抵の場合、自分とは違うからだ。その溝を埋めることは容易ではないが、無理だと諦めるほど残念なこともない」


 アダムの言葉を受けて、ココアはしばし考え込んだ。


 ――この人は、きっと、とても優しい人なのだろう。


 物事を正しく理解している。それでもなお、どこか考えの浅いお人好しでいられる――少なくとも、ココアの目にはそう映る。

 それはきっと、どれほど聡明であっても決して濁ることのない、アダムの心根の美しさゆえなのだろう。


「──アダムさんなら、本当に出来てしまいそうですね」


「ああ。私は天才だからな!」


 優しいことに疑いはないが、やはりどこか少し変わっている。

 そう思ってココアが思わず苦笑をこぼした、その瞬間――アダムは巧みな話術で、あっさりと門を突破してみせた。

 それは、ほとんど同時の出来事だった。

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