足元の光
津坂 洋
第1話
朝というより、昼に近い時間に目を開けるのが習慣になっていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、時計の針より正確に「また今日も遅れている」と告げてくる。
起き上がる理由が見つからない。アラームを設定しても、無意識のうちに止めてしまう。布団に沈んだまま、時間だけが流れていく。
時折、外から物音がする。廊下のドアが閉まる音。エレベーターの動作音。階段を上り下りする足音。
そのたびに僕は身を固める。
人と会いたくない。会ってしまえば、きっと笑顔を作らなければならない。うまく返せなかったら、自分を責め続ける。だから動けない。息を殺し、物音が遠ざかるのを待つ。それが日常になっていた。
冷蔵庫の中身は、コンビニ弁当の残りとペットボトルの水だけ。買い物に行くことを考えると胸がざわつく。
「人に会うかもしれない」という想像だけで、外出は大きな壁になる。
それでも空腹には勝てず、夜遅く、人通りが少なくなった時間を狙ってコンビニへ行く。店内の蛍光灯がやけに眩しく、店員と目を合わせないように商品を手に取り、最低限のやりとりだけで会計を済ませる。
それだけのことに、帰宅したあとどっと疲れが押し寄せる。まるで長い旅から帰ってきたように。
机の上には、会社からの書類がまだ置きっぱなしだ。
「休職延長のための診断書提出」
見るだけで息が苦しくなる。病院へ行かなくてはならない。でも、あの待合室の沈黙、視線、呼ばれる瞬間の心臓の跳ねを思うと、足がすくむ。書類は積まれたまま、日が経つ。
スマホの画面に母からのメッセージが表示されていた。
「元気かい? 無理しないでね」
短い言葉が逆に重い。
「元気だよ」と返す勇気がない。「元気じゃない」と打ち込むこともできない。結局、返信できずに画面を閉じる。罪悪感だけが残り、胸に沈殿していく。
眠れない夜が続く。
ベッドに横になりながら、天井の染みを数える。染みは地図のように広がり、見知らぬ島々を作り出す。
「もしここに行けたら、人に会わなくても済むだろうか」
そんなことを考えながら、浅い眠りに落ちていく。夢の中でも、知らない人の視線を避けていた。
ある日、どうしても洗濯をしなければならなくなった。
夏の湿気でシャツが重くなり、部屋の隅に積まれた洗濯物からかすかな匂いが漂っていた。
洗濯機を回し、ベランダに干そうとしたとき、隣から物音がした。
僕はとっさに身を引き、窓の影に隠れる。
隣人がベランダに出てきて洗濯物を干す音。ピンチハンガーが揺れる音。
「声をかけられたらどうしよう」
そう思った瞬間、体が固まった。足も手も動かない。呼吸すら浅くなる。
隣人が部屋に戻り、静けさが戻るまでの数分間が、何時間にも感じられた。結局、僕は洗濯物を部屋干しに切り替えた。
日常のどんな小さな行為も、僕にとっては障害物競走のようだった。
夜、窓の外を眺めると、隅田川に街灯の光が映っていた。
そのきらめきは美しいはずなのに、僕の目には遠い。
手を伸ばしても届かない場所で、誰か別の人のもののように感じられる。
「自分は世界の外にいる」
そんな感覚だけが、強く残る。
日々は同じように繰り返される。
何もしていないのに疲れる。
誰にも会わないのに、誰かに責められているように感じる。
朝、起きられず、昼に起きて後悔する。夜になって眠れず、明日が怖くなる。
ぐるぐると同じ円を描くように、僕は閉じた部屋の中で時を過ごしていた。
――それでも。
心のどこかで「このままではいけない」と小さな声が響いている。
聞こえないふりをしても、その声は消えない。
けれど、どうしたらいいのか、僕にはわからなかった。
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