第3話 放課後の図書室、二人きりの時間

 中間テストまで、あと三日。

 教室は緊張感に包まれていた。真琴は「やばい、赤点コース!」と嘆きながら参考書を抱え、男子たちは「一夜漬けで何とかなるっしょ」と笑っている。


 私はといえば……ノートを開いても、なかなか集中できなかった。

 理由は分かっている。窓際で静かに勉強している瀬戸悠真が、視界に入ってしまうからだ。


 彼は今日も無表情で、淡々と問題を解いている。筆記音が心地よく響き、ページをめくる指先の動きさえ絵になる。


 ──あの雨の日から、少し変わった。


 彼は時々、私に勉強を聞いてくるようになった。ほんの短いやりとりでも、胸が高鳴って仕方がない。相合傘で帰った日のことは、今でも鮮明に思い出せる。肩が触れたときの感触や、彼の淡々とした声。すべてが宝物のように大切で。


 でも、そのせいで勉強には全然集中できていないのだから、本末転倒かもしれない。



「……藤咲」


 また名前を呼ばれて、ペンを持つ手が止まった。


「えっ、あ……なに?」


「数列、ここ……解き方が分からない」


 彼が指さしたのは、数列の応用問題。私が昨日解いたばかりのやつだった。


「あ、これはね……」


 私は彼の机の横に立ち、ノートに式を書きながら説明した。

 彼は相変わらず無表情で聞いているけれど、時折うなずく。視線が真剣で、思わず息をのむ。


「……なるほど」


 短くそう言った彼の声が、耳の奥に残る。


「ありがとう」


「ど、どういたしまして……」


 また心臓が跳ねる。私は慌てて自分の席に戻った。



 放課後。

 私は図書室に向かった。静かな環境で勉強すれば少しは集中できるかもしれないと思ったからだ。


 けれど、扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは──。


「……瀬戸くん?」


 本棚の影の席に、彼が座っていた。

 まさか同じ考えだったなんて。偶然の一致に、胸がざわつく。


「……藤咲」

「えっと……ここ、いいかな?」

「……勝手にすれば」


 ぶっきらぼうに言いながら、彼はノートに視線を戻す。

 私は小さく息を吐き、彼の向かいの席に腰を下ろした。


 図書室には、ページをめくる音と鉛筆の筆記音だけが響く。

 不思議なことに、隣に彼がいると集中できた。沈黙が心地よくて、時間があっという間に過ぎていく。



「……ここ、分かるか」


 一時間ほど経ったころ、彼がまた声をかけてきた。

 ノートを差し出す手が机の上で重なりそうになり、私は慌てて引っ込める。


「えっ、あ……うん、これはね……」


 解説していると、彼がほんの少しだけ前のめりになった。

 距離が近くて、心臓が暴れそうになる。


「……分かった」

「よ、よかった……」


 説明が終わっても、彼はしばらく私をじっと見ていた。

 その視線に耐えられなくて、私はノートに目を落とす。


「……藤咲は、頭いいな」


「えっ!?」


 思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえる。図書室だから声を抑えなきゃいけないのに。


「そ、そんなことないよ! 私なんてまだまだだし!」

「……そうか?」


 彼は首をかしげ、また視線をノートに戻した。

 その横顔が、やけに近くに感じられて、胸が締めつけられる。



 気づけば、外はもう夕暮れになっていた。

 図書室の窓から差し込むオレンジ色の光が、彼の横顔を照らす。


「もう、こんな時間だね」

「……ああ」


 帰ろうと立ち上がると、彼もリュックを背負った。

 一緒に図書室を出て、並んで廊下を歩く。


 その時間が、たまらなく嬉しい。


「……藤咲」


「な、なに?」


「明日も……ここで勉強するか」


 彼は視線を前に向けたまま、淡々とそう言った。


「え……うん! もちろん!」


 嬉しさがこみ上げて、思わず声が大きくなる。

 廊下に響く笑い声に、彼が少しだけ口元を緩めた気がした。



 その夜。

 ベッドの中で、私は天井を見つめながら考える。


 放課後の図書室。

 静かな時間。

 真剣な横顔。

 そして、「頭いいな」と言われたこと。


 胸が熱くなって、どうしようもなくなる。


 ──好き。


 その二文字が、また喉までせり上がってきた。

 でもやっぱり声にはならない。


 明日も、明後日も、私はきっとこの言葉を心の中で繰り返すんだろう。


 好き。

 好き。

 好き。


 けれど。

 いつか必ず、この想いを伝えたい。

 そう強く思いながら、私は眠りに落ちた。

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