好き──。この2文字が言えない。

とびお

第1話 無表情な彼と、ざわつく心

 四月の教室には、まだ冷たい空気が残っていた。新しい学年、新しいクラス。二週間ほど経った今でも、教室の空気はどこか落ち着かない。笑い声が飛び交い、自己紹介での第一印象を確かめ合うようにグループができ、解けかけの氷みたいにまだどこかぎこちない。


 そんな中で、一人だけ空気から切り離されたように座っている人がいる。


 ──瀬戸悠真。


 窓際の席に腰を下ろし、静かに本を読んでいる姿はまるで風景の一部みたいだ。ページをめくる指は淡々としていて、表情もほとんど変わらない。クラスメイトたちの騒がしさも、教室のざわめきも、まるで届いていないかのように。


 その姿を、私は今日もちらりと見てしまう。


「……ねえ、藤咲さん」

 隣の席の友達──真琴が小声で私に耳打ちした。


「また悠真くん見てるでしょ」


「えっ……! そ、そんなこと……」


 慌ててノートに視線を落とす。けれど耳の先まで熱くなっているのが自分でも分かる。ごまかすようにシャーペンを走らせても、ノートには意味の分からない線が伸びていくだけだった。


「分かりやすいなぁ。悠真くん、無口でクールだし、ああいうタイプ好きなんでしょ?」

「ち、違うよ……!」

「ふーん?」


 真琴はにやにやと笑って私を覗き込む。その視線から逃げるように、私は前を向いた。


 ──違うって言ったけど。


 本当は、その通りなのかもしれない。


 初めて彼を意識したのは、クラス替えの日だった。ざわめく教室の中、悠真は一人静かに席に座っていて、誰に話しかけられるでもなく、ただ窓の外を見つめていた。周りが自己紹介で盛り上がっていても、彼だけは一歩引いたところにいる。まるで、同じ空間にいるのに違う世界の住人みたいだった。


 その姿に、なぜか胸がざわついた。


 気づけば、目で追ってしまっている。話しかけたいのに、口が動かない。そんな日々が、もう二週間続いていた。



 放課後。昇降口で靴を履き替えていると、横に人影が落ちた。顔を上げると、そこに立っていたのは──彼。


 心臓が、びくりと跳ねた。


「……藤咲」


「え、え?」


 突然名前を呼ばれて、思わず声が裏返ってしまう。


「ノート、ありがとな」


 それだけ言って、彼は淡々と上履きを脱ぎ、ローファーに履き替えた。


「……あ、うん!」


 返事をしたものの、彼はもう玄関を出て行こうとしていた。


 その背中を、私はただ目で追う。

 ほんの一瞬、視線が重なった気がして──心臓がさらに跳ねた。



 そうだ。今日、数学の授業で黒板に書かれた内容を写しきれなかった悠真に、私はノートを見せてあげたのだ。ページを差し出すと、彼は短く「助かる」と言って受け取り、黙って写していた。その横顔を見ているだけで、どうしようもなく胸が熱くなった。


 そして今。こうしてわざわざ「ありがとう」と言ってくれた。

 たったそれだけのことで、こんなにも嬉しくなるなんて。


 ──やっぱり、私は彼のことが……。


 胸の奥に浮かび上がる言葉を、私はかき消すように靴ひもを結んだ。



 家に帰っても、勉強をしていても、お風呂に入っていても。ふとした瞬間に、悠真の姿が頭に浮かんでしまう。


 無表情な横顔。教室のざわめきに溶けない静かな佇まい。

 そして、不意に私の名前を呼んだ低い声。


 好き──。


 その二文字が、喉の奥に詰まって苦しい。

 言えたらどんなに楽になるんだろう。

 でも、もし言ったら、この関係は壊れてしまうかもしれない。


 怖くて、結局今日も言えないまま眠りについた。



 翌日。朝の教室。

 私が席に座ると、斜め前にいる悠真の机に数人の男子が集まっていた。


「瀬戸ー、今日もまた本かよ? 部活とかやらないの?」

「別に」


 短く答えてページをめくる悠真。その無愛想さに、男子たちは「うわー」と笑い声を上げた。


「相変わらずだなぁ。せっかく背も高いんだし、運動部入ったらモテるのに」

「興味ない」


 彼は本から視線を上げることすらしない。

 その徹底した無関心ぶりに、私は逆に安心してしまう。誰にでも愛想よくする人だったら、私はきっとこんなに惹かれていなかった。


「悠真くんってさ、誰にでも冷たいよね」

 隣の真琴が笑いながら言う。

「でもさ、ああいう人がふと優しくしてくれたら、めっちゃドキッとしない?」


 ──ドキッと、する。


 私は返事を飲み込んで、ノートに視線を落とした。



 放課後。

 部活に入っていない私は、教室に残って宿題をやっていた。ふと視線を上げると、窓際にまだ悠真が座っている。クラスのほとんどが帰った後なのに、彼は黙々と本を読み続けていた。


 気づけば、ペンを置いて立ち上がっていた。心臓が早鐘を打つ。声をかけようか、やめようか。その間に足が勝手に前へ進んでいた。


「あの……」


 声が出た瞬間、彼が顔を上げる。黒い瞳が真っ直ぐに私を捉えた。


「ん?」


 その視線に射抜かれたように、言葉が詰まる。

 伝えたいことは山ほどあるのに、喉が固まってしまった。


「えっと……昨日は、その……ありがとうって」

 違う。言いたかったのはそれじゃない。


「……別に」

 彼はまた本に視線を戻す。けれどその横顔は、ほんの少しだけ柔らかく見えた。


 胸が熱くなる。

 好き──。この二文字が、また喉までせり上がってきて。


 けれど私は、やっぱり言えなかった。

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