マルキジャン・サングィン・バンケット 2

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 扉が開くと外の空気が吹き込んで来て、ひやりと冷たい感覚がムラサキの上着の裏を這った。思わずぶるりと身が震える。少し薄着が過ぎたらしい。車内は空調が効いていたため気が付かなかったが、今日は少し肌寒いようだ。息を吸うと、湿った空気の中に土の匂いを感じた。

 ムラサキが地面に片足をつき、車を降りるか降りないかというところで、いつの間にか回り込んでいたターナがさっと現れ、黒く大きな傘を広げる。

「いいや、大丈夫だ。もうそれほど降っていない」

 ムラサキはそう言ってターナに手を振った。わずかに小雨は残っていたが、気になるほどでは無かった。ターナは「失礼しました」とすぐに傘を畳む。

 遮られていた視界が開ける。雲の張った灰色の空に、三ツ叉に分かれた槍のような尖塔が見えた。中央のひとつだけが飛び抜けて高く、背が高い。思想の強い芸術家が作った、不便で悪趣味なフォークのようだ。その尖塔を支えているのは、広い敷地に負けないくらいに広く大きな屋敷だった。もともとの色なのか、シミなのか、それともただ雨に濡れたせいなのかはわからないが、外壁全体が影のように黒ずんでいて、薄暗い景色を更に暗いものにしていた。

「おそらくあの古城が社屋でしょう。マルキジャン氏の邸宅も兼ねているそうです。創業以来、建物は変わっていないようなので、概ね築百八十年といったところでしょうか」

 当時の贅沢の限り尽くしたであろう城は荘厳な眺めだが、よく見れば、そのあちこちには老朽化の跡が目立った。壁の石は所々ひび割れ、その隙間から黒いオイルのような染みが垂れている。庭の木々は乱暴に生い茂っていて、とても手入れが行き届いているとは思えなかった。

「大丈夫か。あの建物は実はもう廃屋で、今は別の場所を使っているという事は無いかい?」

「そのような情報はありませんが…」

 ムラサキはターナと顔を見合わせた。湿った風が吹き抜けて、周りの木々の葉がかさかさと擦れる音が聞こえる。ふとムラサキの足首に、なにかにくすぐられるような感覚が走った。なんだろうかと視線を下ろせば、すっかり伸び放題になった雑草が石畳の間から幾つも顔を出し、青々とした長い葉がムラサキの足首を撫でていた。

「ストッキングをご用意しましょうか?」

 ムラサキの様子に気付いたターナが訊ねる。

「いいや、構わない」

 そうしてくれと頼めば出てくるのだろうか。確かにターナは気が利く秘書だが、何もそこまで準備しなくてもいい。

「やあやあ、ムラサキ様、ようこそおいでくださいました!」

 城の方向から快活な声が響いた。ムラサキとターナが顔を向けると、赤いローブに身を包む丸々と太った小男と、スーツ姿のすらりと背の高い男が、コツコツと石畳の上を歩いてくるのが見えた。二人とも満面の笑みを浮かべているが、その笑顔はどこか不自然で、やや引きつっている。

「ローブの方がバンケット社の代表であるマルキジャン氏、背の高い方はその御子息様、アーレル氏です」

 ターナが素早く耳打ちする。ムラサキは事前にマルキジャンの顔を写真で確認していたが、アーレルの顔は見たことが無かった。タレ目で眉が太く、鼻の丸いマルキジャンとは対象的に、アーレルの目と眉はつり上がっていて、鼻先が尖っている。太った腹を前に出し、緩慢な調子で歩くマルキジャンの隣で、アーレルは父の歩幅に合わせるために長い脚を持て余していた。

「会社の経営にはあまり関心がないと伺っていましたが…」

 ターナが小声で付け足し、「正直、今日の視察にも同席しないものかと」と続ける。

「御子息がいらっしゃるとは知らなかったよ。ありがとう」とムラサキが言うと、ターナは小さく会釈をして、半歩後ろに下がる。マルキジャンとアーレルがちょうど二人の前に止まり、紳士的な振る舞いで頭を下げた。

「いやはや、本日はこのような地にまでご足労頂いて、誠にありがとうございます」

 マルキジャンは溌剌とした声で挨拶し、はっはっはと大声で笑った。アーレルも笑顔のまま前で手を組み、不慣れな調子で会釈するように何度も頭を下げる。細長い四肢をぎこちなく動かす姿を見ていると、ムラサキの脳裏に、獲物との距離を図るために体を揺らすカマキリの姿が浮かんだ。

「おい」

 マルキジャンの声が急に低く、小声になる。

「お前は、運転手さんを駐車場まで案内して差し上げろ」

 マルキジャンはキッとアーレルを睨みつけて、指図するように顎を動かした。アーレルはそんな父親を睨み返して、返事ではなく舌打ちをする。「…のくせに、偉そうに」と、ぼそぼそと呟く声が聞こえた。

「…あぁ、すみません。駐車場は少し離れた場所にありますので、俺が案内します」

 アーレルは素早く態度を変えて、急あつらえの不自然な笑みを見せた。車の運転席を覗き込み、指で方向を示しながら簡単な説明を済ませると、アーレルは森の中へと走って行く。獣のような低い音でエンジンが唸り、ムラサキ達の乗っていた車もゆっくりとその後を追った。

「…では、ムラサキ様、ターナ様。立ち話もなんですから、我々も中に入るとしましょう。どうぞこちらへ。館内をご案内致します」

 そう言ってマルキジャンは背を向ける。すると社屋の方ではなく、その周囲をぐるりと囲う茂みに向かって歩き始めた。ムラサキとターナは揃って古城へと目を遣ってから、お互いの顔を見合わせる。視線を伝って、簡単な情報が二人の間を行き来する。

「失礼ですが、マルキジャン様。入り口はこちらでは?」

 ターナが訊ねると、マルキジャンは禿げ上がった頭をぽりぽりと掻いて振り返った。にっこりと白い歯を見せるが、それは先程の愛想を振りまくようなものとは違う、どこか自嘲気味で、困窮の混じったような笑顔だった。

「恥ずかしい話ですが、老朽化で建物自体の建付けが悪くなっておりまして。その…正面玄関の扉が動かなくなってしまったのです。申し訳ありませんが、本日は裏口からお入りください」

「ちなみに、それはいつ頃から?」

 ムラサキがそう訊ねると、マルキジャンは一層バツの悪い顔になった。

「いやぁ。いつ頃からだったか、正確には覚えておりませんが…」

 ムラサキは顔を上げて、今一度、社屋をよく観察した。黒いレンガの継ぎ目からは植物の芽が顔を出し、どこが始まりともつかない深緑の蔦が城全体に絡みついている。大きな玄関の門は鋼鉄製で、すっかり赤茶色の錆に覆われている。見ているだけで、扉が地面を引きずる音と、蝶板がキィキィと擦れ合う、鋭い金属音が聞こえてくるような気がした。なるほど、あれだけの大きさがある上に建付けも悪いとなれば、門を開閉するのも一苦労に違いない。

「お見苦しい点ばかりで、申し訳ございません」

 ムラサキの視線に気づいたマルキジャンが、額の汗を光らせながら苦笑する。しまったな、とはっとして、ムラサキは笑顔を作る。

「いえ、歴史ある建物には、相応の風格があるものです。さっそく館内を見せてください、マルキジャン」

 咄嗟に並べた言葉にしては悪くない、とムラサキは内心で自分を褒める。「いやはや」とくすぐったそうに目尻の皺を深くするマルキジャンは、心から喜んでいるようにも、心から恥じているようにも見えた。

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