世界を照らす銀の月

青花

プロローグ

 しっとりとした感触の柔らかいシートに腰掛けながら、クララベルは外の景色を眺めていた。ガラス張りの摩天楼が青い空と小さな雲を反射しながら、車の速度に合わせてゆっくりと流れていく。ビルとビルの合間の狭い空から、悠々と浮かぶ本物の雲が窮屈そうに顔を出した。いつの間にか、街は鉄とコンクリートで出来た高層ビルがいくつも立ち並ぶようになった。

 それでも、昔と変わらない、豪華な装飾がちりばめられた尖塔や、石材で作られた気品のある建物もまだまだ街には残っている。白いレンガを積み上げて作られた、古く、美しい教会を眺めていると、クララベルは胸に微かな暖かさを感じた。

 育った時代のせいだろうか。クララベルにとっては、建築技術の粋を結集した最新の高層ビルよりも、古い時代に作られた、荘厳で歴史ある建物の方が、よほど好ましく感じられた。

 だが、いくら昔が懐かしいからと言って、新たに生まれた文化や技術の全てを否定するのは良い事ではない。空をかち割るような尖塔こそ持たないが、直線的な屋根を持った幾何学的な建物は間違いなく機能的だ。クララベルはビルの屋上に掲げられた、巨大な化粧品メーカーの広告を見つめる。そこにはよく慣れ親しんだ顔と、見る者の目を惹くために書かれた綺麗な文言が飾られていた。

「肌に輝きを与える、美しさの新次元」

 美しく、細いフォントで書かれたキャッチコピーの隣で、その文言通り、輝き、透き通るような肌の美しい女性―そうと知らなければ、誰もが女性としか思わないであろう可愛らしい男の子―が、妖艶な笑みを浮かべている。

「最近は、意欲的に活動しているようですね」

 クララベルがそう呟くと、運転手の女性がハンドルを切りながら「ムラサキ様ですか」と答える。

「髪を下ろされているのは、なんだか新鮮ですよね」

 運転手はちらりと広告に目を遣った。広告に写るムラサキは、艶やかな黒髪を肩ほどまで下ろしている。

「普段よりも、少し大人びて見えます」

 普段のムラサキはもっと子供らしいというか、若さを謳歌する十代のような、未熟で若々しい姿が印象的だった。とはいっても、彼が本当に十代であったのは少し前の事になるが。髪を二束に下ろした姿は愛らしいとも言えるが、彼本来の年齢を考えれば、年不相応であるとも思えた。

「あの髪型は彼自身では無く、オズワルドが好んでいたそうですよ」

 クララベルが静かに言うと、運転手はハッとした顔をして「失礼致しました」と素早く口を結んだ。雰囲気を悪くしないよう、クララベルは話題を変えることにする。

「最近では、広告や雑誌だけでは無く、映画やドラマ出演の仕事まで持ち上がっているようですよ」

 クララベルがそう言うと、運転手は「えっ」と少し驚いてから

「ムラサキ様ご本人は、そういう事にはあまり積極的では無さそうですが…」

 と、苦笑まじりに答えた。クララベルもそれにつられるようにくすくすと笑う。

「僕は役者じゃない、と困り果てていましたわ。ですが、私としては、新たな仕事に手を広げることも悪い事ではないと考えています」

「もしかして、勧められたのですか?」

 運転手は苦笑いを浮かべたまま、クララベルに訊ねる。

「ええ。そういった活動も、重要な職務に違いありません」

 それを聞くと、運転手はくっくと笑った。クララベルも微笑み、ルームミラー越しに目を合わせる。

「クララベル様に言われれば、ムラサキ様も断れないでしょうね」

 運転手はムラサキに同情するような調子で言う。

「まぁ、そのような事はありません。意外と、ムラサキは私に対して物を言うのですよ?」

「本当ですか?」

「ええ。彼と私は良き友人ですから」

 変わらない調子でにこやかに話すクララベルに、運転手は一瞬、驚いたような顔をする。

「それは、きっと素晴らしいご関係なのですね」

「意外に思われますか?」

 運転手が無難な答えを探したように見えたので、クララベルは少し意地悪な質問をしてみる。

「あっ、いいえ、そのような事は。…ただ、クララベル様のような方に、気の置けないご友人がいらっしゃるというのは、その、あまり想像ができなかったものですから」

「皆、私を買いかぶり過ぎなのです」

 運転手の遠慮がちな態度に、クララベルは内心で物足りなさを感じた。「友達がいたんですか」とか「友人にしては、彼をこき使い過ぎではありませんか」とかいった、一歩踏み込んだ返答を心のどこかで期待していた。

 クララベルは再び窓の外を眺める。車はいつの間にか街の中心を抜けて、郊外へ続く道を走っていた。都市部からの距離に比例するように、民家のと民家の間隔が少しずつ広くなっていく。




 そうして小一時間も走れば、先程まで見ていた背の高いビルはどこかへと消えてしまって、代わりに窓の外の景色は、一面の広大な小麦畑へと変わっていた。太陽の光が燦々と降り注ぎ、黄金色の穂が目に眩しかった。作り物のように青い空には、ちぎられた綿にも似た白い雲がいくつも浮かんでいる。

「のどかな眺めですね」

 クララベルは目を細めて、はるか遠くの雲を見つめた。やはり都会の狭い空よりも、田舎の広い空の方が良い。幼い頃に見た景色と同じ、のどかで穏やかな風景を眺めていると、クララベルの胸に暖かみと懐かしさが広がっていく。しかし同時に、心の奥底にちくりと痛みが差した。

「クララベル様、例の施設が見えてきましたよ」

 運転手に声を掛けられて、クララベルはふと現実に引き戻される。正面の窓から道の先を見れば、小高い緑色の丘の上にレンガ造りの、白く小さな建物が目に入った。

 尖った屋根の先端には、左腕を高々と掲げる聖ストセフラの彫像が飾られていた。

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