氷獄感染 ―ブルーアイス・サバイバー

桃神かぐら

第1話 氷が解ける音

 吹雪がやんだ。

 サハ共和国オイミャコン地区、インジギルカ川の上流。灰色の空が低く垂れこめ、露出した永久凍土の断面が、年輪のように古い季節を刻んでいる。

 掘削隊長のエレーナ・モロゾワは、冷気で痺れる頬を手袋越しに押さえ、ドリルの回転を落とした。


「ここだ。層が変わる」

 視線の先、古い氷の層が白から青へと色を変え、どこか硝子めいていた。

「記録、タイムスタンプ」

「はい、エレーナ。−14.2m、氷温−7℃」

 ヤクートの技師セミョン・ペトロフがメモを取り、コアサンプラーをそっと差し込む。やがて、円筒状の氷が抜けた。氷の中に、褐色の繊維の束が見える。

「マンモスの皮下か……あるいは古い藻」

「幸運だな」

 彼らは、顕微鏡と携帯PCRで最低限の安全確認を済ませると、コアを凍結保存容器に収めた。国際共同研究のラベルが貼られ、その宛先には日本語が混じっている。

 ――日本・新極北特区 国際極地病原体研究機構(IPPI)BSL-4。


 エレーナは凍える息を深く吐き、氷原を見渡した。白一色の地平に、遠い雷のような微かな低音が響いている。

 氷がゆっくりと割れていく音だった。



 日本・三陸沖。海上に浮かぶ人工島「新極北特区」。

 薄い霧の朝、港ではコンテナクレーンが静かに動き、赤い危険物標識のついた小型コンテナが下ろされた。液体窒素が白い煙を吐く。目的地は島の中央部に建つ白い箱――IPPIのBSL-4施設だ。


「受け入れログ、8時42分。搬入経路クリア」

 如月沙耶はすばやくタブレットに記録を打ち込み、運搬ケースのシールに指を滑らせた。温度ロガーは所定の数値を示し、封印は破られていない。

 所長の鷹野良介が無言で頷く。無駄な言葉の少ない人だが、目はいつも緊張を濃く湛えていた。


「凍土コアは三系統。A-12、A-13、A-14……まずは電子顕微鏡。並行で細胞感染性のスクリーニングに入る」

「はい」

 如月は淡々と返事をし、陽圧スーツのバルブを確かめた。

 定められた手順、定められた速度。彼女はそれを破ったことがない。だからこそ、わずかな違和に気づく。


(……静かすぎる)

 すりガラス越しの観察窓で、培養フラスコの液面に微かな揺らぎ。寒天培地の縁に、霜にも似た白濁が走る。温度は一定、湿度も問題なし――。

「所長、これ……常温での残存活性、想定より高いです」

 鷹野が眉を寄せ、モニターに身を寄せた。

「まだ判断するな。統計が足りない」

 彼はそう言いながらも、無意識に手袋の指先に力をこめていた。



 同じ朝、人工島の南端――新極北大学の芝生では、学生たちがアイスコーヒーを手にくつろいでいた。

 医学生インターンの斎宮晶はコンビニ袋をぶら下げ、ベンチでうつ伏せになっている親友を足でつついた。


「月島悠斗、起きろ。講義、もう始まる」

「……あと五分……」

「五分でどうにかなる顔色じゃないぞ」

 悠斗はのそりと上半身を起こし、苦笑した。

「昨日から、ちょいだるくてさ。喉も痛いし、関節がズキズキ。夏風邪、もしくはインフル?」

「熱ある?」

「ある。けど、変なんだよ……寒い」

 真夏の陽射しの下で、彼の吐く息がわずかに白く見えた――ような気がして、晶は目を瞬いた。

「気のせいだ。病院行け」

「午後のバイトあるし。ほら、世は物流難の折、俺の労働も尊い」

「バカ。検査だけでも受けろ」

 悠斗は親指を立てて見せ、ペットボトルの水をあおった。



 午後。BSL-4施設の冷たく明るい実験室で、如月はマウスに対する感染性試験の初回データをまとめていた。

 コントロール群は変化なし。実験群の一匹、呼吸数低下、体温低下、摂食停止。

 早すぎる――。


「電力系オシレーション、来てます」

 設備担当がインカムで告げる。

「外の系統に瞬間的な電圧降下。施設内は保ってますが、廃液系フィルターの差圧が不安定」

 如月は即座に廃液処理室へ向かった。

 高温蒸気で滅菌されたはずのラインは、インジケーターが黄から緑へ切り替わったばかり。設計上、ここで病原体が生き残る可能性はゼロに近い。

 ――だが、配管の継手にわずかな水滴。

「凝結?」

 如月が手袋の指を近づけると、薄い霜が白く広がった。

 施設内でその温度域が生じることは本来ありえない。だが、微振動で緩んだ継手、瞬間的な圧力逆流、偶然が重なれば――。

 彼女は写真を撮り、設備担当に共有し、臨時の封止を指示した。手順は守られた。

 それでも、ほんの数ミリの隙間が、都市と地下の管網とをつないでいる。



 夕方。新極北下水処理センターの監視室では、職員が大量のアラームに辟易していた。

「また導電率か。夏は観光客増で負荷が」

「冷却塔の補給水、再生水の配分増やさないと足りないってさ」

 モニターの一枚に、小さな異常値が点る。

 誰も、そこに未知の粒子の影を見つけることはできない。


 同時刻、研究所の若手研究員が鼻をすすり、マスクを少しずらしてコーヒーをすすっていた。

「夏風邪かな」

 同僚が「寝ろ」と笑い、肩を叩いた。その人差し指は、扉のボタンに触れたばかりだった。



 夜。宗谷通り商店街は夏祭りの提灯で赤く揺れていた。ヨーヨー釣りの前で子どもがはしゃぎ、屋台の煙が漂う。

 悠斗は友人たちと合流し、からあげを頬張ったが、味がぼやけている。寒気が背骨に沿って這い上がる。

「おい、顔真っ白じゃん」

「寝不足」

 笑って誤魔化し、ふと見上げる。夜の空気に、白い息が紛れた。

 彼は自分の手の甲を見た。薄い、雪の結晶のような斑紋が浮いている。

(なんだ、これ)

 指先は冷たく、しかし掌には湿った汗。体温計は38.4℃を示しながら、身体の芯は凍えるようだった。



 新極北中央病院救急外来。

 三条陸は搬送用ストレッチャーの車輪を片足で止めた。

「次、低体温症状の50代男性。意識混濁、心拍遅い」

 救急医がモニターを覗き込んで眉をひそめる。

「こんな季節に……体温33.1℃? 機器不良か?」

「別件、若い女性。駅で倒れて顔面蒼白、吐息白い。熱は39℃」

「熱が高いのに体温が低いって、どういう……」

 医師の言葉が宙にほどける。

 廊下の奥から、別の救急隊が声を上げた。

「先生、凍傷みたいな痕があります。暖房に当てても戻らない」

 三条は口を引き結び、無線で隊員に指示を飛ばした。

「発熱と低体温が同時に出てる。搬送時はしっかり保温、吸気は加温加湿。あと、体液との接触は極力避けろ」

 彼は現場で何度も“想定外”を見た。今日も、そういう日だと直感した。



 新極北警察署地域課。

 新米三年目の巡査、白川美沙は駐車場で巡回車のドアを閉めた。無線が囁く。

「宗谷通り、騒ぎ。酔客の暴行」

「了解」

 現場に着くと、若い男が二人、路上に崩れ落ち、一人が意味不明のうめき声を上げている。

 美沙が膝をついた瞬間、男の手が彼女の腕を掴んだ。冷たい。氷袋のように。

「やめて!」

 相棒が男を引き剥がし、手錠をかける。呼気が白い。地面に落ちる涎が、息で薄く霜をまとう。

 美沙は鳥肌を抑え、マスクを押さえた。

「救急要請。意識障害、低体温の疑い」

 パトカーの赤色灯が、提灯の赤と混じり合って滲んだ。



 翌朝。

 IPPIの分析室で、如月は徹夜明けの目でグラフを追っていた。

 常温での安定性。ヒト細胞株での複製速度。低温環境での感染性上昇。

 どの線も、彼女の経験値から逸脱していた。

「如月、動物群の一部、24時間以内に失神。剖検、準備する」

 鷹野の声は低く抑えられていたが、疲労が滲んでいた。

「それから、機械系。昨日の電圧降下のログ、もう一度洗え。廃液ラインの差圧異常、原因を特定する」

 如月は頷き、封鎖記録を開いた。継手の霜の写真が、画面にひやりと映る。


 同時に、新極北下水処理センターでは、再生水の供給が最大流量に引き上げられていた。

 午後の猛暑に向け、大学の冷却塔が水を飲み込む。微細なエアロゾルが風に乗り、キャンパスの空気に溶けた。



 昼前。大学の講義室。

 晶はスライドに映る薬理学の表をぼんやり眺めつつ、机の下でスマホの通知を消した。

 SNSのタイムラインに、小さな異変が点々と増える。

〈熱中症、今年は低体温も出るってマ?〉

〈宗谷線で倒れてる人見た。夏なのに息が白いの、こわ〉

 隣の席の悠斗は、ノートにペンを走らせていたが、やがて机に額を落とした。

「おい」

「……だいじょ……ぶ」

 その声はかすれ、吐息は白く曇った。

 晶は躊躇なく立ち上がった。

「保健センター行くぞ」

「バイト、あるし」

「知らん」

 晶は友人の肩を掴んで引き起こし、その手の冷たさに息を呑んだ。人間の温度ではない。



 保健センターのベッドで、看護師が体温計を見て首を傾げる。

「……おかしいわね。耳式だと39.0℃。でも末梢の皮膚温は32℃台」

 晶は処置台の脇で、悠斗の呼吸数、脈拍、皮膚色を目で追った。

「チアノーゼあり。指尖、白斑。冷えが強い」

「救急に回す?」

「お願いします」

 看護師が電話を取る。声がやや震えている。

 窓の外で、救急車のサイレンが立て続けに鳴り始めた。



 午後の新極北中央病院は、洪水のような患者で溢れていた。

 待合の椅子には蒼白な顔、白い息。にわかに増えた倒れ込み。

 救急医は叫ぶ。

「低体温の加温を優先! 加温ブランケット、点滴は温めて。一部はICU直行!」

 三条は搬送の列を捌きながら、壁のデジタル時計を睨んだ。

 短すぎる。症状の進行が――。

 彼は一瞬だけ、去年冬に見た雪崩事故の現場を思い出した。氷と冷気が音もなく命を奪っていくあの感触が、真夏の病院に重なる。



 夕刻。新極北警察署会議室。

 スクリーンに、感染症状の速報が投影される。

「低体温、意識混濁、呼気白濁。暴行事案への出動時は、距離確保」

 衛生担当の係長がマスク越しに早口でまくしたてる。

 美沙は思わず手を挙げた。

「射撃判断は?」

「最小限だ。相手は市民だ。だが噛みつき・接触行為が見られる場合は躊躇うな。手袋とフェイスシールドを必ず」

 彼女の脳裏に、昨夜の冷たい手の感覚が蘇る。

(あれは、病気の人の温度じゃない)



 同じ頃、IPPIの緊急評価会議。

 如月はスライドに、ここ二十四時間のデータを落とし込んでいた。

 低温で感染性が顕著に上がる。常温でも安定。ヒト細胞での複製は速い。

「このウイルスは、本来の環境から解き放たれても、宿主を見つけて適応する――」

 彼女は言い切ってから、喉が乾くのを感じた。

「封じ込めは、もはや施設内だけの問題ではない可能性が高いです」

 会議室に沈黙が落ち、やがて鷹野が静かに言う。

「自治体、内閣官房に接触する。警報レベルの引き上げを要請だ」

 誰かが反射的に「風評被害が」と言いかけ、口を噤んだ。今、その言葉は軽い。



 夜。

 晶は病院の片隅でベンチに座り、ペットボトルのぬるい水を握りしめていた。

 処置室のカーテンの向こうで、悠斗が息を吸うたび、白い霧が漏れる。

 看護師が忙しく動き、医師が低い声で数値を確認する。

「体温、35.1……心拍、44……」

 晶は立ち上がりかけて、踏みとどまった。医学生だ。線を越えてはいけない。

 だが、友人の唇の紫が濃くなるのを見て、彼の中で何かが冷えて固まった。


 その瞬間、島全域にサイレンが鳴り響いた。

 低く、長い音。地の底から這い上がるような警報。

 天井のスピーカーが、人工島にいる全員に向けて無機質に告げる。


「緊急通報。新型感染症の発生を確認。全住民は屋内に留まり、自治体の指示に従ってください。外出を控え、集会を避け、飲料水の節約と加熱処理を推奨。繰り返します――」


 病院の廊下に、泣き声と怒号と、押し殺した嗚咽が重なった。

 窓の外、人工島を巡る海霧が、白く濃くなっていく。

 誰もそれを、ただの天候だと思えなかった。



 IPPIの廃液処理室。

 昼間、如月が応急的に封止した継手の仮補修は、まだ本格交換が済んでいない。

 差圧計の針が、ほんのわずかに震える。

 その向こう側――地下の管網を抜け、再生水へ、冷却塔へ、空気へ、水滴へ、皮膚へ、気道へ。

 拡散は、地図ではなく、生活の線に沿って広がる。


 宗谷通りの提灯は、今夜も赤い。

 しかし、空気は冷たく、吐息は白い。

 夜の島に、氷が解ける細かな音が満ち始めていた。


この“氷の感染”の行方を、ぜひブクマで追ってください。

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