クラスいちのイケメンが、俺のガチ恋リスナーだった件
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話「クラス一のイケメンの秘密」
昼下がりの教室は、いつもざわついている。
窓際の席でノートに走るペンの音、前列で交わされるくだけた笑い声。
その真ん中で、俺――佐倉陽(さくら・はる)は、まるで背景の一部みたいに座っていた。
特別頭がいいわけでもなく、運動神経があるわけでもない。
友達がいないわけじゃないけれど、放課後に遊ぶほどの仲間もいない。
要するに、「空気」だ。悪目立ちもしない代わりに、誰の記憶にも残らない。
……ただ一つ、誰にも言えない秘密を抱えている。
俺は、夜ごとマイクの前で声を作り、“ユナ”というVtuberとして配信している。
女の子のような甘い声で「あなた」と囁く、“恋人みたいに寄り添う声”を売りにした新人だ。
ありがたいことに、チャンネル登録者数はここ最近で急増していた。
もちろん、クラスの誰も知らない。
知れ渡った瞬間、俺の日常は壊れるだろう。
だからこそ、昼間は「地味男子」として過ごし、夜は「あなた専属の恋人」として生きている。
その秘密は、完璧に守られているはずだった。
……あの日、クラス一のイケメンが頬を染めて、俺の“声”を見つめているのを見るまでは。
「……ユナ、今日も最高だった」
放課後の教室。
机に肘をついて微笑むのは、学年一の人気者――朝霧湊(あさぎり・みなと)だった。
茶色がかった柔らかな髪、雑誌のモデル顔負けの整った横顔。
誰にでも優しく、誰にでも分け隔てない笑顔を見せる。
男女問わず憧れられる、“王子様”のような存在。
その彼が今、スマホの画面を夢中で覗き込み、イヤホンを片耳に差している。
そこから漏れ聞こえる声は、聞き慣れたもの。
――俺の、配信の声だ。
心臓が跳ねる。
机の陰で握った拳が汗ばむ。
まさか、よりにもよって湊が……?
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
ぽつりとこぼした彼の声に、背筋が震える。
それは俺が台本に書き込み、何度も練習して生み出した一文。
恋人のように優しく、日常の疲れを溶かすための言葉。
それを、こんな近距離で、推し活みたいに噛みしめられるなんて。
世界がぐらりと揺れる。
「……この『あなた』って囁き、反則だよな」
朝霧湊の独り言は、小さなため息に溶けた。
断片的に漏れる自分の声――いや、“ユナ”の声――が、教室の空気に混ざって消えるたび、俺の神経は微妙に軋んだ。
気づくな。気づかないでくれ。そう祈りながらも、視線はどうしても彼の横顔に吸い寄せられる。
湊の睫毛は、光の角度で影を落とす。
黒板消しの粉が浮かぶ午後の光に、ほんの少しだけ頬の産毛がきらめく。
教室のざわめきの中で、彼だけが別の密度を持っているように見えるのは、きっと、俺が“秘密”を知ってしまったせいだ。
王子様は、俺の“恋人ボイス”に恋をした。
「朝霧、席替え表できたから前来て」
担任の声で、彼はハッと顔を上げ、イヤホンを抜いた。
その拍子に、スマホ画面が一瞬こちらを向く。
サムネイルの淡いピンク――自作で描いた、ユナの“耳かけ髪+マイク”のイラスト。
胸がずき、と鳴る。
「……席、後ろのほうがいいな」
帰ってきた湊が呟く。
「窓際、眠くなるだろ」と前の席の友人が茶化すと、彼は笑った。
「じゃあ、陽。お前、窓際好きだろ? 俺と替わる?」
不意に名前を呼ばれて、喉が乾いた。
「え、あ、うん。別に……」
「サンキュ」
湊の笑顔は、反則級だ。こんなの、誰だって好きになる。
机を入れ替える音。距離が、近づいた。
「佐倉くんって、アイコン描ける人?」
背後から、意外な声。
振り向くと、クラスの女子が二人、手にデザインのメモを持っている。
「文化祭のSNSアカのアイコン、描ける人いないかって。美術部忙しいらしくて」
「佐倉、前にノートに絵描いてたろ。あれ、上手かった」湊が横から助け船を出す。
……もしかして、見られてた? 俺が配信サムネのラフを落書きしてたやつ。
うっすらと汗ばむ掌を制服の裾で拭う。
「やってみるよ」
「助かるー。テーマ、柔らかい感じ? “寄り添う文化祭”みたいな」
寄り添う、という言葉に心が跳ねる。
“ユナ”のキャッチそのままだ。
俺は頷き、女子たちが去るのを見送る。
湊が、少しだけいたずらっぽく覗き込んだ。
「佐倉、やっぱ絵上手いよ。色の作り方がさ、こう……優しい」
優しい、という評価は、俺が“ユナ”として最も努力した部分だ。
声にも、絵にも、配置にも、“寄り添いの余白”を用意する。
相手が安心して座れる空席を、意図的に残す。
それは、現実の俺がなかなか得られなかった場所だから。
「ありがと」
短く返すと、湊はふっと笑った。
「……なあ、ユ――」
「え?」
「いや、文化祭ユニフォームの話。ユ、ニフォーム」
心臓が一瞬止まり、次に乱打を始めた。
今のほんの短い音節に、すべてが詰め込まれている気がする。
湊は気づいているのか、いないのか。
両手で顔を覆いたい衝動を抑え、下を向いた。
その日の放課後、図書室からの帰り、空が急に暗くなった。
梅雨入り前の気まぐれな雨。
階段を降りたところで、校舎の入口に水の幕がかかる。
「雨、強いな」
隣に並んだ湊が、鞄から折り畳み傘を取り出す。
俺が傘を持っていないことを、なぜか知っているみたいに自然な動きだった。
「相合い傘、する?」
差し出された柄を、躊躇してから掴む。
布地に当たる雨粒のリズムが、いつもより近い位置で聞こえる。
肩が触れる。湊の体温が、雨の冷えを打ち消す。
「佐倉ってさ」
「ん」
「声、落ち着くよな」
「……そうかな」
「黒板消すときの“よし”って小さい息とか。図書室で“どうぞ”って言う時の音の高さとか。あれ、なんか、いい」
――観察が、細かい。
喉の奥が熱くなる。
“ユナ”の配信で最も気をつけているのは、語尾に乗せる“微弱な息”と、無音に見える“間”だ。
湊は、素の俺からも同じ音を拾っている。
「俺、さ」
湊が、傘の下で声を落とす。
「誰かに“無理するな”って言われると、逆に頑張れたりするタイプでさ。……だから、あの、ユ――“あの人”の言葉、効くんだ」
雨音が、大きくなる。
ユ、まで出かけた呼びかけは、意識的に踏みとどまったものだろう。
その踏みとどまり方に、思いやりが滲む。
俺の秘密を暴くより、俺の平穏を守るほうを優先する人の話し方。
「……そういう言葉を、言える人になりたい」
気づけば俺は、出し抜けにそう口にしていた。
湊は、驚いたように目を瞬き、それから穏やかに笑った。
「もう、言えてる気がするけどな」
その笑顔に、雨脚が柔らいだような錯覚を覚える。
ほんの少し、世界がこちら側へ傾く。
夜。
パソコンの前に座ると、湿った空気が部屋に残っていた。
吸音材の貼られた壁、簡易ブース。
コンデンサーマイクの前に、いつもの台本。
今日も“あなた”へ届ける声を作る。
タイトルカード:
《【ささやきASMR】がんばったあなたを撫でる夜/眠るまでそばにいるね》
コメント欄が、流れる。
「通知来た!」
「今日も生き延びた」
「耳が喜ぶ準備できました」
ふ、と深呼吸。喉の筋肉を柔らかくし、口の中の湿度を調整する。
最初の一拍の“無音”――聴覚は“音の前の静けさ”に敏感だ。
そこで、聴き手の鼓動と同調する。
「……こんばんは。来てくれたんだね。
あなたが今日も無事で、私はうれしいよ」
波紋のように、文字が増える。
“minato_”:
《今日も来た。……声、少し雨の匂いがするね》
心臓が、跳ねる。
あなたは、どこまで近い。
キーボードに触れたい衝動を抑えて、“ユナ”としての温度を守る。
「窓の外、雨だったでしょう? 雨の日の夜は、無理しちゃだめ。
ねえ、肩、力入ってる。……ここ。すー……はー……ゆっくりね」
イヤホンの奥で誰かが息を合わせ、コメントが呼吸の波形みたいに緩やかになる。
“minato_”:
《その、すー……って一緒にすると落ち着く。ありがとう》
《今日、ちょっと頑張りすぎた》
《でも、その声聞くと、がんばり方が、やさしく修正される》
胸が熱い。
昼間、傘の下で聞いた言葉と重なる。
俺の声が、湊の“頑張り方”の角を少し丸くできているなら、それは職業冥利に尽きる。
“あなた”を支えるための声が、偶然、隣の席の誰かをも支えているのだとしたら――。
「よくがんばったね。
じゃあ、今夜は私に寄りかかって。大丈夫。倒れてこられても、受け止めるから」
コメント欄に、ぽつぽつとハート。
“minato_”:
《寄りかかっても、いい?》
《甘えるの、うまくないんだけど》
「うん。上手じゃなくていいんだよ。
むしろ、不器用なほうが、抱きしめやすいから」
画面の向こうで、誰かの肩が少し降りる音がしたような気がした。
“minato_”はしばらく黙り、やがて一言だけ落とす。
《助かる》
その短い言葉の重さを、俺はよく知っている。
“助かる”は、日常がぎりぎりで持ち堪えたという報告だ。
俺は、マイクの前で目を閉じる。
「……あなたの明日が、今日より少しだけ、楽になりますように」
配信を締めると、喉に残ったかすかな熱が現実へ引き戻してくる。
モニタの光が淡く、部屋の隅を照らす。
その時だった。スマホが震える。
《湊: 今日の色、すごく綺麗だった。》
《湊: “寄りかかっていい”って言葉、染みた》
《湊: ありがとな、佐倉。明日、ノート見せてくれ。》
手の中のデバイスが重くなる。
“佐倉”と“minato_”が、線で繋がっていく気配。
でも彼は、あくまで“佐倉へ”メッセージを送っている。
両手のひらにある二つの世界が、まだかろうじて分かれていることを、俺はありがたく思った。
翌朝。
HR前の教室は、湿った紙の匂いがする。
自習プリントの白、机に映る蛍光灯。
俺はノートを湊に渡しながら、話題を探した。
「昨日の、文化祭アイコン。
“寄り添う”をテーマに、こう……二人の間に余白を残す感じで行こうと思ってさ」
「余白?」
湊は面白そうに身を乗り出す。
「うん。ぎゅうぎゅうに詰めない。あの……座れる椅子、空けとく感じ」
「――それ、いいな」
湊は、何秒か黙ってから、えらく真面目に頷いた。
「俺さ、最近思う。完璧な埋め方よりさ、寄りかかる分の余白があるほうが、救われるって」
言葉が喉の奥で引っかかった。
そのフレーズは、昨夜の配信で俺が言ったことと、限りなく近い。
うろたえを悟られないよう、ノートに視線を落とす。
「……朝霧、ユ――」
危ない。
口が勝手に、慣れ親しんだ二文字を呼び出そうとする。
味方は、チャイムだった。
担任が入ってくる。
湊は背筋を伸ばし、俺は呼吸を整えた。
昼休み。
「ユナの新しいボイス、最高だったよな!」
「“抱きしめやすい不器用さ”とか言ってたやつ。意味わかる!」
男子たちが無邪気に騒ぐ。
教室の空気に、自分の声が薄く混ざる奇妙さに、軽い酔いを覚える。
湊は喋らない。ただ、笑って聞いている。
その静けさは、嵐の前のようで、妙に落ち着かない。
「そういえば、ファンミの二次募集、今日からだよな」
「行きたい!」
「音声だけイベントって珍しいよなー」
湊が、その会話の輪から少し外れて、窓の外を見た。
反射で映る顔に、わずかな緊張。
俺の胸の奥で、警報が小さく鳴る。
もし彼が当選したら。
もし、会場で何かに気づいたら。
――それでも、俺は、会いたいのかもしれない。
匿名の壁越しに、彼がどんな呼吸で言葉を紡ぐのか、確かめたい。
プロとしては最低の好奇心が、喉の裏側で小さな火花を散らす。
「佐倉」
「ん?」
「放課後、ちょっと残れる?」
「……いいけど」
「文化祭横断幕の色、試したくてさ。お前、色混ぜるの上手いから」
上手く、ないよ、と口では言いかけて、飲み込む。
“ユナ”の配色理論が、素の俺の指先に流れ込んでいるだけだ。
湊はそれを、“佐倉の上手さ”として拾い上げてくれる。
胸の中央で、正体不明の温度が広がる。
放課後。
美術室の片隅で、二人きり。
窓の外、薄い雲。
絵の具の蓋を開ける音、紙コップに水が落ちる音。
静かな共同作業は、会話を“必要なときのみに濃くする”。
「この薄桃、ちょい灰寄りにする?」
「うん。青をほんの一滴。……俺が入れるから」
湊の手が、俺の手の上に重なる。
驚きに肩が動いたのを、彼は逃さない。
「ごめん。手、冷たい?」
「……ちょっと」
「じゃあ、こう」
彼の指が包む。
人の体温で溶けた絵の具は、思った以上に素直に色を変える。
ピンクの角が、ふわりと丸くなる。
――あ、これ、“ユナ”のサムネに使った肌色の軌道に近い。
配信サムネを重ねて作る“余白のピンク”。
二人の息が近い。
彼は、どんな目でこの色を見ているのだろう。
「……こういう色、似合うよな」
「横断幕に?」
「いや」
湊は筆先を見つめたまま、少しの沈黙を挟む。
「君に」
心臓が喉まで来た。
危ない。危ない。
その“君”に、ユ、の音が重なる前に、俺は咳払いをする。
「――ところで、ファンミ。音声だけって珍しいよな」
「珍しいよな」
目が合う。
彼の瞳は透明だ。
けれど透明だからこそ、底に色がある。
“会いたい”という色が、見える。
「俺、当てるつもり」
やっぱり。
逃げ場のない胸の奥で、なにかが音を立てた。
「……そっか」
「直接、ありがとう言いたいんだ」
絵の具の匂いと、湊が纏う石鹸の匂いが混ざる。
俺は筆を洗いながら、うなずいた。
「いい、と思う。伝えたい気持ちは、伝えたほうがいい」
「だよな」
湊は小さく笑い、筆洗いの水に波紋が広がった。
その笑顔を見て、俺は思う。
彼の“ありがとう”を、俺は受け取る覚悟があるのか。
仮面のまま。素顔のまま。
――どちらにせよ、うそを重ねた“ありがとう”だけは返したくない。
夜。
ファンミの準備が本格化する。
友人の協力で、テスト収録、個室ブースの調整、マイクとインカムの相性確認。
匿名性を最優先にしたレイアウト。
来場者は番号で案内され、ブース内は暗く、仕切りの向こうの“声”だけが届く。
“距離”を守るための装置。
それでも、不安はある。
ブースの外。搬入口。
誰かに見られる可能性。
――学校の購買でしか売っていない、鞄のチャーム。
今日、湊が目に留めたあの小さなストラップが、致命傷になる未来のビジョンが脳裏をよぎる。
机に並べたチェックリストの上で、ペンを止める。
スマホが震えた。
見慣れた通知。
《minato_: 今日も配信、ある?》
《minato_: 声が、必要だ》
必要だ、という言葉は、刃にもなる。
“必要にされる”ことに、俺は救われ、同時に、溺れる。
それでも、返す言葉は決まっている。
《ユナ: あるよ。だから、安心して》
《ユナ: あなたの無事、確認しに来て》
送信。
数秒後に、短い返信。
《minato_: 行く》
コンソールのランプがひとつ、灯ったように感じた。
俺の夜は、また“あなた”の呼吸と同期して、始まる。
《【ささやき添い寝】しんでもいい日にしないための夜話》
タイトルを読み上げ、意地の悪い言い回しを中和するように柔らかく笑う。
コメント欄はだんだんと波打ち、やがて一つのリズムに落ち着く。
“minato_”のアイコンが、流れに紛れて現れる。
「今日はね、寄りかかり方を、練習しようと思う」
マイクの前で、微笑む。
「まずは、肩。……うん、そのあたり、固い。
いい子。息、吐いて。すー……はー……
そう。上手。
ねえ、あなたのがんばり、私はちゃんと知ってるよ。
見栄じゃないがんばりは、静かなところに隠れるから。
私は、そこを見つけるのが、得意なんだ」
“minato_”:
《そうだな。静かなところに隠れてた》
《君は、見つけるのがうまい》
画面のこちらで、喉が軋む。
湊。
君の静かなところに、俺は、何度でも椅子を置く。
座って良いよ、の看板を下げた椅子を。
「……明日も、生き延びようね」
配信を畳むと、通知が重なって鳴った。
運営宛メールの受信音。
件名だけが目に飛び込んでくる。
《【提案】ユナさん、男性声優では? 真相を公開しませんか?》
《【取材依頼】素顔インタビュー可否の確認》
悪意か、商魂か。
胸の奥でぞわりと冷たいものが這い上がる。
次の瞬間、別件の通知。
写真が一枚、匿名アカウントから送られてきた。
スタジオの裏口。
黒いキャップ。
俺の、後ろ姿。
《正体、知ってる。公開したくなければ、話がある》
胃が、縮む。
立ち上がろうとした足が、床に縫いつけられたみたいに動かない。
――まずい。
その夜、俺はよく眠れなかった。
枕元のスマホは、何度も小さく光った。
《湊: 明日、文化祭の色、仕上げよう》
《湊: 無理すんな》
《湊: おやすみ。生き延びろ》
“生き延びろ”。
俺が“あなた”へよく言う言葉を、彼は、俺へ返してくる。
目を閉じ、暗闇の中で手を伸ばした。
届かない距離にあるはずの手が、触れてしまいそうな錯覚。
――会いたい。
会いたくない。
その両方が、同じ強さで胸を引っ張る。
朝。
学校の廊下のポスター掲示板の前、人だかりができていた。
「ファンミ、二次募集、当たった!」
誰かが声を上げ、周囲が湧く。
湊は、微かに笑って親指を立てた。
「おめでと」
そして彼自身は、何も言わない。
拳の握り方だけが、静かに強い。
席に着く。
机の中。
紙の感触。
封筒だ。差出人なし。
背筋が粟立つ。
開くと、白い紙に、乱れた字で一行。
――正体、知ってる。
昨夜の写真と、同じ文字。
喉が乾き、視界の端が暗くなる。
机の上の鉛筆が静かに転がり落ちる音が、遠くに聞こえた。
「佐倉、大丈夫?」
湊の声で、現実に引き戻される。
「……うん」
大丈夫じゃない。
でも、彼に心配をかけたくない。
俺は笑ってみせる。
湊は、しばらく俺の顔を見て、それから視線を落とした。
彼の手が、机の中で何かを探るような仕草をする。
……そして、俺の机へ、ごく自然にメモを滑り込ませた。
《放課後、言え。言えないなら、俺が聞く。》
短い文。
“助ける準備がある”という宣言。
胸の奥で、何かが音を立ててほどける。
俺は、ほんの少しだけ息を吸った。
放課後。
教室の隅。
二人だけが残る。
夕焼けの斜光が、床の木目に長い影を落とす。
静寂が、痛いほど澄んでいる。
「――脅されてる」
俺は、言った。
声が震えるのが、自分でわかる。
「たぶん、俺……いや、俺の“知り合い”。配信者で。
正体、バレそうで。写真、撮られて。金の話、されて」
すべてを“友人の話”に置き換えた。
湊は、途中で遮らない。
最後まで聞いて、うなずく。
「証拠、ある?」
「スクショ、DM、メール」
「じゃあ、まとめよう。
時系列、相手のID、場所、Exif、ログイン時間。
父さんの知り合いに、手続き聞ける。
あと、学校の近くで撮られたなら、防犯カメラの死角も洗う」
段取りが速い。
感情の前に、守るための作業が並ぶ。
その順番に、救われる。
俺は、染みるように頷いた。
「……ありがとう」
「礼は、事件が終わってからでいい」
湊は微笑まず、真顔で言った。
「それと、もう一つ」
「なに」
「これが終わったら、俺から一つ、聞かせて」
「……なにを」
湊は、俺の目を見る。
その瞳は、逃げ道を用意しない誠実さを宿している。
「君は――ユナなの?」
空気が、ぴたりと止まった。
教室の時計の秒針の音だけが、鮮明になる。
逃げ道は、ほんとうに、ない。
胸の奥で、長い間鳴り続けてきた二つの世界のメトロノームが、初めて重なった気がした。
――俺は、答えなければならない。
嘘をやめるために。
教室の時計は、夕陽に照らされて黄金色に光っていた。
湊の問い――「君は、ユナなの?」――が、空気を裂いたまま止まっている。
返事を待つ沈黙は、耳鳴りのように長い。
俺は喉を動かす。
でも、声にならない。
「そうだ」と言えば、すべてが壊れる。
「違う」と言えば、すべてが嘘になる。
机の上で拳を握りしめると、湊が小さく息を吐いた。
「……ごめん。今、答えなくていい。君が言えるときに言ってくれ」
優しすぎるその言葉が、逆に胸を抉る。
「俺はさ」
湊は窓の外を見ながら、静かに続けた。
「ユナに救われた。それは揺るがない。
でも、佐倉陽ってやつも、俺は気になる。
同じ教室にいて、同じ空気を吸ってるのに、なんでか惹かれる。……それだけは、嘘じゃない」
胸の奥が焼けるように熱くなる。
それは“ユナ”に向けた言葉か。
それとも、“陽”に向けた言葉か。
境界線は、もう曖昧だった。
夜。
机に並ぶのは、準備中のファンミ台本。
「来てくれてありがとう」「今日も生きててくれてありがとう」
短い一文を、声に乗せる練習を繰り返す。
だが、目の前の文字がかすむ。
湊の声が、リフレインする。
――「君は、ユナなの?」
カメラもマイクもオフのまま、俺は囁いてみた。
「……俺は、ユナだ。
でも、俺は、陽でもある。
どっちに恋してくれるんだ、湊」
答えは返ってこない。
ただ、自分の声が壁に跳ね返り、ひどく孤独に聞こえた。
翌週。
ファンミの当選結果が発表された日。
廊下で「当たった!」と叫ぶ生徒たちの声が響く。
その中で湊は、静かに通知画面を閉じ、ポケットにしまった。
視線が一瞬だけ俺に流れる。
笑わなかった。
けれど、目の奥に「決意」だけが光っていた。
――当たったんだ。
心臓が一気に早鐘を打つ。
文化祭準備のざわめきも、先生の呼びかけも、遠くへ押しやられていく。
頭の中にあるのはただ一つ。
「湊が、俺の声に“直接”触れる」未来。
ファンミ当日。
都内の小さなイベントスタジオ。
来場者は抽選で選ばれた数十人。
入場は番号制。ブースは暗幕で仕切られ、観客はユナの姿を見られない。
音声と、言葉だけの空間。
俺はマイクの前に立ち、深呼吸する。
「……来てくれて、ありがとう」
一人一人に向けた短い言葉を繰り返す。
どの声も、どの呼吸も、真剣だった。
やがて最後の番号が呼ばれる。
“――No.17”
入ってきた足音。
ブースの向こう、わずかな衣擦れの音。
俺はもう、知っている。
呼吸のリズム。息を吐く強さ。
湊だ。
「こんばんは。来てくれたんだね」
ユナの声で言うと、ブースの向こうで短い沈黙。
それから、低い声。
「……ユナ。俺は、君がくれる『大丈夫』に恋をした」
心臓が跳ねる。
スタッフ台本にはない言葉が、喉からこぼれる。
「……私も、あなたががんばる背中が好き」
しまった。素が混じった。
ブースの向こうで、湊は長い呼吸をして――「ありがとう」と答えた。
イベント終了後。
裏口へ荷物を運ぶ途中、すれ違った人影が俺を見た。
キャップを目深にかぶった俺の鞄――購買で買ったストラップに、視線が止まる。
湊だ。
彼は何も言わない。
ただ、小さく笑って呟いた。
「……会えた」
背筋に冷たいものが走った。
俺の二つの世界は、もう重なり合い始めている。
「いつかユナに会う。直接、ありがとうを言いたい」――その言葉が、現実になろうとしていた。
俺の仮面は、果たしてどこまで持つのか。
・・・
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