鉄は脈打ち、油は息づく ― 九月の連環
2026年9月15日 大分県政記録
午後の陽光が、議場の天窓から斜めに差し込んでいた。
その光は、書類の白を黄金に染め、静かな熱を孕ませる。
本日の第一議題――県方針「大分臨海工業地帯の強化」の進捗報告。
県商工労働部の局長が壇上に立ち、硬い声で報告を始めた。
「――大分製鉄公社、操業開始から一ヶ月。粗鋼生産量、当初計画比百五%を達成。主設備の安定稼働、並びに関連工場群との供給連携も確認されました。」
淡々とした報告に、議場の空気がわずかに揺れる。
拍手は控えめだった。だが、その音には、鉄の響きに似た確かな重みがあった。
――大分の海辺に生まれた火。
その光が、ようやく夜を照らしはじめていた。
議員席のあちこちで、低い囁きが交わされる。
「臨海の鉄はようやく形になったばってん……まだ、血は通っちょらんぞ。」
「港の動線も、資材の回転もぎこちないわな。」
「結局、陸と海が噛み合わんと、鉄は積もるだけやろう。」
その声は小さくとも、議場全体を確かに震わせた。
議長が小槌を軽く打つと、静寂が戻る。
知事は立ち上がり、深く一礼した。
柔らかな声音が、場を包み込む。
「皆さん。今日の報告は、大分の歩みにおけるひとつの区切りです。
鉄は打たれ、形を得ました。しかし、それは鼓動の始まりにすぎません。
この鉄に、血を流す“道”を与えねばなりません。」
その言葉に、幾人かの議員が小さく頷く。
知事は、手元の資料を掲げた。
「次なる方針は――『石油産業』。
竹田で確認された油脈を中心に、県全域の生産・精製・輸送網を整備します。
県と民間の協働による『大分県石油公社』の設立を提案します。」
場内がわずかにどよめく。
ひそやかな吐息がいくつも交錯する。
「鉄の次は、油か……」
「臨海から内陸へ。風向きが変わるのう。」
「けんど、資金はどうする気じゃ?」
議員の一人が手を挙げた。
年配の男で、声には経験の
「知事、この案――公社とは言うが、実質、三セクでしょうな。出資比率と、運営の主導権。その線引きは、どう考えちょりますか。」
知事は微笑を保ちながら、言葉を返した。
「県が三分の一を担い、残りを民間が出資します。県は基盤を整え、民がその上に息を吹き込む。鉄を“骨”とするなら、油は“血”。 それが循環すれば、県は初めて生きる――そう考えています。」
その静かな熱に、しばし沈黙が続いた。
慧が身を乗り出す。
光を含んだ瞳が、議場の奥を見据えている。
「……県が、動脈を描く。民が、そこに血を通わせる。
これまでの二つの公社――大分工業開発会社、そして大分製鉄公社――が“形”を作った。
ならば、三つ目のこの公社は、“流れ”を作るものになるでしょう。」
その言葉に、幾人かの議員が息を呑む。
彼女は続けた。
「竹田の油は、ただの資源ではありません。
それは、この県が自ら熱を生み出す証明です。
大分の地に灯った鉄の炎――その脈動を止めぬためにも、油が、息を吹き返さねばならないのです。」
議場が静まり返った。
和巳がそっと口を開いた。
「……慧さんの言葉、胸に響きます。鉄と油。どちらも、ひとりでは立てません。けれど、支え合えば――この県は、確かに“歩き始める”のだと思います。」
その声音は柔らかかったが、静かに議員たちの胸を打った。
何人かが無言で頷き、紙を整える音が連なった。
やがて、議長が議事進行を促す。
「それでは――大分県石油公社設立案について、採決を行います。」
木槌の音が高く響いた。
賛成、多数。
午後六時五十二分、可決。
議場を出ると、夜の風が海から吹き抜けていた。遠く、臨海の煙突が白い息を吐き、その向こうの山々では、竹田の地が静かに眠りながら、まだ見ぬ油の流れを夢見ているようだった。
鉄は脈打ち、油は息づく。その循環が始まった夜、九月の空には、わずかながらも、確かな光が宿っていた。
採決は静かに行われた。
結果、満場一致で承認。
拍手は起こらなかったが、どこかで誰かが、小さく机を叩いた音が響いた。
それが、次の時代の脈動のように感じられた。
窓の外、秋風が海の方から吹き抜ける。
鉄は脈打ち、油は息づく。
その流れは、やがて土と人の心をも繋ぎ、新たな循環を描くだろう。
誰もまだ、その先を知らないままに──。
2026/9/25 大分県議会にて
秋の気配が、議場の窓を静かに叩いていた。
議会は再び開かれ、今度の議題は──“成果の確認と次なる一歩”だった。
県経済局長が淡々と報告を読み上げる。
「……これにより、県内全域の工業立地数が二割増、工場出力十五パーセント上昇。造船関連でも一〇パーセントの伸びを確認しております」
その声には抑揚がなくとも、議場の空気は少しずつ熱を帯びた。
大分臨海工業地帯を中心とする鉄と油の流れが、確かに県の“血流”を変え始めていたのだ。
ある議員が言う。
「つまり、あれやな──うちの工場群はもう、“中核”ちゅうてもええわけやろか?」
別の議員が笑いながら応じる。
「中核言うたら聞こえはええが、整備はまだ途中じゃ。建て増しも要るし、道も狭い。」
慧はそれを聞き、軽く頷いた。
「でも、それこそが“集中”の成果ですよ。無駄を削ぎ落としたぶん、これからの拡張には余白が生まれるんです。」
議員席のいくつかから、感心したような囁きが洩れる。
知事はゆるやかに立ち上がった。
「皆さんの努力に、まずは感謝を申し上げたい。──しかし、この成果は、あくまで通過点にすぎません。今、我々に求められているのは“安全保障と産業力の接続”です。」
その言葉に、場が一瞬だけ静まり返る。
軍需という言葉を避けながらも、明確にその方向を指す表現だった。
「県として、新たに“支援火器”に関する研究を開始します。これは、防衛ではなく“県民の防災と技術応用”を目的とした工業技術の発展計画です。」
慧が頷き、和巳が静かに付け加える。
「つまり、産業技術を平時の安全維持にも活かす、と。──それは、非常に良い判断かと存じます。」
議場の中で、賛同と懐疑の声が入り混じる。
「うちはええと思うで。どうせ鉄を打つなら、守る道具にもなってほしい」
「けんど、それで県が“軍事化”しよる言われたら敵わんわ」
「いやいや、防災って名目なら問題なかろうが」
そんな囁きが飛び交い、やがて笑い混じりの空気に変わっていく。
知事は議場を見回し、静かに頷いた。
「では、次に──この研究を牽引する新たな体制を提案します。県政顧問として、“産業指導者”として名高い斎藤修氏を迎え入れます。」
その名が出た瞬間、数名の議員がざわついた。
「……斎藤修? あの鉄道事業やった?」
「そう、インフラから精製まで手広い人や。」
和巳は小さく息を吸い、言葉を続けた。
「氏は、産業の連環を“動脈”として見ておられる方です。鉄も油も、結局は人を運ぶ力となる。──それを理解している人材です。」
慧は微笑み、机の上に置かれた資料を閉じた。
「なら、県の未来はもう動き始めていますね。」
採決は静かに行われた。
結果、満場一致で承認。
拍手は起こらなかったが、どこかで誰かが、小さく机を叩いた音が響いた。
それが、次の時代の脈動のように感じられた。
窓の外、秋風が海の方から吹き抜ける。鉄は脈打ち、油は息づく。その流れは、やがて土と人の心をも繋ぎ、新たな循環を描くだろう。
誰もまだ、その先を知らないままに──。
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