第19話 都市臨界 ― 善意ノ街、祈リノ臨界点

Ⅰ 夜明けの街、過剰な光


 夜の薄皮をはがしたばかりの街は、紙の白に似ていた。

 学園の屋上に立つ斎宮透花は、胸の小袋をとん、と叩く。からん。

 返事の鈴は、よく眠った子どものように澄んでいる。けれど視界の下、都市の空気は“善意”で泡立っていた。


 通りの角という角、窓という窓に、細い紙札が貼られている。

 電柱、郵便ポスト、バス停、アパートの集合ポスト、コンビニの手書き張り紙の隅にまで——。

 札には様々な書体で、こう記されていた。


「筆頭の撫で、此処に在り」

「眠りの守りを」

「斎宮透花の加護」


 もちろん、私が配った覚えなんてない。

 “SNSのまとめ”には作り方が載ってる。薄い紙、白い糸、鈴の絵、そして最後に“透花”と書けば完成。

 正規の符でも、庁の印でもない。ただの紙。けれど、人は信じる。**「善意に形を与える紙」**を。


「……私の名前、勝手に貼られてる」


 隣で風に髪を揺らす暁音が、視線だけで頷いた。

 「優しすぎる毛布は、窒息する。あなたの撫でが“祈り”に変換される速度、速すぎる」

 「撫では、眠りのための動詞なのにね」

 「街は“撫で=祈り=加護”だと思い始めてる」


 祠の鈴が学園の裏でひとつ鳴り、鳥の声が散った。

 “撫で式ブーム”の波紋は、すでに庁の計測にも触れているだろう——そう思った矢先、端末が震える。庁からの一斉通達。


【緊急告知】

市街地第三区にて祈祷群発。

群衆祈願の総和が臨界比1.02を超過。

無許可の撫で式模倣拡散により常時祈り状態を確認。

空気密度・精神同調率が危険域。臨界点筆頭チームは即応せよ。


 “常時祈り状態”。

 ——世界が、眠りっぱなしになる。


「行こう」

「もちろん」


 暁音と半歩を合わせ、屋上の階段を駆け下りる。

 鷹真はもう玄関前にいて、澪と颯が小型の祠水印と計測器を抱えていた。

 臨界点筆頭チーム。五人の足音が、朝の街に混ざる。



Ⅱ 祈リ坂、善意の森


 第三区の坂を上がると、空気は白いもやで満ちていた。

 小さな神社を中心に、札の森が生えている。

 鳥居の柱に、欄干に、砂利道の脇の石に、街路樹の幹に、コンビニの軒下に——紙札が重なり、ひらひらと呼吸している。

 ひとつひとつには、拙い祈り。


「母の腰が治りますように」

「受験に合格しますように」

「喧嘩した友達と仲直りできますように」

「臨界点筆頭の撫でに守られますように」


 透花は胸の内で、紙の角の手触りを想像する。

 角は噛む。撫でれば丸くなる。でも数が過ぎれば、丸いもの同士が押し合って、圧になる。


「精神同調率、85%……88……90!」澪の声が跳ねる。

 「流量、一定に見えてゼロだ。ずっと“祈りっぱなし”」颯がグラフを指す。

 坂を上り下りする人たちは笑っている。目は開いている。歩いている。

 でも見ていない。

 祈りの薄膜が視覚を覆い、現実に焦点を結ばせない。


「撫でるね」


 私は掌に輪を浮かべ、臍を柔らかく置く。

 撫で式・第六展開眠リ布/街

 布の帯を三枚、街の上からかける。札の角にふわりと毛布が触れる。

 ——札が、安堵でほどけていく。

 束ねられた祈りの毛玉が、光の綿に帰る。


 そのとき、逆流。

 布団を引く手の反対側から、もっとという圧が布を掴む。

 善意の群れが、毛布を奪おうとしてくる。

 「外圧1.62! 押されてる!」澪。

「寄り添う数0.58で固定、位相−π/6!」鷹真。

 私は輪をひとつ増やす。けれど、“もっと”の声は止まらない。


「——断つしかない」暁音が前へ出る。

 断ち式・三ノ太刀断善(だんぜん)

 善意の束の角だけを切る。命令の語尾を、軽いお願いに弱める。

 切り口に私は布を差し込み、眠りの滞留を短く置く。


 祈りの海は穏やかになりかけ——空が、白くなった。



Ⅲ 屋上の光、偽撫での手


 坂の向かいの雑居ビルの屋上に、巨大な陣が咲く。

 円環、鈴の紋、布の模様。……ありえない。撫で式の外形だ。

 中心に立つのは、学園の制服を着た少年。

 まだ幼い顔。だが瞳はどこか焦っていて、憧れがそのまま火になっている。


 「やっとだ。君の術を起動できた」

 スピーカー越しに、少年の声が坂じゅうに流れる。

 「この街を眠らせて守る。臨界点を超えた能力で。君みたいに」


 暁音が私を見た。

 私は首を振る。

 撫では見世物じゃない。眠りは所有じゃない。


 少年の足元で、札の海が一斉に反転した。

 文字が光に変わり、祈りが上向きに噴き上がる。

 “撫で式模倣体(ナデシキコピー)”——眠リ華(ねむりばな)。

 布の花弁が空で重なり、偽の撫でが街を包む。


 私の布と、彼の布が衝突した。

 撫で対撫で。

 眠らせたい布団と、眠らせたい布団がぶつかる。

 眠りの力は、火薬にもなる。

 中心が過熱し、坂の空気が無音になった。



Ⅳ 鏡の術、祈りの押し相撲


 音が抜けた世界の中、私は一歩だけ前へ。

 少年が私を見上げる。

 目は真剣だ。偽善じゃない。だからこそ危ない。


 「——降りてきて。話そう?」

 「話すために証明する。撫では神になる術だ。

 臨界点筆頭、君が神にならないなら、僕がなる」


 少年の陣が、明るくなった。

 札から札へ、善意が同調し、

 “尊い”という言葉が、鋭い矢になって空を満たす。


 「澪、偏向!」

 「祈りベクトル、上向き比率78%! 危険!」

 「結界、二重!」鷹真が背後で半歩を詰める。

 暁音が肩で息を整え、「断ちは端だけ。あなたは真ん中を」


 私は頷く。

 撫で式・第四展開布団返し

 布団の表裏を返し、少年の陣の角を内側へ折る。

 少年はすぐに追い返す。

 撫で×撫での押し相撲。

 “眠れ”“眠らせる”“守る”“守らせる”。

 主語の取り合いだ。


 「君は所有したがってる。街も、眠りも」

 「違う! 守りたいんだ!」

 「守るために所有してる。それは読んでるのと同じ」

 私は読まない。撫でる。眠らせる。


 少年の視線が揺れた。

 迷いの角に、暁音の刃が薄く触れる。

 断ち式・四ノ太刀断祈

 命令の形をほどく断ち。

 切り口に私は毛布を差し込み、眠りの位置を下げる。


 少年の陣がたわむ。

 だが——街の祈りが、彼の背中を押す。

 “筆頭になって”“神さまになって”“世界を守って”。

 善意の応援は、過剰を産む。


 坂の白はさらに白く、

 空はさらに無音に、

 胸の鼓動だけが、戻ってくる。



Ⅴ 臨界:血が撫でる


 私は覚悟を決め、胸の石を強く握った。

 祖父の鈴が、鐘に変わる。

 紅、水、白——三つの音が背骨で重なり、六枚の光輪が咲く。

 臨界展開。

 しかし今日は、もうひとつ足りない。速度だ。


 「数、落として」

 「……本気か」鷹真の声がわずかに荒れた。

 「寄り添う数0.58→0.56、体温同期」

 私は頷き、指先の皮を噛んだ。

 血が、一滴。

 空へ舞う。


 血が撫でた。

 街の祈りが血の塩分で落ち着く。

 身体は世界の台所だ。

 塩は舌で。撫では血で。味が整う。


 少年が目を見開いた。

 「……なんで、自分を傷つける」

「眠りは生活。式の外で保つために、身体で足りない塩を入れる」

 「君は、神じゃないのに」

 「神にならないから、できること」


 六光輪が静かに回る。

 私は撫断融合を起動した。

 撫でが布を、断ちが端を、

 数が寄り添いを、窓が速度を、

 それぞれ持ち場で支える。


 臨界展開・撫断融合慈断(じだん)

 白い布団が街全体に落ち、

 偽撫での陣は丸まり、

 “尊い”“守れ”“眠らせろ”の語尾が丸くなる。


 「……眠って。一緒に」


 少年の膝が、床についた。

 陣がたたまれ、札が白紙に戻る。

 坂の空気に音が戻った。

 犬が吠え、パン屋がシャッターを上げ、

 誰かが「おはよう」と言う。



Ⅵ 救い上げる声、ひとりの名前


 私は屋上へ上がり、少年の前に立った。

 彼は、こちらを見上げる。

 子どもの顔だ。善しかない顔だ。


 「……君は、どうしてそこまで急いだの」

 「怖かった。臨界のニュースを見て、

 祈り暴走だって、封が動くんだって、

 “臨界点筆頭なら救える”って皆が言って、

 僕も、救える人になりたかった」


 「名前、教えてくれる?」

 「……凪斗(なぎと)。二年、祓式科」

 「凪斗くん」

 私はゆっくりと言葉を置く。

 「私の名前は使い捨てじゃないけど、使い道は自由だよ。

 けどね、所有しちゃだめ。読んじゃだめ。

 眠らせるの。自分の焦りも、一緒に」


 凪斗の目に、やっと涙が浮かんだ。

 「……ごめんなさい」

 「ううん。ありがとう。札を貼った人たちも、あなたも、

 “守りたい”って思ってくれて。

 その誤差を、丸めるのが、私の仕事」


 暁音が後ろから、静かに近づいた。

 「断ちは端しか触れない。真ん中は撫でる。

 あなたには、端を見てほしい」

 凪斗は小さく頷いた。



Ⅶ 街の撫で、台所の言葉


 封眠処置のあと、チームは坂の下から上まで歩いた。

 白くなった札を一枚ずつ撫でていく。

 読まない。持ち主の願いを眠りに戻す。

 “ありがとう”の代わりに、焼きたてのパンや、湯気の立つスープが差し出された。

 灯は腹から。台所の言葉は、目に見えない角を丸くする。


 鷹真が半歩の距離で、苦笑した。

 「唐揚げじゃないのか」

 「夜、三舟ね」

 「臨界」

 「臨界」

 澪と颯が笑い、暁音が肩で笑う。

 街も笑った。笑いは鈴を鳴らさず、祠の灯だけを揺らす。



Ⅷ 報告書と、誰も神にならないという決定


 夕刻、陰陽庁で臨時会議。

 御子柴宗近、有栖川圭人、天御聖堂、そして凪斗が、報告書の前に座った。

 凪斗は自分の非を認め、模倣術式の共有ログを破棄した。

 有栖川は短く言う。「見せる守りに、“触らない祈り”を足す。見守るボタンの街配布を急ごう」

 御子柴は頷く。「撫断式は市民儀法へ。研究室は読むが、現場は撫でる。神は作らない」


 天御は椅子にもたれ、深く息を吐いた。

 「……唐揚げの屋台、うちのロビーにも出そう」

 「合意だな」御子柴が目尻で笑う。

 会議室は控えめに笑い、重い議論は台所の言葉で丸められる。



Ⅸ 医務祠、唐揚げ三舟と白い蝶


 夜。

 医務祠の机に唐揚げ三舟と牛乳二本。

 「臨界を越えましたので、補給します」

 「やった」

 箸を伸ばすと、窓から白い蝶がふわりと入ってきた。

 羽先で、短い一行。


祈リ、眠ル。次ハ“怒リ”


 「……怒りの臨界、か」

 暁音が眉を寄せる。「善の次は、逆。

 でも、怒りも眠らせられる。撫でで」

 「うん。端はお願いね」

「任せて」


 からん。胸の石は安定している。

 凪斗にも連絡を入れて、睡眠を命じた。

 “君の焦りは、眠らせる価値がある”。

 返事は素直に「はい」だった。



Ⅹ 深夜、坂の風と“見ない”技術


 眠る前に、ひとりで坂に立つ。

 白くなった札は、風で少し揺れただけで、音にならない。

 私は目を広く置く。

 焦点を作らない。読まない。

 たぶんこれが、臨界点筆頭としての“見ない技術”。


 紙を破るのは簡単だ。

 角を立てるのも簡単だ。

 でも眠らせるには、遅さがいる。

 遅さに耐えるには、台所がいる。

 牛乳と唐揚げ、笑いと睡眠、半歩とからん。

 そうやって一日を畳み、次の日をひらく。


 背後の鈴が、小さくからんと鳴った。

 ——爺ちゃん、見てた?



Ⅺ 翌朝、街の掲示と“見守るボタン”


 翌朝。

 第三区役所の掲示板に、新しい紙が三枚、角をきれいに丸めて貼られている。


『見守る祈りの使い方(入門)—鍵穴を作らず、蛇口を台所へ』

『撫断式・共同儀法(市民版)—触らないで守る』

『眠りは善/寝不足は怪異(ポスター)』


 横のスタンドには“見守るボタン”の端末。

 押すと、祠水印の青い灯が一秒だけ点滅し、「あなたの祈りは触らず届きました」と表示される。

 保育園の子が母親の手を引いて押し、満足げに頷いた。

 善は、使い方だけで、凶器にも毛布にもなる。



Ⅻ 風向き、次の臨界へ


 学園への帰り道、空気の塩味が変わるのを、舌で感じた。

 善の甘さが薄れ、代わりに熱が混じる。

 怒り、苛立ち、倦怠、疲労。

 撫で式ブームの反動で、「何も変わっていない」と嘆く声が増え始めている。


 暁音が空を見上げる。「怒りは刃にしやすい。断ちで触れれば、切ることになる」

 「うん。だから——撫でる。遅さで」

 「遅いの、嫌われる」

 「嫌われてもいい。眠れるなら」


 鷹真が半歩の距離で、いつもの調子で告げた。

 「昼、唐揚げ二舟まで。夜は一舟にして睡眠を増やせ」

 「臨界点筆頭の限界、そこ?」

「台所が崩れたら全部崩れる」

 「了解」


 笑いが風に混じる。

 坂の上の神社は、今日は何も言わない。ただ眠っている。

 眠れる街は、強い。



ⅩⅢ 夜の祠、白い蝶の二度鳴き


 夜更け、祠の鈴が二度、からん、からん。

 白い蝶が机の上の紙に二画だけ書いて消えた。


怒リ

撫デ


 読まない。

 私は指でそっと紙を撫で、角を丸める。

 “怒り”は眠りの反対に見えるけど、同じ布団で眠れる。

 撫で×断ち×数×導線——次もこれでいく。

 半歩で寄り添い、台所で温め、鈴で合図する。


 布団に潜る直前、胸の石をとん、と叩いた。

 からん。

 灯は低く、夜は深い。

 夢の底、遠い街角で、まだ見ぬ臨界が小さなノックを始めていた。



ⅩⅣ エピローグ:誰も神にならない街


 翌朝、屋上の風は軽く、空は薄い牛乳色。

 私は深呼吸して、街を見下ろす。

 札は白く、鈴は鳴らない。

 怒りの臨界へ向かう前の、五分の静けさ。


 「——神にならないで、眠らせる」

 声に出して確認する。

 隣に暁音、半歩後ろに鷹真、少し離れて澪と颯。

 私たちの距離は、あらかじめ撫でで測ってある。

 読まない。所有しない。触らず、見せる。


 何度でも言う。

 灯は腹から。

 紙は破るな。

 塩は舌で。

 半歩で、からんで、眠れ。


 そして、次の頁が、自動的にめくれる音がした。

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臨界点 桃神かぐら @Kaguramomokami

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