第27話 花嫁の名、王の名

 朝の空は、冬至の群青から一歩だけ春へ近づいた色をしていた。鐘楼の影は短く、石畳の目地に残る薄い焦げは、磨かれずに記録として置かれている。橋の中央の低い塔には、今日も花が挿された。真ん中。白い木の実のあいだに、青い露草が一本、季節を間違えて咲いていた。子どもが、温室で大事に育てたのだという。「冬に青を見る」と、板に子どもの字で書き添えがある。隅に輪。


 条約調印の日。城の広間は余白を保った飾りで満ちている。旗の布は低く垂れ、布目の粗さは帯と揃えられていた。無理に光らせないこと。長く持つこと。手で触れて温度が変わること。生活の技術が、儀礼の裏に静かに据えられている。


 セレスは療養所の白衣のまま、鏡の前に立った。肩に黒いマント――“防瘴の衣”。王から贈られた、瘴気を薄める銀糸と、穏やかな草の繊維を織り込んだ軽い外套だ。縁取りの黒は、王冠の黒金より深く見えるが、触れると柔らかい。柔らかいものは、長持ちする。肩にかかった重みは、武器の重量ではない。持続の重みだ。


 外套の内側に、いつもの木札を並べる。『朝』『食』『眠』『怖』。『和』『橋』『輪』。祭り以来、加わった『石』『置』『花』『真』『札』『水』。治療の手順と、街の手順は、今や同じ棚に入れられている。指腹の鈍さは、やはり半拍ぶん残ったままだ。残るという事実は、もう彼を惨めにしない。残っていることを前提に、設計を続ければいい。未完棚の最上段に、今日の紙を置いた。『調印の朝 呼吸の数を増やす』。隅に輪。


「似合っている」


 背後の扉の向こうから、ダントンの声。老臣は杖を軽く突き、鏡の端に映るセレスの肩を見た。「黒は、白を焦がさぬ程度の深さでなくては」


「師としての心得ですね」


「王の心得でもある」


 ダントンは笑い、杖の先を床から離して宙に一度だけ震わせた。「今日は長くせぬ。長い言葉は、甘さを薄めすぎる。——あなたの言葉は、いつもの温度で」


 階段の踊り場で、ガルドが兵の靴を点検していた。釘の減り。皮の乾き。踵の癖。楯の裏の布には輪の印。兵は刃を抜かない訓練をもう一年続けている。「抜かぬことは怯えではない」という句が、城の壁に小さく彫ってある。ガルドはセレスを見ると、短く頷いた。「今日は、私の仕事は退屈であるべきだ」


「退屈が、街を守る」


「そうだ」


 ルーメンは、廊下の窓辺で紙を風に透かしていた。爆裂符封じの配合比率ではない。今日の順番、鐘の打つ拍、陣列の流れ、署名の間隔、拍手の波の立ち上がりと減衰――音楽家の譜面に似た紙だ。彼は振り向かずに言った。「主旋律は二つ。『王の言葉』と『治癒師の言葉』。二本が重ならずに交互に響くよう、間合いを合わせた。甘いと言われるかもしれないが、そのぶん毒は薄まる」


「甘さの番人」


「舌は、今日も健康だ」


 からかうように言い、彼は小さく笑った。笑いは短い。短い笑いは、長く残る。


     *


 広場。壇は高くない。人界と魔界の医師団が、黒と白の帯を肩に斜めに掛け、未完棚の前には新しい板が立てられていた。『失敗を責めない』。輪。板の裏に、子どもの字で小さく『責めないとは、次の回を作ること』とある。


 王の玉座は、広場の端に置かれていた。置かれているが、今日、王はそこに座らない。アレクシスは玉座から降り、同じ高さでセレスの隣に立つ。普通の靴。石に小さな輪を置く音。冠はかぶっていない。黒金の王冠は、城の小部屋の机の端で、白い包帯と記録帳の冠と並んでいる。並列。混じらない。並ぶ。


 ダントンの読み上げは短い。「共同医療条約、最終条項の確認。中立治療域の設置。医師団の往来の安全の保障。未完棚の設置義務。輪の合図の標準。鈴の配布。塔の維持。花は真ん中。石は置く。手は離さない」。短い語が、釘のように、布の端に音を残す。


 アレクシスが一歩前へ。輪を胸の内で作り、声を置く。


「私は王である前に、一人の生を愛する者だ」


 去年の冬至に言った言葉を、今日はもう少し短く、もう少し生活へ引き寄せて言った。「王冠は重い。だが、黒金の冠の隣に、白い包帯と記録帳の冠を置くと、重さは分かち合われる。——番を公に認めたあの日から、私は毎朝、『怖』の札をポケットに入れる。怖さは、持ち運ぶものだ。ふたりで持てば、軽くなる」


 拍手ではなく、小さな輪が広場に広がった。輪の波。輪は拍手より静かに、しかし深く、人の胸に留まる。


 セレスが一歩前へ。防瘴の衣の黒が、白衣の白と並ぶ。彼は言った。


「私は治癒師として、あなたとこの国を診つづける。——私の診眼は、完全には戻らなかった。半拍ぶんの遅れは、今も、棚に置かれている。だから私は『教える』ことを選んだ。記録し、手を取り合う場を増やし、失敗を棚に並べた。未完は恥ではない。続けるための形だ。……患者を選ばない。今日、その約束を条文にし、印章を重ねる」


 群衆の中から、「ありがとう」という声がひとつ、低く、しかし確かに上がった。あの小鬼の親かもしれない。橙かもしれない。誰であってもいい。生活の声だ。


 医官長が巻紙を広げ、文官が朱をすり、印章が用意される。署名は二つの机で同時に進む。人界の医官長、魔界の王、治癒師の代表、看護人の代表、城下の長。印は重なり、朱の輪が紙の上で増えていく。輪は合図であり、約束の印であり、生活のための穴でもある。穴がある紙は、破れにくい。


 署名が終わると、次は承認の儀。王と治癒師が、公に“番”として承認される。ダントンが短く宣言し、ガルドが楯の角度をわずかに変え、ルーメンが紙の角を揃え、鐘の紐に結ばれた布が一度だけ揺れた。


 アレクシスは玉座へ戻らない。壇の中央で、セレスの隣に立つ。彼は胸のポケットから小さな木札――『怖』――を取り出し、セレスの掌に重ねた。セレスも自分の『怖』を取り、王の手に重ねる。札と札が、薄い音を立てて触れ合う。薄い音ほど、長く残る。


「——承認」


 ダントンの声。拍手の波が広場を満たした。今日は、拍手も許された。輪の波の上に、拍手の波が重なり、二つの波は干渉せずに、互いを支える。子どもたちが胸の鈴を鳴らさず、代わりに輪を空に描く。鐘が、祝福の音を運ぶ。去年の冬至の鐘と同じ金属、同じ縄、同じ塔。違うのは、鳴らし方と、受け止め方だ。鳴らす前に輪。鳴らしながら呼吸。鳴らし終えて布。


 アギルが療養所の端で、静かな歓声を押し殺し、手帳に短く書く。『本日 拍手許容 胸の鈴無事 輪 同時』。角の柔らかい見習いが、板の字を一行増やす準備をしている。『拍手の前に輪』。隅に輪。


     *


 式の合間に、セレスは療養所の奥へ足を運んだ。薄い壁で仕切った小部屋。小さな机が十、椅子が十。人魔の子らが混ざって座り、表紙の丈夫な帳面を開いた。表紙には、輪。文字をまだ書けない子には、線と点の練習。点は釘に、線は布に似ている。二つを重ねるのが、書くという動作の始まりだ。黒板の代わりの大きな板には、今日の言葉が三つ書かれている。『置く』『診る』『名』。


「今日は『名』から」


 セレスが言うと、子どもたちが一斉にこちらを見た。名は、怖い。奪われたことがある者にとっては、なおさら。だから、順番と距離を守る。名を呼ぶ前に輪。輪を示して、合図を待つ。合図があれば、名を呼ぶ。合図がなければ、名のかわりに、花の色や、好きな音や、朝の匂いを呼ぶ。


「名は、布だ。人に触れるための布。——名を奪うのは刃。名を呼ぶのは布」


 子どもたちの指が、机の上で輪を作る。小さな輪が十。輪の数を数えながら、セレスは心の中で、自分の名を一度だけ呼んだ。セレス、と。次に、隣の部屋から小鬼の子が顔を出す。「先生、鈴……」と胸に手をやる。セレスは微笑み、輪を作って見せる。子は、輪を真似し、背中を伸ばした。「真ん中に花」。彼は自分で呟いて、走っていく。


 教室の後ろで、アレクシスが立っていた。王でありながら、扉の影でただ見守る人。王は名を呼ばれ続ける存在だ。呼ばれることは、削られることでもある。削り過ぎないために、彼は輪を覚えた。今日、ここで彼は初めて学ぶ子どもたちと同じ高さで、輪を作る。小さな、しかし正しい輪。


     *


 広場へ戻ると、署名の最後の束が運ばれてきた。人界の孤児院宛ての支援契約書。孤児院の名は書かれているが、子どもたちの名は書かれていない。書いてはいけない。名は布だ。布は、触れる相手を選ぶ。ここで晒してはいけない。代わりに、孤児院の庭の木の名が並んでいる。「橡」「榛」「楓」「白樺」。木の名は、風を集める。子の名は、これから呼ばれるのだ。


 セレスは筆を取り、支援契約書に署名した。署名の前に、輪。輪の印を小さく隅に押し、筆を置く。アレクシスは黙って胸に手を当てた。胸の奥で、怖の札が薄く鳴る。鳴りながら、軽くなる。軽さは、二人で持つ時に生まれる性質だ。


 人界の医官長が、軽く頭を下げる。「孤児院には、医師団の見習い枠を設けたい。こちらの書式で学び、そちらの書式でも学ぶ。帯は黒と白、並列」


「花は真ん中」


 セレスが添えると、医官長は笑った。笑いは短く、しかし礼の形を取っている。


 拍手の波が再び広場を満たした。今度は短く、すぐに静けさが戻る。静けさは、恐怖ではない。温度だ。温度が低すぎると、人は刃を思い出す。高すぎると、浮かれる。適温は、人が自分の名を思い出す温度だ。


 壇の上で、ダントンが杖を軽く叩いた。「——ここで、両殿の名を、最初に、互いに呼び合っていただきたい」


 場が、わずかにざわめいた。ざわめきは、驚きではない。期待だ。名は布であり刃であることを、街は学んだ。だからこそ、名を布にする儀礼が要る。


 アレクシスが、ゆっくりと、しかし迷いなく、セレスのほうを向いた。輪を作る。合図。セレスが頷く。王は言った。


「セレス」


 短い音。柔らかく、しかし折れない音。広場に置かれたその音は、すぐに誰かの心に触れ、布になった。布になった音は、刃にならない。


 セレスは、同じ高さで、同じ距離で、輪を作り、頷いた。彼は言った。


「アレクシス」


 その名を、彼はずっと心の内で呼んできた。療養所の夜、紙の隅、湯気の上、塔の前、未完棚の前で。今日、初めて人前で、その名を呼んだ。呼ぶというのは、渡すことだ。名を渡し、受け取る。渡された名は、落ちない。輪があるから。


 群衆のざわめきが、温かく揺れた。誰も嘲らない。誰も刃を研がない。子どもたちが真似をして、「アレクシス」「セレス」と言い合い、笑い合い、輪を作る。ルーメンが肩を落として笑い、「甘い」と言いながら、紙の角を揃えた。ガルドが楯の裏の布に指を滑らせ、ダントンが杖の先を床に軽く置いた。「群青」と老人は小さく呟く。冬至の色は、名を呼ぶ時の色でもあるのだろう。


     *


 式が終わると、街はすぐに仕事へ戻った。屋台は鍋の火を落とし、療養所は昼の診療に入り、橋の塔の前では見張りの交代があった。未完棚には、今日の「未完」がもう並び始めている。『拍手の波、合図一拍早める必要』『爆裂符の封じ、予備の皿一枚不足』『孤児院支援の文言、語尾の硬さ要調整』『名の呼び合い、距離の見本、図を貼る』。隅に輪。


 セレスは、診療室で午の湯を置き、教室の黒板に新しい言葉を一つ書いた。『続く』。子どもたちが首を傾げる。


「物語はいつ終わるの?」


 誰かが問う。問うた声は、去年より少し背が伸びている。


「終わらない」


 セレスは笑った。「終わらないから、安堵する夜と、怖い朝がある。終わらないから、棚が要る。棚があるから、続けられる。……誓いは、物語の最後にある飾りではない。誓いは、日々の治療と政治の手仕事に変わる」


「手仕事?」


「布を洗う。釘を数える。札を配る。輪を作る。塔を保つ。花を挿す。名を呼ぶ。——そういう手仕事」


 子どもたちは頷き、机の上で小さな輪を作った。輪は、祈りの形でもあるが、祈りで終わらない。合図だ。合図は、動作へ繋がる。動作は、暮らしになる。暮らしは、王冠より重い時がある。


 夕方、城の小部屋には、二つの王冠が並んでいた。黒金の王冠と、白い包帯と記録帳の王冠。机の隅に、今日の紙が重なる。『共同医療条約、調印』『中立治療域、正式発足』『孤児院支援契約、署名』。輪。輪。輪。釘は少ない。釘が少ないほど、布は軽い。軽い布は、長持ちする。


 アレクシスは窓辺に立ち、外の群青の欠片を探した。冬至から日が巡るにつれ、群青は朝の空の端へ押しやられ、あるいは夕方の屋根の影に薄く残るだけになった。それでも、名を呼ぶ時の色は、心の内に残る。


「セレス」


「ここにいる」


「今日は、よく、言えた」


「言えた」


「怖さは」


「持っている」


「俺も、持っている」


 二人は笑い、短い沈黙を置いた。沈黙は薬だ。間隔が大事だ。間隔が正しければ、毒にならない。


「——手は」


「離さない」


 合図のかわりに、互いの指先で輪を作る。輪は重ならない。重ねると、形が曖昧になるから。隣り合って、空気の上に置かれる。置かれた輪は、約束の形を保ったまま、夜の温度へ沈む。


 扉が叩かれた。アギルだ。彼は控えめに頭を下げ、手帳を差し出す。「先生、明日の朝礼の議題。『名の呼び方の距離』『孤児院の書式のすり合わせ』『輪の刺繍の位置』」


「ありがとう。少し、甘いものを、配って」


「配りすぎないようにします」


 甘さの分量は、街の新しい礼法だ。ルーメンが段取りを整え、ガルドが布の結び目を確かめ、ダントンが言葉を短くする。セレスは教える。アレクシスは並ぶ。並んだ二つの王冠は、互いの重さを認め合い、どちらも地面に落ちない。


 夜、橋の塔の前に、子どもたちが板を一枚増やした。『今日、名前を呼ぶのを見た。明日、自分の名前を渡す練習をする』。隅に輪。輪の横に、小さな花の絵。真ん中。


 物語は終わらない。終わらないから、今日の紙を棚に置き、朝になったら温め直す。置き水の鉢の隣に、包帯を一巻き。釘を少し。札を束で。輪の刺繍の糸を一本。——続けるための手仕事が、城の、療養所の、橋の上の、孤児院の、屋台の、鐘楼の、あらゆる場所で始まっている。


 セレス。

 アレクシス。


 初めて人前で親しく呼ばれた名は、もう刃ではない。布だ。布は、王冠の下でも役に立つ。黒金の重さを受け止め、白い包帯の汚れを洗い、記録帳の角を柔らかくする。名を呼ぶ声は、鐘の音に混じり、群青の薄い線に重なって、街の上を渡っていく。


 誰かが、小さく言う。「花嫁さま、ありがとう」。

 誰かが、小さく応える。「王さま、ありがとう」。

 そして、みなが続ける。「石は置く。手は離さない。花は真ん中」。


 拍手は短く、輪は長く、鈴は鳴らず、鐘は祝福し、未完棚の紙はまた一枚増えた。


 大団円――と、文字にすることはできる。だが、ここからが本当の“仕事”だ。誓いは、飾りではない。日々の治療と政治の手仕事へ変わり、針で、布で、言葉で、数字で、甘さで、石で、花で、輪で、街の呼吸を支えていく。物語は、暮らしの中で続く。終わらないことを、安堵しながら。

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花嫁は患者を選ばない――魔王城診療録 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_

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