第22話 奪還戦と“手を離さない”合図

 夜を二度折り畳んだみたいな時間帯だった。鐘は鳴らず、鈴も鳴らない。城の一角で、ルーメンは膝を床に、指先を薄い紙の海に置き、数字だけが知る呼吸で世界の継ぎ目を探していた。


「——三歩分、南へずらせ。倉庫の床を打った時刻と、神殿の詠唱の拍を重ねる。穴はそこだ」


 細い鉛筆が紙の上で止まり、彼は外套の袖から白い粉を取り出した。焼いた祈祷書の灰に、割粉した石英。粉は体温を持たず、指の上で水の真似をする。広げた黒布に描かれるのは、転移陣の母型——跳躍ではない、縫合。切り開くのではなく、既にある裂け目を、こちらの都合の幅に“合わせる”。


 ガルドの小隊は息を揃えて並んでいた。鎧の紐は鳴らず、靴の釘は唇を噛んでいる。「一、二、三——」。彼らは数えない。数えるのはルーメンの役目だ。兵がやるのは、数が落ちる場所へ自分の重さを置くこと。


「陛下は」


 副官が問う。ルーメンは短く息を吐いた。「瘴気の鎖は、一枚こちらで薄めた。あとは——」


 返事の代わりに、空気が沈んだ。部屋の天井の影が、ひとつ分深くなる。深さは重力ではない。王の気配だ。アレクシスは外套の前を無造作に留め、いつもの“普通の靴”を履いたまま、扉の内側へ入ってきた。靴音が石に小さな輪を置く。輪は、鎖に似て、鎖ではない。


「行く」


 王はそれだけ言った。ルーメンは紙に指を置き直し、冷たい粉の輪に息を落とす。輪は、喉の奥で丸めた名を知らないまま、柔らかく開いた。


「跳ぶのではありません、陛下。寄せます。——“ここ”を」


 床が、滑った。足裏の石は石のままなのに、石の座標がずれる。ガルドの小隊は一歩も動かず、部屋のほうが神殿へ寄っていく。寄せる前の静けさに、ルーメンは針一本ぶんの間だけ笑みを浮かべた。「料理人の仕事は位置取りだ」と彼は誰にも聞こえない声で呟いた。


     *


 灰の神殿は、さっきよりも冷えが薄かった。さっき、と言えるほど時間は経っていないのに、温度が“人のほうへ”戻りかけている。セレスは胸骨の裏に残る裏の手の残響を、数で押さえこむ。指先の感度は鈍い。耳はいつもの半音を失い、音の縁がざらつく。


 鉛の皿の上の銀は、黒をやめて、息を潜めている。首魁は姿を消し、司祭たちが低い声で余韻を畳んでいた。畳まれた余韻は、いつでも広げられるように角が揃えられている。


 灰の幕の向こうで、空気の膜が擦れた。擦れたところから、異質な匂い——紙、蜜蝋、城の回廊の埃、油を落としたばかりの鎧の匂いが流れ込む。


 転移陣ではない。世界の縫い目を、別の部屋の布地と重ね合わせた匂い。セレスは視線を上げた。灰の床に、黒い輪が一瞬だけ見え、輪の内側の風景が、城の石壁から神殿の石壁へとすり替わる。


 ガルドが先に出た。刃は抜かない。抜かない代わりに、手の甲が前に出る。甲の骨が部屋の温度を測る。隊員たちが扇状に散り、柱の影へ腰を沈めた。音が鳴らないのに、柱の影が一度だけ細くなる。影が細くなるのは、恐れではない。覚悟だ。


「目標、中央——」


 副官の囁き。次の瞬間、空が裏返った。灰の天井に、黒い亀裂が咲く。咲いた亀裂から、音もなく何かが落ちた。翼。——王の翼だ。


 瘴気の鎖は、自分で自分を切った痕をまだ僅かに滲ませている。鎖の残骸が王の背で影を作り、その影の中から、薄い光が二筋、羽根の骨を撫でるように走っている。広げられた翼は、刃ではなかった。布だった。夜の濃淡を繕うために広げられた、巨大な布。


 アレクシスの眼は、暴風だった。色ではなく圧。見られたものが、どちら側の世界へ属すのかを、問答無用で決めてしまう圧。それが、セレスを見つけた瞬間だけ、ふっと緩む。緩む——というより、布の皺が一か所だけ馴染む。馴染む場所を知っている眼。彼は布の上に針を置ける眼だ。


「陛下、核(コア)——」


 ルーメンの声が遅れて届いた。彼は転移の縁で膝をつき、片手で紙束、片手で灰の器具を押さえている。輪の外にいるのに、輪の中心を掴む手。目は数字を数えている。核は、銀ではない。銀の下、鉛の皿の下に隠された、薄い石の板。石ではなく、骨。古い王の歯の破片で作られた、祈りの取っ手。


 セレスは、その石を見ない。見ないで、王を見る。王は彼女を見る。その間にあるのは、数本の息と、幾つかの言葉と、未完の誓い。


 彼女は手を上げた。縛縄の痕が薄く赤く、皮膚の上に新しい地図のように残っている手。親指と人差し指の腹を合わせ、輪を作る。ちいさな輪。床の輪とは違う、もっと古い輪。——手術開始。


 彼女は口を動かさず、目で言った。今だ。


 王の視線は一度だけ核の座標をなぞり、次の瞬間、翼の影がふっと薄くなった。薄くなるのは後退ではない。収束だ。彼は一歩、前に出た。歩いた? 跳んだ? どちらでもなく、間が抜けた。そこに“距離”があったはずの空間に、距離がなくなる。刹那ののち、拳が石の板に触れた。


 音がなかった。神殿の空気は、音より先に震えを飲み込む。飲み込まれた震えが、灰の幕の裏で、はじめて音になる。高すぎて人の耳に入らない音——しかし、儀式の線は、その周波数に弱い。線がほどけ、灰が宙で粉雪のように崩れ、司祭たちの心臓が同時に一拍遅れた。


 核が粉砕された。


 床の印が一つずつ、灯りを失う。鉛の皿が重さを忘れ、銀がただの銀に戻りきらない位置で躊躇した。セレスは皿に手を伸ばす。伸ばす前に、反治癒符の名残が皮膚の内側で針を立て、針の頭が「やめろ」と言った。言う権利はある。だが、聞き入れないという選択肢もある。


 男の影が、皿と彼女の間に滑り込んだ。アレクシスだ。指は素手。素手の温度は、銀を冷まさない。冷まさないように温める。彼は銀を包み、自分の胸骨の上に一拍、置いた。置いてから、セレスの掌に戻す。その間に、銀は“帰る方向”を思い出す。


「……返す」


 声は低く、短い。彼は言葉を使うのが、少しずつうまくなっている。言葉は弱点ではなく、縫い目になるのだ、と彼に教えてくれた人の顔が、目の前にいる。


「陛下!」


 ガルドの呼び声。柱の影で切り結びが起きる。司祭の一人が袖から短い印器を抜いた。刃ではない。図形の一部を物理的に押し付けて、儀式の輪を復活させる“応急措置”。副官が踏み込み、甲で手首をはたく。印器が落ち、鈍い音が石に吸われる。


 灰の主の首魁は、その場にはいなかった。だが、息が残っている。祈りの息。息は匂いを持たないが、温度の陰影を残す。柱の間、灰の幕の縁が小さく捻れて見えた。捻れは転移の兆し。普通の跳躍ではない、祭具の陰に潜ませた祭司だけの通路。


 ルーメンが即座に符を打つ。指先が空中で数を刻む。「掴めません。穴は狭すぎる。——逃げます」


 灰の主の首魁は、いなかった者として、いなくなった。捉えどころのない空白だけが残り、空白の輪郭で、彼の不在が証明される。ガルドは追わない。一拍遅れて、追わないことの重さが、隊の靴底に伝わる。ここでの仕事は、核を砕き、銀を取り返すこと。逃げた敵は“続く”。


 セレスは銀を胸に抱く。抱いた指先が、わずかに震える。震えは恐れではない。裏の手の代償。感度を捧げた手が、今、触れているのは、彼女自身の確かさ——“王冠の影に吊るされた小さな結び目”。結び目はきっと、もう前と同じ色ではない。違う色でも、結べる。


「撤収」


 ガルドの声が、神殿の床に新しい拍をうつ。隊員たちは二手に分かれ、廊下と祭具庫を制圧、残る司祭たちの手首を布で縛り、口を閉ざさせる。布は丁寧だ。痛みを広げない結び目。戦場の礼儀。ルーメンは灰の輪を巻き取り、転移の縁に自分の紙片を差す。帰るための“紐”。紐が緩むと、道が、こちらの方へ寄ってくる。


 そのときだった。


 視界が、ふっと、暗くなった。セレスは自分で驚いた。暗いのは神殿ではない。瞳の内側だ。色が、半音単位で落ちる。患者の皮膚の血の色を見分けるのに使ってきた“診眼”の、微細なレンズがひとつ、音もなく外れた感覚。脈の高さを指の腹で読む時の、ほんの一拍の遅れ。その遅れが——恐ろしい。


 恐怖は、息で小さくできる。彼女は知っている。知っているが、今回は、三呼吸を待つ前に膝から力が抜けた。床の灰が近づき、銀が胸元で小さく鳴らない音を立て、唇から出る前の言葉が舌の根で霧散した。


「セレス!」


 アレクシスの影が、彼女の視界を塞いだ。塞いだ影は重くない。重くないのに、空気が入れ替わる。彼は膝をつき、彼女の背と膝裏に腕を差し入れ、躊躇なく抱き上げた。躊躇わない——それだけで、彼の王冠の位置が正しいとわかる。


 彼女は口を開いた。声が出ない。声の代わりに、指が動く。親指と人差し指で輪を作る。さっきと同じ輪。だが意味は違う。手術開始ではない。——“手を離さない”の合図。医務室で孤児に教える、怖い処置の前に出す約束のサイン。


 アレクシスは、その輪を見た。見て、短く頷いた。頷きは、布の上で止まる。


「手は——離さない」


 初めて、言葉で告げた。


 その言葉が神殿の天井に届くより早く、空間がずれた。ルーメンの輪が閉じる直前、彼は自分の命綱の結び目を確かめ、数を二つ飛ばした。飛ばした数が、帰路の距離を短くする。距離は、恐怖の親戚だ。短いほど、弱い。


     *


 戻った先は、城の広間ではなかった。医務室の隣の廊下。置き水の棚。湯釜の匂い。蜜蝋の光。彼女の背に触れる空気が、神殿の灰より重たく、しかしやさしい。やさしさは重さに負けない。


 アレクシスは、抱いたまま扉を肩で押し開けた。中へ足を踏み入れると、ガルドが先に走り、寝台の掛け布を引く。ルーメンは輪を畳み、紙を胸に抱いたまま、なにも言わない。言葉は薄めると薬になるが、今は薄めない沈黙のほうが効く。


「置く」


 短い声で、王が言った。置くというのは、寝台に、ではない。彼女の重さを、自分の胸から、布の上へ移す。移す間、腕は約束を思い出す。約束は今しがた言葉になったばかりのものだ。言葉は薄い。薄いから、折れない。折れないよう、手の温度を一定に保つ。


 セレスは目を開けた。半分。半分で足りる。彼女は自分の指の腹を見た。わずかに白い。力が戻る前の色。戻るだろうか。戻さなければならない。戻らない未来も知っている。その未来を正面から見る前に、彼女はひとつ、笑った。笑いは、体のどこも痛めない薬だ。


「戻った。指環も」


 そう言って、彼女は銀を肩越しに差し出しかけ、思い直して胸へ戻した。「——今夜は置く。朝、温め直す」


「置き水と同じだな」


 ルーメンが小さく笑った。笑いは毒の薄め方を知る男の笑いだ。「数字も、今夜は棚に置く。朝、繋ぎ直す」


「首魁は逃した」


 ガルドが短く告げた。悔しさは混ぜない。混ぜものは刃を鈍らせる。彼は代わりに、主語を変える。「逃げさせた。——次は、追う」


「追う」


 アレクシスの声は低く、短い。短い音は長く残る。残る音の下で、彼は彼女の額に手を当てた。熱はない。ないのに、彼の掌は離れない。離れないのが、約束だ。


 セレスは、喉に溜まった霧をゆっくりと飲み込んだ。飲み込みながら、自分の内側の机に小さなカードを並べる。『診眼の鈍化』『脈取りの遅延』『声の半音喪失』。どれも、致命ではない。致命ではないが、累積する。累積は、夜に似ている。夜は、いつも来る。だから、人は置き水をする。


「……怖い?」


 彼女は自分に尋ね、同時に、誰かの問いの形を借りて王にも投げた。王は、正直に頷いた。頷きを見て、ガルドが肩をすくめる。ルーメンが紙を一枚、寝台の脇に置く。ダントンが扉の陰に立っていたのを、この時になって皆が知る。老臣は杖の先を床に軽く触れさせ、震える指で唇を撫でた。


「——“怖い”は、王冠の飾り紐でございます。ほどけやすく、結びやすい」


 老いの比喩は古いが、長持ちする。長持ちする言葉は、夜の端で役に立つ。


「陛下」


 セレスは、かすれた声で呼んだ。王は「ここにいる」と言った。返事の仕方が、以前よりうまい。返事は儀式ではない。生活だ。生活の上に、戦が乗る。戦の上に、置き水が置かれる。置き水の上に、未完の誓いが息をする。


「手は——」


「離さない」


 彼は繰り返した。繰り返すことは、薄い布を重ねることだ。布は薄いほど、重ねたときに強い。


 セレスの瞼が落ちる。落ちる直前、彼女は空気にごく小さく輪を描いた。親指と人差し指の輪。手術開始の合図であり、いまは“握った手を離さない”合図。孤児たちに教えた約束は、王に伝わり、王から城に伝わり、城から街へ伝わるだろう。伝わる途中で語彙が変わっても、輪の形は変わらない。


     *


 夜明け前、鈴は鳴らなかった。鳴らさないのが合図になる夜もある。療養所の庇の下で橙が両手を組み、鳴らない鈴を見上げている。鈴は彼に、「ここにいる」と言う。彼は頷き、胸の中でだけ三度、鳴らした。


 一、二、三。


 城壁の上で、アレクシスが東を見た。翼は畳まれ、瘴気の鎖は再び薄い線へと戻っている。戻った線は、今度は彼自身の言葉に結わえられている。「手は離さない」。言葉は鎖ではない。だが、結び目だ。結び目があれば、王冠は落ちない。落ちかけても、引っかかる小さな釘がある。釘は昨日、老臣のひと言で打たれた。


 ルーメンは机に額を当てたまま、指の節を一本ずつ曲げ伸ばした。禁術の縛鎖の削れは、あとから来る。来るものは、受ける。受けながら薄める。薄めるための数字は、朝になればまた言うことを聞く。今は、黙るのが礼だ。


 ガルドは寝ずの番を買って出て、扉の陰で目を細めた。兵の足音は遠のき、城の夜は別の夜へと折りたたまれていく。折り目は、いつも、薄い。


 セレスは眠りの底で、指の腹の鈍さを数えた。数えながら、恐怖を棚の隅に戻した。戻すたびに、矜持が少し太る。太るが、誇りにはしない。誇りは刃だ。彼女に必要なのは布だ。布と、水と、名と、呼吸の数。そして、輪——親指と人差し指で作る小さな約束。


 “手を離さない”。


 その合図は、今夜、王の腕の中で、初めて言葉になった。

 言葉は薄い。だから強い。

 薄いものは、長く保つ。

 長く保てば、戦は遅れる。

 戦が遅れれば、別の名をつけられる。


 ——療養。

 ——生活。

 ——続ける。


 未完の誓いは、今日も布の上で呼吸し、城の空に薄い光を立てた。

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