第16話 共同療養所の開設

 朝の川は、まだ名を持たない橋の下を静かにくぐっていた。城下の外れ、古い倉庫を改築した建物の前に、こぢんまりとした看板が掲げられている。


——「橋の庭 共同療養所(仮)」


 木の板に刻まれた文字は、まだ油が乾ききっておらず、陽を受けてわずかに艶を帯びる。扉の前には、魔界の看護人たちが並び、人界からの派遣隊が緊張の面持ちで立っていた。白衣の色は同じでも、生地の織り方が違い、紐の結び方が違う。違いは、最初、いつも余計な音を立てる。


 セレスは看板の位置を指で測り、地面からの高さを二度、三度と確かめた。「もう半指、上」と言えば、手早く脚立に上った若い魔族の職人が、釘を叩いて微調整する。釘の頭が板の面と揃ったとき、風が一度だけふくらみ、草のにおいを運んだ。


「開けます」ガルドが短く告げ、軋む音を押し広げるように扉が左右へ引かれた。


 中は白い。塗り直したばかりの壁が、これから吸い込むはずの声や息を待っている。窓は南に大きく、東に小さく、西には高窓がひとつ。中央の長卓には器具が並び、左手に処置室、右手に観察室、奥には小さな台所。そのさらに奥に、隔離用の小部屋が二つ。壁には、言葉の代わりに絵で意思を伝える板が掛かっている。「痛い」「水」「寒い」「家族」「怖い」「ありがとう」。絵は素朴だが、指差せば通じる。


 アレクシスは入口の狭い庇の下、外套の襟を指で弾いて、列へと視線を巡らせた。目が合った人界側の若い医師が、ぎくりとしたように姿勢を正す。彼は二十に届いたばかりだろう。瞳に残っているのは学舎の石灰の白さと、夜更けの勉強の灯の色。名をイーアンという。彼の後ろに立つ看護師は三名、三者三様の年齢と表情で、誰もが道具の配置よりまず匂いを確かめていた。病の匂いは、どの国でも同じものを連れてくる。


「本日より、ここを仮開設とする」アレクシスが言った。王という肩書の声が、ただの人の声に近い高さで発されたため、場に緊張と同時の息が流れる。「名を呼ぶための場所。帰るための場所。戦いの外側にある、もうひとつの道だ。——最初の合図を」


 小さな鈴が鳴る。鍛冶屋の子が寄贈した真鍮の鈴だ。鐘楼は恐怖を呼び、鈴は手当てを呼ぶ。音色の違いは、音色の違いだけではない。


 セレスは白衣の袖を折り、皆の顔を順に見た。「おはようございます。私はセレス。ここでは“先生”より名前で呼んでください。呼ばれたら返事をします」


「先生、のほうが落ち着く人もいますよ」人界の年配看護師が遠慮がちに言う。名札には「アグリ」とある。額の皺が笑う準備をしている。


「呼びたいように呼んで。私も、あなたの名を呼びます」


 名を呼ぶことは、血止めの最初の動作だ。そう信じている。名前は血を脈に戻す。


 最初の患者は、昨日の市で倒れた石工の男だった。背中の筋を違え、熱を出している。魔界の看護人が湿布を作り、人界の看護師が脈を測る。魔界の薬用名「水苔」を、人界の若い医師が「スフィゴニア?」と首を傾げ、看護人が「いや、スフィゴニアは別。これは——」と別の名を挙げ、さらに看護師が「あ、それなら」と納得する。言葉の継ぎ目は、うまくいくと橋になるが、うまくいかないと溝になる。


 次の患者は、熱のある女児。痙攣の既往がある。人界の医師イーアンは反射的に冷水に手を伸ばしかけ、魔界の看護人が首を振って手を押さえる。「急速な冷えは反跳する」。彼らの教本は違う章立てで同じことを言う。言い方が違うと、違うことのように見える。


 セレスは二人の手のあいだに入った。「いまは温で。足から順に」。湯の温度は指の関節で測る。関節に熱が乗りすぎていないか、爪の根で確認する。彼女の指は確かで、周りの呼吸もそれに合わせて変わる。女児の額に薄い汗が浮かび、目の焦点が戻ってくる。母親の肩から抜けた力の音が、床に静かに落ちた。


 午前は、怒鳴り声なく、しかし眉間の皺だけは増やしながら過ぎた。昼、職人たちが持ち寄ったパンとスープが卓に並ぶ。鍋のふちには刻んだハーブが沈み、人界の看護師が警戒して匂いを嗅ぎ、魔界の看護人が「毒じゃない」と笑う。笑いは塩のように、会話の不穏さを少しだけ中和する。


「午後からは“カンファレンス”をやりましょう」セレスは言った。「成功例と失敗例、両方を出します。誰が正しかったかではなく、何が働いたかを話す場です」


「失敗例……」アグリの眉がわずかに跳ねる。失敗を晒すのは、国境の有無に関係なく、誰にとっても痛い。イーアンは咳払いをして、書き付けていたノートを閉じた。「やります」


 午後。最初の症例検討は、石工の男と女児。どちらも経過はよい。だが「よい」で終わらせないのが、この場の約束だ。


「湿布の成分は?」

「水苔と、楡皮、少しの樹脂」

「樹脂は、反応で熱を持ちませんか」

「持たせるために入れた」

「そこに更に温罨法を重ねた理由」

「背部の硬直が強かったから、皮膚の上に“柔らかい重さ”を作る必要があった」


 言い切りの語尾は、むしろ少なかった。語尾に曖昧さを残すのは、逃げではない。逃げ道を作るためではなく、次に誰かが立てる仮説の場所を空けるためだ。イーアンは慎重にメモを取り、時折、顔を上げてセレスの口元の動きを追う。彼女の話し方は、手術の縫合に似ている。緩ませ、締め、緩ませる。過不足が少ない。


「女児の冷却は段階的に。全身性の冷却をしない理由」

「反跳痙攣の危険。末梢から上げていくと、呼吸器の負担が減る」

「人界教本だと、その段は“家族ができる手当”に分類される」

「よくできてる教本」


 空気は緊張していた。緊張は、刃のふちのように薄い。薄いものは、鋭いが、折れやすい。最後に、セレスは意図的に失敗例を出した。昨日、城内で処置した戦傷の縫合跡。自分の判断のどこに甘さがあったか、どの段で誰かに声をかければ良かったか。皆が言いづらいことを、先に言う。場を開く手技だ。


「質問は」

 沈黙。沈黙の後、イーアンが手を挙げた。「“置き水”とは、どういう意味ですか」


 ここに来る前、誰かから噂を聞いたのだろう。セレスは微笑した。「夜、言葉が出ない人のために、湯を用意しておくこと。患者にも、働く人にも」


 その言葉が、ほんのわずか場の硬さを和らげた。カンファレンスは、結局、最初の緊張を脱ぎきれないまま終わった。それでも、終わらせ方は悪くなかった。扉の外で皆が肩にかけた布を整え、道具の音が少しだけ軽くなる。


 帰り際、イーアンがセレスに近づいた。彼は周囲を見て、声を落とした。


「……あなたは、どちら側なんです」


 問いに潜む震えは、敵意ではなく、居場所の欠落から来るものだった。若い医師が自分の立つ床を確かめるために、先に誰かの立つ床の名を知ろうとする。セレスは躊躇しなかった。躊躇のない返答は、時に刃に見えるが、刃ではない。


「患者側」


 イーアンは視線を落とし、唇の内側を噛む。噛んだ痕に血が滲むほど、強くはなかった。彼は短く頷いて、背を向けた。その背中は、行き場を得た人間の背中になっていて、少しだけ広かった。


    *


 夜。療養所の灯は最小限に絞られ、看護人二名が交代で見張りについた。窓辺には、薄い湯気を残した茶碗が置かれている。置き水。夜気は湿り、遠くで犬が吠え、もっと遠くで笑い声が落ちる。笑いは軽い音だが、夜はそれを重くする。


 最初に異変に気づいたのは、裏手の雨樋の影だ。焚き付けの樹皮に油が塗られ、束ねた藁の芯に火が入っている。炎はまだ小さい。小さい火ほど、狡猾だ。息を潜め、人が近づくのを待つ。


 看護人の一人が匂いでそれを嗅ぎ、桶を掴んで外へ飛び出した。水をかけ、足で踏み、燃えかけの藁を広げる。広げるのは火の仕事を助けるように見えるが、息を奪うためだ。二人目が鐘を鳴らす代わりに、鈴を三度、短く鳴らす。武具の音ではない。手当ての合図だ。合図は、近くにいた市門の兵に届き、走る足音が重なった。


 火は大きくならずに済んだ。だが、残り香が強い。油は獣脂のものではなく、植物油に樹脂を溶かしたもの。人界の街角で手に入る。残った麻紐の結び方は、魔界の斥候が使う型。両方の匂いが、ひとつの夜に混じっている。


「過激派の仕業……」看護人が呟く。


「どちらの?」と誰かが問う。


「“両方”かもしれない」ガルドが暗がりから現れた。彼の声は繊維の太い麻布のように、夜気を掴む。「偽装も、示威も、試し刺しも考えられる。——痕跡は残すな。記憶だけ残せ」


 彼は火の残りに膝をつき、指で灰を撫でた。灰の温度はもう低いが、湿りが残る。「鈴を鳴らしたのは良かった。鐘を鳴らすと、噂が燃える」


 セレスは遅れて駆けつけ、焦げ跡を見下ろした。黒くなった壁に、つたない文字が炭で書かれている。「裏切り者」。別の場所には、魔族の古い符で「穢れを拒む」。書き手は二人だ。筆圧が違う。高さが違う。いずれも急いで書いているが、練度は低い。学びのある者の筆ではない。


 アレクシスが現れたのは、それからほどなくしてだった。彼は炎の跡に視線を落とし、視線だけで城から連れてきた兵に指示を飛ばす。目配せひとつで伝わる命令は、長く研がれた刃より正確だ。


「犯人は?」

「見えません。足跡は広場で散らされています」

「わざとだ」ルーメンが息を整えながらやってきた。「散らし方が稚拙だが、稚拙さも含めて“計算”に見せる意図がある」


「両陣営の過激派の可能性」ガルドは短くまとめる。


「可能性は、可能性のまま置け」アレクシスが低い声で言った。「確定は後にしろ。今夜の仕事は“続けること”だ」


 続けること。簡単そうに見えて、戦より難しいことがある。セレスは深く息を吸い、療養所の扉をもう一度、内側から押した。扉が閉まる。閉まる音は、昼間より小さい。小さい音は、長く残る。


「今夜は交代で見張ります」アグリが即座に名乗り出た。「人界から来た者の中にも残ります」


「魔界の看護人も残る」別の声が重なる。「――一緒に」


 “いっしょに”。言ってしまえば簡単な言葉が、今夜は重かった。重さのせいで、床にしっかり落ちた。床に落ちた言葉は、次の朝まで残る。


 イーアンは遅れて戻ってきた。彼は炎の跡を見て、唇を強く結んだ。「先生……いや、セレス」


「なに」


「さっきの質問の答え、わかりました」


「患者側?」


「それも。——“夜を続ける側”」


 彼の口元に、やっと年齢相応の幼い線が戻っていた。幼さは、未来の別名だ。未来は、夜に仕込む。


 アレクシスは療養所の庇の下で立ち止まり、静かに告げた。「この場所は、王の保護下にある。刃を向ける者は、王に刃を向けるのと同じだ。——ただし、剣は抜かない。剣を抜けば、物語に飲まれる。ここで使うのは、布と水と、名だ」


 ルーメンが皮肉を半分だけ混ぜて笑う。「陛下のご冗談は、今夜は温かい」


「寒くても温めろ」


「はいはい」


 火の匂いは、まだ薄く空気に混じっている。セレスは小さな桶に水を汲み、煤の文字の一部を指で擦り取った。言葉の輪郭が消え、黒が淡い灰に変わる。消すというより、薄める。ルーメンの仕事の仕方に似ている。毒は時に、薄めれば、薬になる。


「カンファレンス、明日もやる」セレスが皆に向けて言う。「失敗も、今夜のことも、書いておく。誰かが後で読むために」


「書くのは、王もか」アレクシスが問う。


「王は短く」


「得意だ」


 笑いがまた小さく起きた。笑いは、燃え残りの下に湿った土を作る。


 夜は長い。だが、長い夜ほど、人は小さな手順を守る。湯を沸かす。巡回する。名を呼ぶ。返事を待つ。返事がないときは、もう一度呼ぶ。呼ぶ声は、壁に耳を作り、床に目を作る。療養所の壁は今夜、耳と目を増やしながら、眠らずに朝を待つ。


    *


 朝。薄い光が川を渡り、看板の油は乾ききった。鈴を鳴らすと、昨日よりも音が澄んで響く。澄んだ音は、前日の濁りを引き受けた証だ。人界の看護師たちは目の下にほんのわずかの影を引き、魔界の看護人たちの肩は正しい位置に戻っている。夜を越えた肩は、昼の重みを受け止めやすい。


 最初の患者は、昨夜の火で軽く煙を吸った男だった。咳が止まらない。肺の音を二人で聞く。人界の聴診器と、魔界の薄い金属板。器具は違うが、音は同じ。湿った音。湿った音に合う薬を、両方の棚から取り、分量を合わせる。合わせる技術は、国境にない。


 午前の終わり、セレスは壁の板を一枚、新しく掛けた。そこには絵が二つ並んでいる。「夜を続ける」と「鈴」。文字は小さく、絵が大きい。指差せば、通じる。


 イーアンがその板を見て、少しだけ笑った。「先生……セレス。昨日の答え、もうひとつ」


「なに」


「“どちら側でもなく、どちら側でもある”って、ずるい気がしていました。今は、ずるくていいと思う」


「ずるさは、弱さの防水だよ」


「防水?」


「濡れても、ふやけないように」


 彼は照れくさそうに頷き、患者のほうへ駆け戻った。走り方はまだぎこちないが、足が床を信じている。床を信じる速度は、治療の速度だ。


 午後のカンファレンスは、昨日より一歩だけ柔らかった。失敗の語尾に、ひとつだけ笑いが生まれ、成功の中に「運が良かった」と言える余白が置かれた。余白は、次の失敗を小さくする。


 セレスは最後に、壁の板を指差した。「“患者側”は、ここにいる全員です。あなたが自分の手を守らないと、患者は守れない。あなたが隣の誰かを敵にすると、患者は一人増える」


 沈黙。沈黙の後、アグリが手を挙げた。「置き水、今夜は熱いままで置いていいですか」


「いいよ。夜に冷めても、朝、また温め直せばいい」


 アレクシスが扉の外で頷いていた。彼は王の顔で、庇の下に立ち続ける。「続けること」。その言葉を、昨夜よりも静かに、胸の中で繰り返している。黒檀の短剣はまだ見つからない。反逆の芽はまだ土の中にある。だが、芽の上に張られた薄布は、夜露を受け止め、朝の光を透かす。


 療養所の看板は、今日も風に小さく鳴る。鳴る音は鈴ではない。木の板が釘の上で、ほんの少し遊ぶ音だ。遊びがあると、折れない。糸にも、橋にも、心にも、同じことが言える。


 セレスは湯を沸かした。昼に沸かす湯と夜の湯は、成分は同じでも働きが違う。昼の湯は、喉の奥の言葉を滑らせ、夜の湯は、言葉の出口を温める。どちらも、ここに置いておく。置いておけば、誰かが、取りに来る。


 彼女は窓辺の茶碗を整え、名簿の新しい頁を開いた。仮名がまた二つ増え、午後には本名が一つ戻ってくるだろう。戻らないかもしれない。戻らない日も、窓辺の湯気は上がる。上がる湯気が、夜を続ける。夜が続けば、朝は来る。朝が来れば、看板の油は乾く。乾いた板に、新しい指の跡が残る。


 今日から、ここが“戻る”の練習場だ。


 戦の外側で、歩き方を取り戻す場所だ。


 鈴が鳴る。

 返事が返る。

 それで、十分だ。

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