第11話 憎悪の鐘と最初の誓い

 朝の色は、水面に落ちた墨のように静かに広がっていた。市場に並ぶ干し魚の塩が風に白く舞い、屋台の布は、夜明けの湿りをまだ手離せずにいる。まだ火の入っていない鍛冶屋の炉には黒い灰が残り、犬が伸びをして欠伸を噛み殺す。それらすべての上に、最初の一打が落ちた。


 鐘の音は、鐘音というより叫びだった。金属が軋み、空気の骨を鳴らした。広場の鳩が一斉に飛び立ち、子どもの泣き声が、遅れて立ち上がる波のように町筋を這った。


 二打目、そして三打目。打つたびに、胸の奥の古い傷に触れるような痛みが走った。誰かの喪失で、誰かの誓いで、誰かの裏切りで、こういう音は人の中に住みつく。だから忘れたふりをしても、鐘は古傷を知っている——そんな音だった。


「憎悪の鐘だ!」


 鍛冶屋の親方が吐き捨てる。市場の女たちは布を胸に寄せ、若者たちは同じ方向へ走った。城下の北端、古い鐘楼。町で生まれ育った者なら、あの鐘の鳴りに異物が混じっていると気づいたはずだ。打ち手の技ではない、鐘の外でも内でもない、もっと——悪いもの。


 セレスは手綱のように自分の呼吸を握り、走った。裙の裾が踝に絡まり、砂が靴底で鳴いた。視界の隅で、香草屋の老女が縁台に腰掛けたまま、目の奥だけで祈りを捧げているのが見えた。祈りは届く。届かないとしても、祈りは祈る者を支える。そう教えてくれたのは、彼女がまだ見習い治癒師だった頃の師だ。


 四打目。鐘の音が街路に影の筋を引いた。人々の顔がこわばる。そのこわばりは恐れより先に、誰かを指さす準備だ。憎悪はしばしば、矢筒の蓋を開ける音をして近づく。


「セレス!」


 耳の後ろで声がした。振り返らずとも、誰の声かは、胸の脈の跳ね方が教える。アレクシス。彼の脚音は石畳の上でも草原の上でも、どこかで炎が擦れるような気配を連れている。


「鐘楼に瘴気の符が仕込まれているはず。止める」


「護衛を——」


「間に合わない」


 彼女は息を詰めず、詰めることを忘れないように息を吐いた。鐘楼はもう目の前、黒ずんだ石に蔦が絡み、狭い階段は幾百の足に磨かれ、滑る。最上段の扉は半ば開き、錆が泣いている。鐘はすぐそこ、口を真下に向けて、暗い唇の中で言葉にならない音を溜めている。


 五打目が落ちる前に、セレスは鐘の内部に身を滑り込ませた。腕を伸ばす。金属の内壁は冷たく、指の腹に粉のようなものがつく。硫黄と古紙のにおい、香の焦げた匂いが混じる。たしかに、符がある。二重に貼られた札が、鐘の揺れとともに微かに揺れている。和紙の繊維が、瘴気で黒く糸のように沈んでいる。文字は、教団の刻む歪んだ聖名。発音すれば舌の先が切れる類の名だ。


 彼女は爪先で、鐘の縁に立った。指を札の端に差し込み、息を止めて、面皮だけを剝がすようにゆっくりと引く。瘴気は、動かされること自体を嫌う。勢いよく剝がせば、それは怒り、飛び散り、鐘楼に、そして下にいる人々に降る。慎重に。まぶたの裏で、数式のような祈祷文が流れる。脳に焼き付いている、師から伝えられた十二の手順。左手の中指と薬指は触れない。親指の腹は使わない。呼吸は持続しない。刻限を待たない。


「……来るな」


 階段を駆け上がってくる足音。アレクシスの足取りも、その後に続く鎧の触れる音も、彼女は遠い響きとして退けた。貼り重ねた符の下に、さらに薄い膜がある。最後の罠だ。ここで手を滑らせば、鐘は鳴り、街は憎悪の風船で満ちる。


 爪で、和紙と和紙の間を裂く。裂け目が呼吸を始める。外で、六打目のためのロープが引かれかけ、誰かの手がためらう。鐘の外で、街全体の肺が膨らみかける。セレスは二枚目の札の半分を剝がし、瘴気をやさしく殺した。祈りの最後の一音。札は静かに、ただの紙になった。


 鐘は沈黙した。外の空気が、ようやく自分の重さを思い出す。


 階段の上にアレクシスが姿を見せたとき、セレスは二枚の札を重ねて布袋に封じ、麻紐で口を縫い止めていた。刺青のように残る瘴気の痕が、指に薄い痛みを残す。彼は一歩で間を詰め、その袋を彼女の手から受け取った。目が問い、彼女は小さく頷く。


「止めた」


「よくやった」


 よくやった、という言葉は、奇妙に幼く感じられた。彼女は首を振り、鐘楼の外を見下ろす。沈黙に慣れない街が息を吐く間も与えられず、沈黙の代わりに別の音が膨らんでいる。広場の中央、高い壇が組まれ、白い衣をまとった司祭が、両手を天に向けている。彼の背後には、教団の紋章——二本の骨を交差させた上に、黒い月。誰かが時間を無駄にしていたわけではない。鐘が止まったなら、声で鳴らすだけだ。


「行く」


 セレスは階段を駆け下りた。アレクシスがすぐ後に続く。鐘楼の麓には、ガルドが部下を連れて待っていた。鋼の匂いと革の匂い。彼は眉間に深い線を刻んだまま、短く報告する。


「城門前、群集が集結。司祭は『魔王の花嫁は人界の裏切り』と宣している。血を求める声に火がつく前に、王の威を示したい。……だが」


「だが?」


「花嫁を囮には、もう二度としない」


 それは彼自身に向けた誓いだった。セレスはガルドの目に感謝の光を見る。王の護衛隊長の誓いは、壁だ。けれど壁は、外の風を知らない。彼女はその壁の向こうにある空気を、吸いに行く必要があった。


「壇に上がる。私は治癒師。敵味方を選ばないことを、彼らに言う」


 ガルドの顔が苦く歪む。「万が一、石が飛ぶ」


「飛ぶだろう」


 アレクシスが短く息を漏らした。その息は火花の色をしていた。彼はセレスの肩に手を置く。彼の手は火ではなく、火を制するための手の堅さを持っていた。


「ならば、俺が受ける」


 広場は、すでに群集心理という名の動物の息で温まっていた。人は集団になると、自分の輪郭より先に他人の輪郭を探す。そこに線が引けるなら、そこに力が生まれるなら、その線はすぐさま刃になる。白い衣の司祭は、その刃に光を誰よりも早く与える方法を知っていた。


「この街の静けさは、誰の静けさだ!」司祭の声は油だった。「魔王の花嫁は、血を裏切った! 人界の娘が、魔に膝を折る。彼女は笑い、魔王は笑う。おまえたちの子らが泣く」


 人々の胸が、怒りと不安のちょうど境界で鳴る。怒りは簡単だ。不安は難しい。簡単なほうへ足は向く。誰かが小石を拾う音。縁日で豆を掴む子どものように軽い音。軽い音の恐ろしさを、人は忘れる。


 壇の手前で、衛兵たちが列を作っていた。ガルドが手を上げる。兵たちの目がセレスを見る。彼らの目は命令を欲している目ではなく、祈りを欲している目だった。セレスは一歩、壇へ。


 壇の木は粗末で、足音はすぐに木の腹に染み込んだ。彼女は司祭の隣に並び、観客側に身体を向ける。白衣の端が風に揺れ、金の刺繍が午前の光を飲み込む。司祭の口角が、わずかに持ち上がった。彼にとっても、これは好機。群集は敵を間近に見るとき、最も熱く、最も盲目になる。彼女は盲目に語りかけるつもりで、視線を集めた。


「私は、治癒師です」


 声は思っていたよりも穏やかに出た。鐘楼で息を細く引いていたせいかもしれない。彼女の声は、広場の四つ角を順に撫で、最後に中心に戻った。


「治癒師は、敵味方を選びません。戦場であれ、路地であれ、私の前に倒れた命は、条件ではなく事実です。私は、その事実に従います」


 ざわめき。司祭が口を開きかける。その前に、セレスは言葉を置いた。言葉は石でも槍でもない。橋だ。渡ることを許さないなら、橋はただの板になる。


「誤解のないように言います。私は魔王の花嫁です。ですが——」


 石が、空気を裂いた。投げ手は若い。力は未熟で、だからこそ、石は風に裏切られながらも、まっすぐ来る。セレスは動かない。動かないことが、時に最も強い動きだと知っている。だが、石が視界の端で軌道を変えた。腕が伸び、手の甲で受けられた石は、音を立てて地に落ちた。アレクシスが、彼女の肩を抱いていた。


 彼の声は低かった。低さは威圧の形でもあるが、この時の低さは、深い井戸の底から湧く水音だった。


「我が番を傷つける者は、王に弓を引く者と同じだ」


 広場の空気が、一瞬で冬になった。司祭の目が細くなる。彼は群集を見た。群集は王の声を聞くと、己の背骨の位置を思い出す。ここに居るのはただの人間で、ただの生活者で、ただの父母であり、子であると、背骨が告げる。背骨は真実の棒だ。


「私は、魔王の花嫁です」セレスは繰り返した。その言葉を、今度は彼の腕の中から言う。「ですが、私は治癒師でもあります。私が治す命に、人界か魔界かの印はありません。あなたたちの子の泣き声も、魔族の子の泣き声も、泣き声の構造は同じです。呼吸が途切れた子には、同じ拍動を戻す。血を止め、熱を冷まし、骨を繋ぐ。私はそうしてきたし、これからもそうします」


 司祭が笑った。「美しい。だが、裏切りは覆せない。花嫁、おまえは『敵をも救う』と言って、自分が誰の味方でもないと言う」


「違います」


 セレスは、壇の縁に近づいた。足元の木が軋み、幾つもの視線が彼女の足運びを見つめる。群集の視線は刃にもなるが、火にもなる。暖を与える火にするには、燃やすべきものを間違えないことだ。


「私は、命の味方です。敵味方は、戦いが決める。治癒は、戦いが終わるたびに、あるいは戦いの最中に、戦いを超えて、ただ命の側に立ちます。私は、ここにいる誰かの父の手を握り、どこかにいる誰かの母の息を繋いできました。あなたが今朝、食べたパンは、知らない誰かの汗の上に焼けています。あなたが今夜、灯す灯は、知らない誰かの指の皮が剝けた上に灯ります。私の仕事も同じです。あなたの知らない誰かに、私は『手を当てる』。それは裏切りでしょうか」


 群集の中で、小さな子が母の裾を引いた。「おかあさん、あの人は、医者?」母は首を縦にも横にも振らなかった。大人になると、簡単に縦や横に振れなくなる。それはうしろめたさと呼ばれることもあるし、慎重と呼ばれることもある。


 アレクシスの手が、セレスの肩に置き直された。そこに重さはあったが、縛る重さではない。背を支え、胸を広げさせる重さだった。彼女は小さく息を継ぎ、言葉を続ける。


「私は、あなたたちを見捨てません。あなたたちが私を石で打つ時も、私はあなたたちの傷を縫います。私は、私を愛する人を見捨てません。私を憎む人も、見捨てません。これは、職能の誓いでもあり、私個人の誓いでもある。——アレクシス」


 彼女が名を呼ぶと、彼はわずかに顎で応えた。それだけで、彼女の言葉は体温を上げた。


「私たちは、互いを見捨てない」


 その言葉は形式ではない。式典で言う言葉ではない。壇の木材が古くなったとき、釘が錆び、表面がささくれるように、人の誓いもまた表面を掠れていく。しかしいまこの瞬間、セレスの声が置いた誓いは、まだ材木の芯に入り込む湿りを持っていた。


「互いを見捨てない」という短い誓いに、アレクシスは呼吸で答えた。声は最低限でよかった。彼の目が、彼の背中が、彼の手が、その誓いに署名した。


 沈黙。沈黙は最初、群集を落ち着かせるための布団のようだった。だが徐々に、その布団の下で、各自の心臓の鼓動が、互いに同じ速度だと気づく。誰かが手を叩いた。乾いた、ひとつ。特定の顔ではなかった。特定の階級でも、職でも、地縁でもなかった。乾いたひとつに、もうひとつが足され、三つめが、五つめが重なった。拍手の音は雨に似て、最初は誰もそれを本物の雨だと信じないのだが、濡れ始めると、みな傘を探し始める。


 司祭の顔が、雨を嫌う書物のように歪む。彼は急いで言葉を編もうとした。だが急いで編まれた言葉は、糸がつれて、穴が空く。


「欺瞞だ。花嫁、言葉で——」


 彼の言葉は途中で途切れた。アレクシスの目が、司祭の背後を見ていたからだ。背後には城門があり、その上の歩廊に、兵士たちが整然と並んでいた。彼らの矢は番えられていない。剣も抜かれていない。それでも、そこに立っていること自体が王の意志の形だった。


 ガルドが一歩前に出る。彼の声は、鍛冶屋の炉を打つハンマーの音に似ている。強く、しかし所作がある。


「鐘楼への破壊工作は阻止された。瘴気の符は没収し、封じた。城下に瘴気は降らない。これを以て告げる。我らは鐘を利用して恐怖を撒いた者たちを追う。だが、恐怖そのものに剣を振るわぬ」


 恐怖に剣を振れば、恐怖は血を吸って育つ。彼らのやり方は、恐怖を断つのではなく、恐怖の根を見せることだ。根を見せれば、人は土を入れ替えることを覚える。


 セレスは壇を降りた。拍手はまだまばらだったが、まばらは地図の緯線のように、方向を示す。彼女は壇の下で、アレクシスと向き合った。彼の手の甲には、さきほどの石の跡が薄く残り、皮膚が紅葉のように染まっている。彼女はその手を両手で包み、掌に唇を寄せた。人前での親密な仕草は、時として誤解を生む。だが、この誓いは、誤解のためでなく、理解のために行われるべきものだった。


「痛い?」


「痛みは、王の仕事だ」


「あなたは時々、格好つけすぎ」


「王は、ときどき格好をつけなければ、王の振る舞いを忘れる」


 彼の言葉に、セレスは笑った。笑いは彼女自身を軽くする。軽くなると、見えるものが増える。司祭の白衣が風で膨らみ、しかし其処に集まる信徒たちの足が一歩、二歩と後ろに下がっている。恐れからではない。考えるための距離だ。考えるには、距離がいる。近すぎるものは、わからない。


 司祭は、最後の一押しを試みた。「花嫁、そんな言葉で世界は救えない」


「救えません」セレスは即座に答えた。「言葉だけでは、救えません。だから私には手があり、仲間がいます」


 彼女は、広場の端で見守っている老女を見た。香草屋。老女は小さく頷いた。頷きは多くを語らない。だが、頷きは、誰かの疲労を半分にする。


「そして、私は王の番であり、彼は私の番です。互いを見捨てない。これは言葉であり、行いです。まずは今日は、鐘を沈黙させ、石を受け、ここに立つことから始めます。明日は、傷を縫い、熱を冷まし、あなたたちの村に残る瘴気を祓う。明後日は、教団が使った符の出どころを断ちます。世界を救う計画を、ここで全部話せと言われても、私は医者なので計画表は苦手です。けれど、今日やることは、今日やります」


 笑いが少し、雨の音に混じった。笑いは恐怖より軽く、しかし恐怖より強いときがある。司祭は言葉を失った。失うべきだった。彼は自分の言葉を研ぎすぎて、刃先が丸くなっていることに気づけない。


 ガルドが兵に合図を送ると、兵士たちは広場の出入口に散り、道を塞ぐのではなく、通していた。群集は、出口が見えると、怒りを持ち帰るか、置いていくかを選べる。持ち帰られた怒りの行き先は家族だと、誰かが言った。置いていかれた怒りは、雑草のように生える。だが今日の雨は、雑草より先に土に染みる。


 セレスが広場の端に立つと、ひとりの少年が近づいてきた。雪解け水を運ぶ夜の河のような目をしている。彼の腕には布が巻かれ、じんわりと赤い。さきほど群集の縁で転んだのだろう。


「見せて」


 少年は躊躇した。彼の躊躇は、彼の母の躊躇と同じ種類だった。セレスは膝をつき、彼と同じ目の高さになった。


「私は治癒師。敵味方を選ばない」彼女はさきほど壇の上で言った言葉を、もっと小さな声で言った。言葉は大きいほど真実になるわけではない。必要な大きさがある。少年は頷き、腕を差し出した。セレスは清めの水で血を薄め、傷口を洗い、目に見える砂粒をひとつひとつ拾い、薬草をすり潰して塗った。彼女の指の動きは、鐘楼で札を剝がしたときと同じほど慎重で、彼女の息もまた同じほど静かだった。


「痛いのは、いまだけ。これで治る」


 少年は大人のように頷いた。誇りを持った人間の頷き方で。彼は手を握りしめ、走っていった。彼の背中を追いかけるように、小さな拍手が、またひとつ、ふたつ。


 アレクシスが、彼女の横に立った。人前だということを、彼はいつも忘れない。忘れないうえで、時々、忘れているふりをする。いまは、そのふりをしないときだ。


「さっきの誓い」彼が言う。「俺は、形式的なものを幾つも交わしてきた。冠を戴く誓い、剣を掲げる誓い、血盟を結ぶ誓い。どれも必要で、どれも重い。だが——」


「いまのは、軽い?」


「軽くはない。だが、運べる。背負うものではなく、肩に置いて互いを見ることができる誓いだ」


 セレスは、彼の手をもう一度包んだ。彼は、彼女の掌の温度を確かめるように、ほんのわずか指を動かした。彼女は視線を巡らし、司祭の姿を探した。白衣はすでに人の流れの中に溶けかけている。ここで拘束すべきか。それとも尾をつけるべきか。ガルドのほうを見やると、彼は別の視線で答えた。腹に落ちる視線——「尾だ」と。


 広場の片隅で、先ほど司祭の言葉に最も強く頷いていた男が、頭を掻きながら空を見上げている。彼は今日の自分を、どう思うのだろう。恥ずかしいと思うか。腹立たしいと思うか。どちらにせよ、彼が明日のパンを焼くとき、彼の手の中に残る温度が、今日の石よりも熱いことを、セレスは願った。


 鐘楼の上空を、鳩が再び円を描いた。鳩は鐘の沈黙を確かめるために飛ぶのではない。飛びたいから飛ぶ。人間は理由を欲しがるが、命には、しばしば理由がない。理由がなくても、誓いは立つ。目の前の傷に手を伸ばす理由など、いらない。


 ガルドがやって来て、簡潔に報告した。「司祭の配下、三名を確認。ひとりは南門へ、もうひとりは市場路地へ、最後は城壁沿いに北へ。尾をつけている」


「無理はするな」アレクシスが言う。「最優先は市民の安全だ」


「ああ」ガルドは頷いた。彼の頷きは軍の頷きで、軍の頷きは、街の背骨の上に乗る。彼は撤収の合図を出し、兵士たちは自然に散開して、石畳に残った憎悪の埃を掃う。掃除は、戦いの一部だ。戦いは、埃の中にも残る。


 セレスは最後に、鐘楼へ視線を向けた。鐘の口は、いまは閉じた唇のように静かだ。だが唇は、また開くことを忘れない。誰かが悪意を仕込めば、また鳴る。だから、彼女たちは見張る。見張ることは、恐れることではない。


 彼女はアレクシスの手を取り、広場の中心へ戻った。人々はまだ散りきらず、しかし前ほど密ではない。空気には、焦げた香と、草の汁と、汗と、パンの訊ねる匂いが混じっている。匂いは混じる。混じった匂いを嗅いで生きるのが、人間だ。


「もう一度」


 セレスが囁く。アレクシスは首を傾げる。彼女は彼の手を握り直し、人々に見えるように、しかし騒ぎ立てないように、少しだけ高く掲げた。


「互いを見捨てない」


 彼の唇が、同じ言葉を形にする。声は出ない。声は出なくていい。唇の動きは、近くにいる者だけが読む。近くにいる者は、自分の心臓の鼓動で読む。


 その瞬間、広場の隅で、誰かがもう一度、手を叩いた。今度は先ほどより柔らかい音だった。柔らかい音は、長く残る。硬い音は、すぐ消える。柔らかい音は、夕暮れまで、床下の温度のように残る。


 憎悪の鐘は沈黙し、街はまだ揺れている。揺れている街の真ん中で、二人は誓いを分かち合った。形式ではない、羊皮紙にも刻まれない、祭司の印もない、しかし人が生きていくうえで最初に必要な、そして最後まで必要な、短い誓い。


 互いを見捨てない。


 その誓いは、街の四隅に目に見えない杭を打ち、そこに薄い布を張った。布は風で揺れる。雨で濡れる。冬には凍る。夏には焼ける。だが、布は布であり続ける。破れれば繕い、汚れれば洗う。誰かが引き裂こうとしても、布は布のやり方で耐える。耐える間に、人の暮らしは続く。


 やがて、午後の陽が城壁を越え、木の壇の影が長く伸びた。城門を抜ける荷馬車は、いつものように軋み、果物屋は、いつものように叫ぶ。変わらないことは、変わることより難しい。変わらないように、今日、誰かが何かを変えた。その「何か」は大きな碑ではなく、ほんの、掌ほどの約束である。


 夕刻。鐘楼の上で、見張りの兵が交代する。若い兵は空を見上げ、南の雲の形を母に似ていると思い、すぐに自分を笑う。彼は目を閉じ、耳を澄ませる。鐘は鳴らない。鳴らない音を聴く。鳴らない音は、祈りに似ている。鳴らない音は、誓いに似ている。


 その夜、セレスは城の小さな書房で、乾いた羊皮紙に短い記録を書きつけた。


——鐘楼、瘴気符(二枚重ね)。初動解除成功。城下、演説による扇動。壇上宣言、石一。王の介入、誓い確認。群集心理、分岐。拍手、萌芽。


 最後の行に、彼女は躊躇してから一文を足した。


——明日、また治す。明後日も、また治す。


 扉の外に、アレクシスの気配がある。彼は扉を叩かない。叩かないことで、彼は彼女の時間を尊重している。尊重は、愛より先にある。彼女は羽根ペンを置き、扉へ向かった。扉が開き、彼の影が床に落ちる。彼は何も言わず、ただ手を差し出した。手にある紅葉色の跡は、もう薄い。


 彼女はその手を取り、二人は窓辺へ歩いた。夜の城下が静かだった。静けさは、今日だけのものではない。鐘の沈黙は、今日だけのものではない。誓いは、今日だけのものではない。


 互いを見捨てない。彼らは、最初の誓いを反芻し、言葉にしない約束を、もう一度胸に置いた。置いた約束は、胸の骨を少し広げる。胸は広がり、呼吸が深くなる。深い呼吸は、次の戦いに必要なものだ。


 外で、風が城門の鉄を撫でた。鉄は冷たく、しかし長く保つ。布は柔らかく、すぐに傷む。人の世界は、その二つの素材でできている。鉄と布。王と治癒師。剣と手当。誓いと日常。憎悪の鐘と、鳴らない夜。


 明日、また治す。明後日も、また治す。

 そして、互いを見捨てない。

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